雄の性
ハインは琥珀の切先を真横に薙いだ。
ほんのわずかに遅れて、剣の動きに倣ってベルンハルデの首元から鮮血がしぶいた。二秒は途切れずに噴き続けただろうか、ハインの流した血溜まりの周囲に新たな紅色が零れ彩った。
目を白黒させるベルンハルデが声ならぬ声を発するたびに、喉の裂け目から耳障りな水音がする。噎せ返るようなきつい血の臭気に、ハインは一瞬眉をひそめた。ほんの、一瞬だけだった。
――――やったぞ。
ぶる、と顎が震えるのを感じた。恐怖によるものではない。口端がにやりと吊り上り、ふっと笑みが漏れた。冷え切っていた身体の芯がみるみる温まっていき、反射的にハインの体は動いていた。
頭で思考するより先に体が動いていたのは――――“これがそうだ”と自覚したのは、初めてだった。
ベルンハルデが顛現剱を取り落したのを目にした次の瞬間、ハインは右手に握る琥珀の剣を放っていた。間髪入れず、首元の深い傷に手をやるベルンハルデの横顔に『戦性』が加わった肘が突き刺さった。整った少女の顔は新たな苦痛に蹂躙され、受け身をとる事なく数メートル先の舗装された路上に鼻先から衝突した。
地鳴りの如き唸りを捻りだし、足元がおぼつかないままベルンハルデは膝を着き立ち上がろうとする。喉から、そして殴打によって歪んだ右の口元、そして鼻からぼとぼと赤黒い血を零しながら、嚇怒と脅えがないまぜになった形相で、ベルンハルデはハインを見据えた。
「お前……お前、ふざけるな、このわたしに、わたしに何をしたと、思ってる」
地力や智識に差はあれども、『活性』による防御を怠っていた箇所への『戦性』を集中させた一撃は有効だったらしい。ばっくり開いた喉元の傷は『活性』によって順次再生措置が施されてはいるものの、出血が収まる様子は依然みられない。先の瘴気を纏った剣の一閃のように、ハインの『戦性』がベルンハルデの宇宙たる体内を侵食している証左だった。文字通り、浸透圧によって傷口を弄ぶ塩のように。
「お情けで生き永らえた男娼がつけあがりやがって!! どこの、誰が、お前を生かしてやったと――――」
そして、何も直接叩き込んだ『戦性』だけが苛んでいるわけではない。
ベルンハルデの口が閉じる。黙っていろ、というハインの無言の意をベルンハルデ本人が汲んだわけではもちろんない。強制的に閉じられた。正確には、口を端から端まで縫い合わされたのだ。唇の上下が、まるで癒着したかのように細かに密着し、もはやベルンハルデには呻くほか抗議の手段はない。
殴打した際の間合いであるならば、硬軟を持ち合わせる極細の銀弦を相手の懐へ滑り込ませる事は容易い。『活性』や顛現剱で警戒されていなければ、その皮膚を貫く事は不可能ではなくなる。
――――うるせえぞ黙ってろ。そういう金切り声は聞き飽きたんだ。
普段なら、まず口にする事のないような罵倒が浮かび上がる。それに伴ってか、実際に発した言葉もやや攻撃的なものになった。
「ごちゃごちゃ抜かすと体中の孔全部縫い合わすぞ」
左に握っていた白い剣――――【肆之天開闢】によって生じた顛現剱をベルンハルデに向け、睨み返した。右手で弦を操り、ベルンハルデの口を縫い上げてから依然彼女の口内にある先端を動かす。奥の大臼歯から前歯に至るまで、それぞれの根元へ隅々まで弦を結び付けると、彼女の口端の隙間から先端を手元に引き寄せた。
――――媚を売れよ、命乞いしろ。僕を満足させたら唇だけで済ませてやる、そうでなければ……
ベルンハルデが再び【開闢】を顕現させてくるような様子はない。だが、本当に屈服したのかどうか確かめるすべは一つしかない。痛めつけて、自分から靴を舐めるように仕向けなければ危険だ。こいつが自分の状況を理解しているかどうか、それが重要だ。それに、正当なのだ。正当なのだから仕方がない。
一歩、ハインはベルンハルデへ近寄った。眉間に皺を寄せた目つきが気に入らなかった。本当に腸が煮えくり返る、こいつの懐からありとあらゆる財を取り上げてやりたい。矜持をかすめ取って踏み躙ってやりたい。こいつの表情から、憤怒なんてものがなくなるまで殴りつけてやりたい。従順になるまで、蹴りでも入れてやりたい。
お前の次はお前の兄貴だ、地獄の底で二人そろって儀式がおじゃんになるのを指咥えて悔しがれ。
まただ。
今度も、思うより先に靴の爪先がベルンハルデの鳩尾を蹴り上げていた。
血液混じりの吐瀉物がベルンハルデの気管を逆流した。縫われた口の隙間、そして両の鼻穴から、まだら模様の液体が勢いよく跳ねた。半ば窒息に陥り、地蟲のようにベルンハルデはもがきえずいた。なんて、苦しそうなんだろう。かわいそうに……
――――気分が良い!! 気持ちが良い!! たまらない、もっと感じていたい!! ああ、気持ち良い!! 最高だ、こんなの初めて!!
