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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
Denn der Tod ist der Sünde Sold!
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月下

「無知を装え。可能な限り、考えなしに癇癪起こす糞餓鬼のように振る舞え」


エミリア・ハルトマンからは、そう指導を受けていた。


「能ある鷹になれとは言わん、一朝一夕で実用的な【開闢】が飛び出すとも思っちゃいない。だが、使い物になる爪をわざわざ見せびらかす必要なんてのは微塵もねえ」


 約百五十時間、総計八百に上る徒手空拳でのスパーリング。涼しげに持論を言い終えるまでに、エミリアは七発のフェイントを織り交ぜながらハインに肉薄、本命の掌底を顎下で寸止めした。有効打を知らせる静電気めいた微弱な魔力の過負荷が打点に走り、ぴりりと痛みが迸る。


「毎朝の稽古のときは、そんな嫌な汗かいてねえだろ? もっと余裕持って呼吸しろや」

 

 時間経過が結界の術者であるエミリアによって歪曲させられている為、ここでの昼夜は便宜的にそう称されるだけに過ぎない。今なお変わらず、墓標の立ち並ぶ霊園の上空には月夜が果てしなく広がっている。テーブルの上の目覚まし時計と卓上カレンダーも、正しい時刻と日程を表してはいない。


 絶対哲学領域での"悪あがき"は、主に三種の鍛錬に分類された。


 "朝"。軽食を摂ったあと、ストレッチを挟んでからの型稽古。ここから4時間は、加速した思考のままで緩慢な動作を強いられた身体を動かす訓練に割かれる。ひたすらに指定された武道型を反復して行い、攻防の動き一手一手に意識を仔細に渡って張り巡らせる。丁寧かつ迅速に、そして何よりも平静を保ったまま呼吸(ブリージング)を乱さないこと。焦りを除去したクリアな思考形態はどんな経験にも勝ると、エミリアは説いた。ここでは一度、衝動と昂ぶりを捨てて望め、と。


 "昼"、型稽古を終えた後に続くのは鬼ごっこ。四肢の動かし方を叩き込んでから、今度は思考と実際の身体動作を同期させ慣らしていくための措置である。機敏さ敏捷さをより確かなものにする為に、今度は顛現法における魔力転化技術を織り交ぜての鍛錬となる。オニ役を追跡する為、もといオニ役として逃走する際のバイタリティを司る『活性』、相手の重心移動、魔力発露を性格に察知する為の『瀰性』。この二系統の才を更に研磨するというのが大きな目的として掲げられた。


 そして最後に迎える"夜"、限りなく実戦に近い形式の組手が行われる。朝の攻防、昼の技術反復、これらの決算として『戦性』『咒性』行使の加わった鍛錬として、互いに自身の拳と能力を交わしあう。


「相手がよほど年季の入った手練れでもなければ、ただの一発をぶちかませば結果的にはお釣りがくる。化かし合い、騙し合い、とどのつまりはビビらせ合い。確かな痛みってやつが何より効果がある。それが従軍経験もねえような素人のアガーテ()ベルンハルデ()ならなおさらだ」


 両目の瞳を徐々に上げ、やがてハインとエミリアの視線が交わりあう。


「【抜刀】だろうが【開闢】だろうが、いずれにしたって真のところは単なる一人の妄想よ。生かすも殺すも術者次第、ここから消えろと願われたらば、笑止と叫んで踏ん張れよ」


 瞬間、玉汗を浮かべるハインの額をエミリアの人差し指が弾いた。ぱちんと派手な音がして、刺すような一瞬の痛みに驚いたハインは尻餅をついた。


 乱取りが一区切りを迎えて、どっと疲労が両肩に圧し掛かる。聖剣で強化された心肺機能をもってすら、全身が悲鳴をあげている。頭の中身は、顛現の行使による酷使で既に蒸し上がっていた。冷たい地面に、大の字になって横たわった。


「『緞帳ガルデローベ』だったか。初めて使ってきた頃よりかは、だいぶマシになってきたじゃねえか」


 エミリアはジャケットのポケットに手を突っ込み、普段から持ち歩いている飴を取り出した。親指で軽く弾き飛ばすと、弧を描いてハインの鼻先に当たった。包みを開くと、もはや見慣れた琥珀色の球体が顔を見せる。蜂蜜とシナモンの風味が香ばしい大粒のキャンディの中に、赤褐色のソースが詰まったものだ。ソースは香りからしてラム酒だとハインは思った。躊躇いなく口の中に放ると、舌の上で優しい甘味が唾液に溶け合いふんわりと広がった。


