脂肪とはらわたと精液にくるまれた真実
劇症めいた強烈な感情がはじけ飛び、ハインは嘔吐した。視界のそこここに火花が乱れ、絶え間なく白い閃光がちらつく。
「あぐっ……ぎっ……」
執拗にフラッシュバックするのは、二度目に目撃したゼフィールの裸身だ。フルークに凌辱され、皺だらけのシーツの上に襤褸のごとく横たわるあの姿。処女性を侵犯され、嗜虐の限りを尽くされた少女の肢体が、まるで欲望の衝動を堰き止めるがごとく脳裏に現れては消えていく。
「なんだよこれ……なんで……だよっ!!」
たまらず喘ぎ悶えるベルンハルデから目をそむけた。負け惜しみのように悪態を吐き捨てた。朦朧とする思考を煩わしく思いながら、先ほど放り投げた黒曜のナイフを拾い上げ、縫合したばかりの右脚を引きずって路地裏を後にした。
これ以上、ろくでもない強者でいたくなかった。魂の抜けた表情で部屋の一角を見つめるゼフィールの姿が、不躾にも猛り狂った獣性を指弾していた。
お前は不埒な強姦魔。人に見せられたものじゃない劣情を腹の中に貯め続けてきた危険分子。
ああ、しかし興奮するってもんじゃないか。こそこそ隠れて楽しんでたあの雑誌のピンナップみたいじゃないか。いや、あんな肉がだるだるに垂れた淫売と比べるのもおこがましい。ゼフィほど高潔で淫靡な裸身の持ち主なんているはずない。だからこそだ。滲み一つない白無垢をめちゃくちゃにしてやりたくなるのは本能だろうよ。
でも気持ちいいだろうな。そりゃそうさ。魔羅いきり立たせて女のために狂えるのは、野郎だけの特権だものな。気づいた切欠があの馬鹿女なのが悔やまれるけど。
そうだ。機会があったら見てみなよ、おまえの姿をもう一度。きっとやつとはそっくりだ――――
「違う、違う、違う違う違うんだ」
うわ言のように呟き続けながら、赤く黒ずむ視界を振り回して灯りを求め続けた。海図もなしに夜の海に放り出されたような気分だった。
やがて存外早く、念願かなって開けた通りに出た。学園に通じるメインストリートや見知った路ではなかったが、とにかく今は非日常から抜け出したい一心だった。
不自然なまでに人気のない色街とはうって変わって、雨に降られて小走りになる通行人の姿がちらほらと見受けられる。その中でも目立たないよう、ハインはビルディングの壁際を伝うよう、緩慢に歩み始めた。足の調子が万全なら裏道を駆け抜けていく事もできるだろうが、この際仕方がない。
手を壁に着きながら足を引きずって、それに加えて衣服は血まみれ泥まみれのずたぼろ。不審者丸出しの恰好だなあ、とハインは思った。いまごろ雨脚を凌ぐために、再開発地帯の工事現場の資材置き場で丸まっているだろう浮浪者たちと並んでも遜色なかろう。そう、足元を見つめ続けながら自嘲した。
「おい」
はっきりした間延びしない一言に、ハインはわずかに顔を上げた。目の前で、エミリア・ハルトマンが仁王立ちしていた。一瞬、普段の不遜な顔にそぐわぬ戸惑いめいた表情で眉をひそめたように見えた。やっぱり自分は相当ろくでもないなりで闊歩しているんだろうなと、ハインはやるせなく思った。
「指定した合流地点にいねえと思えば、なに油売っていやがる。アンデルセンに嗅ぎつけられると面倒だ、さっさと退くぞ」
つかつか足早に歩み寄るエミリアを、ハインはふらりと躱して所在なげに応えた。
「部屋に帰ります」
「何言ってんだてめえは」
「帰ります……気分が、わるくて」
「今の状況わかってんのか。連中すぐさま追手を出すような野暮はしねえだろうが、グズグズしてる暇があると思うのか?」