体が熱い、火照っている。鼻息が荒くなり、半開きになった口からは熱を孕んだ吐息が絶え間なく押し出される。頭頂から爪先に至るまで、心地よい快感に満ちている。先ほど殴打に使った右肘や右脚は、羽毛布団に抱擁されるようにあたたかい。
――――ははは、ざまあみろ!! これが正義の鉄槌だ!! 悪は滅んで消えちまえ!!
胸元が快感に震え、痙攣にも似た感覚をおぼえる。
気持ちいい。どこまでも稚拙で、これ以上ないほど傲慢な暴力衝動が、とめどなく溢れて流れ出す。理性の箍を薙ぎ倒し、堰を切ったように体が暴力と快楽を求めている。身体を動かせば血液がしぶき、腕が飛び、脚が飛び、悲鳴が上がる。自分が何かするだけで、指を動かすだけで、目の前の女は苦悶に身を震わせる。支配がもたらす快感が麻薬のようにハインを蕩けさせた。
――――ずるいじゃあないか、こんなに気持ちのいいことをずっと黙って独り占めしてたなんて!!
親性、特に父性の威厳によって封じられるべき粗暴な欲求が、獲物を求めて垂涎する。身近だったマルティンという代替の存在では御しきれぬまま肥大化していった歪な権威志向的本能が、顛現の異能によって脳の最奥にしまわれていたのを余さず露呈される。
学校では怜悧な美貌をこれでもかと周囲に見せつける異端の新入生、文武両道を地で行く黒髪の優等生。立てば鈴蘭、座ればデイジー、歩く姿はエーデルワイス。
高嶺の花だと? それがどうした知った事か、この手で毟って枯らしてやる。
「五人分、名前覚えてますか。あなた達が生贄にしようとしてた人間の名前をさ」
根を張っていた土から引き抜かれて、断末魔さえも不発に終わった哀れなマンドレイク。小奇麗なのは見てくれだけ、ふたを開ければ雑草もいいところだ。ディートリヒの威を借ってまるまる肥えただけなのに。
しかし、ベルンハルデに屈服の兆は見られない。眼球を真っ赤に充血させ、瞼を剥いて上目でハインから目を離さない。怨恨をより滾らせた表情で、彼女はぎりぎり歯を食いしばっていた。雑草ごときが、僕になんて目つきをしていやがるんだ。無性にハインは腹が立った。
瞬間、不意を突くようにベルンハルデは右の掌に咒性を集中、雷光のようなまばゆい輝きの中から一本の銃剣が生成された。その切先が狙うのは、先ほど深手を負わされたのと同じ喉笛。掌部からごく単純な刺突の指令が下され、空気を裂いてハインの肌に突撃を仕掛けようと飛び立たんとしたその時。
ハインは力いっぱい手繰っていた弦を引きぬいた。そこには一握の躊躇いもない、むしろこの時を待ち望んですらいたのかもしれない。ちょうど、眼前の少女がⅤの明確な謀反を心待ちにしていたときのように。