「そう気張るもんでもねえ、不安材料のブロッホ()はあたしが必ず押さえる。万一、億が一あたしがヘマをやらかしたとしても、お前の足なら奴は撒けるはずだが。まあ、せいぜい期待しておけ。Ⅷ、そして小娘二人のどちらかはあたしが受け持つ。理想としてはⅢがお前を追いかければ万々歳だな」


「ベルンハルデ……さんが?」


「お前に仕掛けた事が真実なら、奴はただテメエのチカラを見せびらかしたいだけの阿呆だ。考えてもみろよ、堅気の素人も同然のお前にわざわざ抜刀して脅しをかけてくるような糞馬鹿だぞ。三下ヤクザがテメエの判断だけで素人に血ィ見せるようなマネするか? まともな頭してたら手の内明かして悦に入るような事しねェよ。凡百の魔術師ですらウスボケのマヌケと断じるだろうよ」


「でも、キャリアではずっとあっちが上です」


「あたしに時間割かせておいて勝てません、逃げ切れる自信なんかありませんなんて言うなよな。逃げて、勝つんだよ。奴がもし、『降って湧いた奇跡でスーパーマン気取ってる』だなんて言い出したら笑ってやれ、まさしくテメエの事だろうがってな。それくらいの意気がいい」


 傍らのガーデンチェアに腰かけると、エミリアはテーブルに肘を着いて不敵に微笑む。『数十日前』と変わらず熱を保ったままの紅茶をカップに注ぎ、大さじでジャムを沈めた。


「ナメてかかれと言っているわけでもねえ。見たものを正しく感じられればそれでいい」


 スプーンでジャムの塊をかきまぜ、口元にカップを運んだ。カップの淵が下唇の形を歪めた。


「それでも……」


「怖ェか」


 ハインは無言で肯定した。


 明日の段階では、恐らく殺されるようなことはない。フルークや、残った智慧の実の智慧を探すための道具として、より一層扱いやすいようにされることだろう。道具には視力はいらないし、腕も脚も必要ない。瀰性に基づく探知能力(サルベージ)に秀でるアンデルセンという使い手がいるのならば、極論脳死にさえ陥らなければそれでいいのかもしれない。


 嬲られる。ばらされる。犯される。自ら連想した内容に、形容しがたい不快感を覚え苛まれる。無数の手のひらが地肌を撫でまわし、身体じゅうの粘膜を乱暴に擦りあげられる。


 そのうちに、あの僻地の施設で生きてきたことにさえ嫌悪を感じるようになる。いくら奔放に、自由に生き、恋をしてきたと自分に言い聞かせても、所詮は単なる実験動物に過ぎなかったのだと。マルティンもフルークも、月に幾度か顔を見せるほかの学校職員も――――あるいはゼフィールたち人形さえも――――自分を家畜としてしか認識していなかったのかもしれないと。


 それがたまらなく否で恐ろしい。自分がハインリッヒとしてこの世に刻んできたつもりのあらゆる行動が、研究調書の備考欄に一文記されるだけで収まってしまう程度の、取るに足らないようなものに堕するのが。ゼフィールに寄せた想いが、理性を持たない家畜の生殖本能とさして変わらないものと断じられ、そして変わらず道具として死んでいくのが何より不安で仕方がない。起床と共に霧消する夢にも遠く及ばない、この自我は取るに足らない生理機能として泡沫の如く飛散してしまう。


 いやだ。


 死にたくない。


 何をしてでも生きてやる


 その不安を塗り潰す為に、憎悪と反骨を表出させてきた。日常と非日常を往来し、顛現の刃を拙いながらも研いできた。自分がここからいなくなるのが怖いから。


 一筋、ほんの浅い傷でいい。この世界に自分がいたというしるべを、杭を穿って残したい。ハインリッヒが産まれて、自分を感じて、世界を感じた瞬間から、連綿と伸びる糸を途切れさせたくない。