もういやだ。
帰りたい。
吐きそうだ。
食道から、胃から、腸にいたるまで、ぶよぶよした肉の脂身のようなものが隙間なくみっちり詰まっている錯覚が、本当に気持ち悪い。吐気がおさまらない。喉の奥から耐えがたい悪臭が絶えず漂ってくるような気がする。身体が異物を体外に排除しろと、ひっきりなしに喚き散らしている。
不意にこみあげる不快感にえずき、噎せて咳きこんだ。舌の上にまで逆流してくる汚濁をエミリアに見られまいと、見栄を繕うためだけに必死で嚥下する。
「部屋で、すこし休んだら、言う事聞きます、から……」
放っておいてほしい、今は誰とも口を利きたくない。
「くだらねえ感傷に浸ってうだうだする時間なんかねえんだよ、いいから黙ってついてこい――――おい!!」
力なくすれ違って背を向けたハインに、たまらずエミリアは吠えた。
「あたしは言ったな? 死にたくなけりゃ、無駄に痛ェ思いしたくなけりゃ、見栄も体裁もかなぐり捨てて逃げてみせろと。やるからにはハンパはナシだろうがよ、テメエから当初の目的おじゃんにしてどうするつもりだ。つまらん我儘に付き合うつもりはねえぞ」
まるで保護者みたいな口調で、エミリアはつらつら並べ立てる。なんだか無性に彼女が鬱陶しかった。彼女の発する単語のひとつひとつがべっとりと鼓膜に張り付いて、それがなんだか自分の身体の隅々を撫でつけているようで、芯から震えが起きるほどにおぞましかった。自分じゃない、自分以外の他人の何もかもが厭だ。見たくないし聴きたくない、見られたくないし聴かれたくない。
「いい加減にしやがれよ」
わざと踵を打ち鳴らして背後に迫ったエミリアがハインの肩に手を伸ばし、指先が触れようとした瞬間。剥き出た神経に氷を押し当てられたような強烈な刺激が無慈悲に奔った。
痛い! 痛い痛い、冷たい!! やだ、いやだ、やめてくれっ!
「触んなあ!!」
触らないで、おねがいだから!! 他人に触られるなんてまっぴらなんだ!
それはほとんど反射行動といって差し障りはないだろう。障害物を避けたり、手で払いのけたりするのと変わりない。気づいた時には、既に対表面が弦で編んだ網で保護されていた。咒性で緻密に編み上げられた不可視の網が半自動的に展開され、その網目が急激に窄まったことで、手袋の生地ごとエミリアの指の腹は丸く削ぎ落とされていた。
咄嗟に手で振り払ったのと変わらない感覚だった。エミリアは弾かれたように右手を引き戻し、血が滲み出す手指を左手で押さえ、彼女は一層鬼気迫った形相でハインを凝視していた。
「あ……」
横目でそんな光景を目の当たりにして、思わず慄きが喉からこぼれた。
「――――ちっ……」
殺されるかも、と思った。臆病な妄想がすぐさま浮かんでは消えを繰り返したが、しかし想定に反してエミリアはそれ以上距離を詰めてくるような事はしなかった。
小さく舌打ちをしてから、遠ざかっていくハインの背中を伏し目で見送るだけだった。
雨脚が徐々に強まっていく。十分もしないうちに、盥を逆さまにしたようなどしゃぶりの大雨になった。傘など持ち合わせていないので、おとなしく濡れ鼠になるほかなかった。穴だらけになった黒のジャケットを脱ぎ捨てても、出血が止まったかどうか定かでない右足を始め全身が重くて仕方がない。重くて、それに熱い。皮膚から湯気がうっすら上がっている。ストーブの焼け石になった気分だ。