射出された銃剣がハインの首筋の肌に傷を穿つより早く、ベルンハルデの口を縫い合わせていた弦は縫目を無視してべりべりと唇を剥がしていった。同じく、弦を括ってあった上下の歯列もまた歯肉をまとわりつかせたまま奥歯から強引に引き抜かれていく。否、引き剥がされていく。下顎の骨が外れて、にぶい水音がした。
「ぎああああっ、げえっ、え゛っ」
嗽で喉を鳴らすような悲鳴だった。ごぼごぼとした耳障りな奇声とともに、ベルンハルデは噎せ返った。傷口から際限なく湧き出る黒い血を吐き続け、足元に散らばった歯がどす黒い血溜まりに斑点のごとく白く浮かびあがって見えた。
動脈をわずかに逸れたとはいえ、銃剣の切先はハインの喉を刺し穿った。舌の奥から生暖かい液汁が鉄の風味を伴ってこみあがる。それを些細な事と切って捨てられるほど、ハインの気分は高揚していた。半ば朦朧としていたと言ってもいい。顔を血塗れにしながら地面をのたうち回るベルンハルデを目にして、胸の奥から快感の津波が末端に押し寄せてくる。甘美な痙攣が躰を愛撫していくうちに、連鎖的に全身の神経がバターのように溶け混ざっていく錯覚すら感じた。火照って一向に冷めやらぬまま、熱を帯びた欲求を持て余したハインは、堪えきれずに肩を抱いて悶絶した。
――――僕がやってやった、この僕が!! 痛そうだな、なんて苦しそうなんだ……かわいそうに!!
上位に立つ事による優越。強者の地位に手をかけた達成感。常識をはき違えた魔人気取りの莫迦女に一発かましてやったという、名状しがたい快楽を孕んだ強烈な自己肯定感情。身体じゅうに疼痛が迸り、甘い痺れが腰部から背筋を噴水のように駆けあがった。
喉の銃剣を引き抜き、放り投げた。エクスキャリバーの鎮痛作用で、ほとんど痛みは無かった。猛烈な痛みに苛まれるあの女を見ているだけで、身体じゅうが幸せに包まれているんだ。こんなものは問題にならない。ざまあみろ、僕でなくて本当に良かったって思えるから。痛みなんて吹っ飛んでしまう。
「あんたの次はディートリヒ・ガーデルマンだ!! その次は……はははは、ああもう誰でもいい、全員あんたと同じ目に遭わせてやるからな。これが縁ってやつだ、これが絆ってやつだろう? あんた達が僕に結びつけた絆だ、そっちからほどいてチャラになんかさせるもんか」
――――身体じゅうこうしてやる! 孔という孔全部、全部全部!! 全部こうしてやる、引きずり出して裏返してやろう!! 拡がったまま戻らなくしてやる!! こうされたんだ、僕だってそうされたんだからな!!