 客観的には他愛もない十五年である事は確かだろうし、ハイン本人も大きな波のある人生を送ってきたとは感じていない。これまでそうだったのだから、これからもそうなのだろう。緩慢に過ぎる全寮生活では、頭の片隅でそう思っていた。たった数ヶ月前までの事だ。


 手の甲で両の眼を覆って、ハインは言った。


「周りの状況が、ものすごい勢いで切り替わっていくんだ。僕なんかとろくさいから、もう目が回って仕方がないんだ。兄さんやゼフィール、ハルヴァやカーシャ、サミィも、みんな、みんないなくなった。カーシャは死んだ、ハルヴァなんかは僕が殺した。そんな出来事も、思い返せばずっと遠くだ。一人でこうして生き残って、ふと気づいたら周りには誰もいないんだ。どこにも」


 外界の時流は、掌を隔てた仮初の夜空のように待ってはくれない。いとも残酷に、そして機敏に時計の歯車を回してみせ、刻一刻と人間に課せられた猶予をじわじわ削り取っていく。個人を取り巻く環境を激変させる。悔し涙を拭う暇すら与えてくれない。泣き寝入りをしていれば、歯車の動きはさらに加速するのだ。


「ほんの一晩寝て起きたら、全部が全部夢の中の出来事だったみたいにさ――――本当に夢だったら、そんなに良かっただろう」


 あの夢とともに、自分の魂も静かに消えていければどんなに幸せだっただろう。真綿にくるまれ、あたたかな陽光を浴びながら、大人になるまでのモラトリアムを謳歌する。あんな終わらせ方を持ってこられるくらいなら、いっそのこと夢の中に埋没してしまいたかった。


 それすら、拒絶した。どうしようもなく臆病なハインに、自害などできようはずもない。悄然と不貞腐れたまま、すんすん鼻を鳴らして周囲の同情を買う下卑た真似を行うのが関の山。他人の顔色に敏感な小心者だからこそ、果てしない自責の念に苛まれる。生存したという引け目が、自分が人形(アダムカドモン)でないという罪悪感が尾鰭のように付き纏う。指弾に晒されるのは厭なのに、良心の呵責が所狭しと暴れ回る。


「袋小路だ。考えたってしょうがねえだろ」


「……そう、なんですけど」


「適応しろ。泣き言喚いて地団太踏んで、必死こいててめえの立場を理解しろ。もしもなんてありゃしねえ、せいぜい悔いのないようにしておけ。てめえの取り巻く世界がどう変わったのか、そこでてめえはどんな姿で振る舞うのか決めるんだ」


「どんな姿か……?」


「お前は、お前にとってはその他大勢(モブ)じゃねえ。役者、それも二人といねえ主役だろうが。大根(ハム)だろうが構わねえ、こりゃお前だけの独り舞台だ。いいか? お前が生き残ったのは単なるあたしらの気まぐれだ、天のお導きでも何でもねえ偶然なんだ。死んだ連中に引け目を感じる必要なんぞどこにある。結果が総てだ。お前は生きてここにいる。続きを演れ、思う存分妬んで憎んでぶち殺せ。焼け付くくらいに必死こいて頭使って、血反吐ぶちまけながら体動かせ。それから死ねば万々歳じゃねえか」


 椅子を引く音がして、靴音がこちらに向かってくる。顔に乗せていた手が退かされ、不意に視界が開かれた。目鼻の先には、エミリアの相貌があった。


「いくら丈夫になろうがよ、ここを砕かれりゃあたしらだっておっ死ぬわけよ」


 ハインの横で四つん這いになり、エミリアは彼の胸元に指を這わせた。爪先に力を込めない撫ぜ方が、なんだか妙にこそばゆかった。はらりと赤毛が零れ落ち、百合の薫りがふわりと鼻腔をくすぐった。


「聖剣の鞘になった人間の寿命がどんなもんかは知らねえが、くだらねえ嚇しにビビって暗がりで余生を過ごすようなのは御免だろ。だからお前は聖剣を受け入れたし、聖剣もまたお前の身体に収まった」


 水晶のような両目を狭め、エミリアは微笑を絶やさず言った。


「お前は死なない」


 その片手は、それまでハインの眼を覆っていた掌を力強く握りしめていた。指を絡めて深く、硬く。

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