ベッドの中で微睡みに落ちる直前の気だるさが継続している。それに加えて、頭は熱に浮かされている。耳には膜が張ったような違和感があり、街路を打つ激しい雨音がくぐもって聞こえる。ぼやけたままの視界はほとんど役に立たない。冷たい雨粒が項や頬に当たると、こそばゆくてどこかもどかしい。
ふと、吐気の波が押し寄せてきた。たまらずハインは歩道の端で四つん這いになって、臓腑で渦巻いている不快感の原因を嘔吐した。
胃の未消化の内容物を吐き終わったかと思えば、今度は熱を伴った灰色の液汁がばしゃばしゃとタイルを叩いた。続いて、食道の内壁をごつごつしたものが通り抜けたと思えば、今度は白濁した粘性の何かが糸を引いて口から零れ落ちた。白濁液は口のみならず、鼻から尿道から、ひいては肛門からも流れ出た。括約筋が意味をなさず、蝋をとろとろ排泄しているような羞恥に蹂躙される。
液汁はいずれにしても無味無臭で、自分の身体には今まで何がこんなに詰まっていたのか不思議だった。吐いても吐いても熱が引かない。のぼせ上がった頭では、まともに思考する事は不可能だった。
「きもち……わるい……こんなの……」
前歯や犬歯の先端から粘り気のある液が垂れ下がり、積もった牛脂のような吐瀉物の上に透明な胃液がぽつぽつ雫となって落ちた。
――――なんで、なんでぼくが……こんな目に……
吐気が落ち着いてから時間をかけて立ち上がると、片脚の裾から未だ形を保ったままの排泄物がずり落ちた。まるで魚の肝のようだった。見ると、クリームのような表面から真っ黒い毛の塊が垣間見えた。見覚えがある。グレゴール・フルークが蓄えていた髭だ。泡だった吐瀉物にまぎれて縮れ毛が混じっているのを見たハインは、ついにそこから視線を逸らした。
何気なく横を向いた先には、ブティックのショーウインドーが張られていた。店舗の前で嘔吐したことを申し訳なく思いながら歩を進めようとした。
しかし、眼前の真実から暫く首を動かせなかった。
灰色の街並みを映す鏡のようなガラス板の前で、ハインは立ち尽くした。
そこに映り込んだ一匹の濡れ鼠。
たっぷり雨水を吸いこんだ髪がぴたりと顔に張り付いて、さながら溺死体が陸に上がってきたかのよう。
その髪の色はまばゆいばかりのゴールドブロンド。人工的にすら思えるほど白に近い金髪は濡れてくすんではいたが、あまりに不条理な光景に目を疑った。肩口にかからない程度だった毛先は、胸元ほどにまで垂れていた。
『ぼくの髪は、ブルネットのはずだろ?』
束になった髪の隙間からは、鋭角に尖った外耳が覗いていた。なだらかな弧を描く猿人のそれとは異なる、エルフや妖精に見られる形質の発露。
『ぼくの耳は、こんなのじゃなかっただろ?』
開かれた瞼を装飾する睫毛もまた黄金色だった。その奥でてらてら光る瞳は、翠のトルマリンを思わせる色ではなかった。鮮烈に輝きを主張するサファイアのロイヤルブルーが、こちらを真っ直ぐに見返していた。手の甲で瞼を擦っても、見えるものは変わらない。大きくまばたきをして、それぞれ髪と耳に触れてみる。鏡像もまた、ウインドーの前のハインと寸分違わない動きをしてみせた。
「誰だ……誰だよ、これ……っ、僕は、僕は……!!」
考えるのをやめてしまいたい。この目の前の人間が自分だとするのなら、自分は一体何なのか。ハインリッヒ・シュヴェーグラー? 本当に? どこに、そんな保証がある? 外見というなにより信頼してきた情報源を否定されたばかりで、どうやって安堵を得る?
疑問符が絶え間なく浮かび上がり続け、ついぞそれらに応じられるだけの答えをハインは見つけられなかった。
「ぼくは、誰だ……? 何だっていうんだ?」