強すぎる奔流の及ぼす快楽の連鎖とともに、思考に走る欲求の発露もまた過激なものへと変わっていく。それはやがて、自然と自ら忌避していた自身の本能的な衝動のもとへ殺到する。
解き放て、剥き出しにしろ、女を前にした雄がする事と言えばたった一つだろうがよ。それ滾らせたまんま帰れねえだろ、何してんだよ早くしろ、憎かろうがこいつは女だ。身の程知らずな生意気さを携えて、雄たるおれに歯向かった、生かしておくのも愚かしいと思えるほどに阿呆な肉孔だ。だからさっさと殺そうぜ。日が暮れちまうよ。
「――――はははっ」
ぐらりと、糸が切れたかのようにハインは身体の支えを失った。両脚の踏ん張りも効かず、近くの壁に手をやってようやく身体を安定させた。鼻の下に違和感を感じて、やがて唇にもそれが触れた。手で拭うと、指先が鼻血で真っ赤に染まっていた。
鉛色の曇天がついに己の重さに耐えきれず、飴玉のような雨粒となってホリゾントに注ぎ始めた。
※
激痛に喘ぎ悶えるベルンハルデの肢体が、記憶にある女性と重なった。
ゼフィール・ヤコヴレヴナ・ダヴィドヴァ。ハインの憧憬の象徴。彼が、必死になって追い求めている、二度と戻らない日常の存在。超然、憮然とした態度を隠しもしない我の強すぎるませた少女で、ハインは彼女の学友であり、家族であり、また玩具だった。その立ち位置に収まる事は決して不本意ではなく、魔性の香気を持ち合わせた彼女に弄ばれるのであればそれで本望とさえ思えた。
どれだけ分校の図書室で知識をため込んだところで、ゼフィールはそれ以上の思考の柔軟さと知識の量で相手を軽々手玉に取る。眼前の相手を理解し、認めたうえで的確にお小言を突きつけてくる。幼馴染、物心ついたときからの腐れ縁と言ってしまえばそれまでなのだが。
「卒業したら、どうする? どうなりたいか、考えてる?」
教員相手にさえ煙に巻くような振る舞いを繰り返す彼女には珍しい、至って真面目なトーンでの語り口だったのを覚えている。部屋で二人きり、ゼフィールは勉強机に肘を着いて窓の外を眺めていた。天候は思わしくなく、鼠色の雨雲が遠くまで敷き詰められていた。
それに反して、室内の一切は琥珀色の一色。記憶における曖昧模糊な色彩のなかにあって、なおゼフィールはその存在を誇示している。シュトゥットガルトの大学を視野に入れていると言ったら、ゼフィールは感情を込めずに「あら、そう」と呟いた。
当時は彼女の境遇など知らなかったし、彼女の口からそれが語られる事など無かった。直接それを聞き出すのはあまりに野暮だと思い、直接身寄りがないから分校で寮生活をしているのかと勝手に納得していた。二人の間柄にわずかな進展があったところで、それは変わらなかった。
それからシュトゥットガルトのクリスマスバザーについてだとか、マルティンとサミィが洗剤入りのチョコで腹を下したことだとかのくだらない話題で茶を濁しはしたのだが、ゼフィールに普段の他人を小馬鹿にしたような表情は戻らなかった。唐突に思われてもいいと思って、ハインは聞いた。
「私がナーバスにしてるとおかしいというの? ハインのくせに」
ゼフィールは伏し目で口の端をにやりとねじけさせ、不敵に笑んだ。
「ハインは私にどうあってほしいと思う? 私はどうなれば私らしいと思う?」
「僕が口出しできる事じゃないよ。進路のことでしょう、だったらなおさらだ」
「進路、ねえ」
椅子から立ち上がって、ゼフィールはベッドに腰掛けるハインの横に座り込んだ。身長はもとより、座高もまたゼフィールの方が高い。ハインは手元で開いていた本に栞を挟んで閉じた。
ロングネックのカットソーから見え隠れする白い首元、影を携える鎖骨がハインにはあまりに扇情的に思えた。蠱惑的な、大人になりたての雰囲気が肌から、産毛の一本一本から醸し出されていて、彼女が同級の学友でもある事を一瞬忘れてしまうくらいだった。ハルヴァやカーシャと比べると発育がよく、胸はつんと前にせり出して括れを形作っている。
「私がどんな進路を歩めば、ハインは嬉しいかしら。あなたと一緒に大学? それとも永久就職? ねえ、どうしたらいいと思う」
「自分の進路だよ。自分で決めなきゃダメだよ。他人の考えた将来をそのままなぞるのなんか、ゼフィールが一番嫌いそうな事じゃないか」
ハインにしては珍しい口答えにも、ゼフィールの表情はさして変わらなかった。
「私は、納得できればそれで構わないと思ってる。人間そんなに選択肢があるわけでもなし、幸い今は大きな戦争が起きているわけでもない。どうなりたいかじゃなく、何になりたいかを考えないとどうにもならない時代でしょう。見知らぬ誰かの尻馬に乗って、敷かれたレールの通りに歩めればそれに越した事はない」
「僕にそんな事を聞くのはお門違いだよ、僕は他人にレールを敷いてあげられるほど出来のいい頭は持ってない」
「そうは言うけど、私は“そういうふうにできている”んだもの。私の意志とは関係なく、受動でしか将来を決められない。産まれて直ぐはそうではなくても、環境がそれを許さなかった例はきっとごまんとある。どうすればいいか、そう求めずにはいられない。そんな人種。私はそんな中の一人だったというだけ」
「――――信じられないな」
「信じてくれないの? ハインのくせに」
環境に私が合わせるのではなく、私に環境が合わせればよい、とでも答えそうだと思っていた。付き合いは長いのに、まったく予想だにしていなかった答えにハインは少し面くらった。今自分の隣に座っている、見知った仲の幼馴染。その深層心理に抱える本音は、眩暈がするほど果てしなく遠い。
「方針を欲しているの。人生における方針。環境というコンパスから何も教わらずに舵取りのできる人間なんて、いないわ」
「それじゃあ、ゼフィールが今欲しいものを考えてみなよ」
「欲しい物?」
「さすがに、どう生きろとか何を目指せとか、何になれだなんて僕には考えられないよ。自分で見つけてもらうしかない。僕が提示できるのは……そうだな。まず最初は簡単に、欲しいものから目指してみればいいんじゃない。好きなもの……詩でも小説でも歌劇でも、料理でもお菓子でも、何でもいいから」
黙ってハインの返答を聞いていたゼフィールは、徐々に表情を薄くしていく。少し伸びすぎた前髪を無意識に手で払うと、消え入りそうなほど小さくぽつりと呟いた。
「白馬の――――王子様」
「何だって――――」
聞き返すより早く、ハインはゼフィールに唇を奪われた。ふわふわした柔らかな口唇に舌先までも咥え込まれ、呼吸が乱れる。そのままベッドに力任せに押し倒されると、両脚をゼフィールの長い脚で絡みつかれて身動きが取れなくなる。
両手にはがっちりとゼフィールの手指が食らいつき、シーツから体を起こす事はできない。薄く、しかし部屋にはたっぷり充満していたゼフィールの香気を至近から鼻腔に吸ったことで、頭蓋が液状に蕩かされたような気さえする。耳から鼻から、頭骨の内容物が流れ出しそうだ。
長い四肢を蛇のように絡ませて、ハインを組み敷いたゼフィールは一心不乱に彼の口内を蹂躙した。甘い甘い唾液を互いに循環し、歯列の隙間を愛撫し――――時にハインは胸元にも愛撫を受けた。シャツのボタンを強引に引き千切られ、薄い少女のような胸板を艶めかしく撫ぜられる。存外に冷たいゼフィールの指先が触れるたび、背筋に鋭く電流が迸った。
――――何を、されているんだ。ぼくは
混乱に拍車がかかる。ゼフィールの意図がまるでわからない、自分は何か彼女の気に障るような事をしたのだろうか。身体じゅうを愛撫されてくすぐったい、そんなところをつままないでほしい――――怖い、不快だ。でも、恐ろしい。彼女は、きっと僕が喧嘩したって敵うはずがない事を理解しているはず。僕もまた、それを嫌というほど実感している――――誰か、助けて。ああ、やめてくれ、お願いだから!
自由になった右手でゼフィールの肩をわし掴んだハインは、脅えながらも彼女を引き剥がした。
目を丸くしてこちらを見るゼフィールもまたカットソーをたくし上げ、インナーすら外したあられもない姿でいた。まろび出た白い乳房に玉汗が浮かび上がって、雪粒のように見えた。それに混じってぽたりと赤い雫が軌跡を描いていく。口の端から垂れる血の筋。無意識にハインが噛んだ舌先からの血だった。
「どうしちゃったの……ゼフィ」
お互いに肩で息をして、目の焦点は合わないでいる。
「ハイン――――」
ゼフィールが恐る恐る差し出した手を、しかしハインは反射的に払いのけた。
圧倒的な強者に為すすべなく組み伏せられ、また予告なく蹂躙を強いられる恐怖を、ハインはその日初めて知った。そして、蹂躙の最中に強者がどんな表情を浮かべていたのかも。




