惨滅の剱
O Haupt voll Blut und Wunden,
垂れた頭は朱に濡れて
Voll Schmerz und voller Hohn,
蛇の罪は茨冠となりて、穢れを負いしみかしらを、紅き血潮に染め上げる
O Haupt, zum Spott gebunden Mit einer Dornenkron',
骨軋ませるのは獄鬼の責苦。皮を裂くのは家畜の責苦。身を縛るのは六道罪科
O Haupt, sonst schön gezieret Mit höchster Ehr' und Zier,
我が抱くは堕天の証、かりそめの叡智を賜り神を謳った驕りの償い。我が懺悔は他ならぬ神の子らの為に
Jetzt aber höchst schimpfieret: Gegrüßet sei'st du mir!
我らは罪の子、嘲弄にまみれし痴愚なる血は、今なお砂漠の白を淀みで覆う
Am Anfang schuf der Held 4te heiligtum “Machonom”
――――肆之天、開闢
「――――《抜刀》」
地上において、形あるすべては唯一なる神へと帰属する。絶対なる威光に紐づく救世の存在、ベルンハルデにとっては自身が敬う兄こそが至高の聖性そのもの。
詠唱に込められた欲望は、原罪を負った身から少しでも穢れを濯ごうという信仰心。かつて磔刑に処されし救世主から流れた血を掬い、しかし欺瞞と罪科でどす黒く汚れた肌は砂漠の如く、一掬いの施しでは到底賄いきる事はできない。
【Denn der Tod ist der Sünde Sold!】
――――罪障・余命狩り必罰賜いし償いの血凬
ああ、それならば。血も、水すらもないのなら。この皮膚を裂けばよい、この黒い肌に流れる血潮を、我が信仰として捧げよう。皮剥ぎ肉裂き血を搾り、遍く罪人は不毛なる荒野にて頭を垂れよ。我ら畜生にも劣る非人の為にその身を擲った勇者に、心からの讃美を贈れ――――
ぎしぎし、じゃりじゃり、がりがり。耳障りな金属音が途切れることなく響き渡る。
「ハインリッヒ・シュヴェーグラァァーッ!!」
甲冑で武装した隊列の行進を思わせる噪音は、ベルンハルデの周囲の虚空から、真水にインクを垂らしたように広まりゆく。
「償わせなきゃ、その無知ゆえの罪を! 一時の激情に流される事の愚かしさを! ねえ、あなたたち。それがいいわ、そう思わない?」
硝子の表面を掻くような不規則な怪音。それは、ベルンハルデの問いかけに対する同意なのかもしれない。処断を使命とする、物言わぬ鉄塊が主張できる唯一の精神性。原罪をかかえ、生まれながらに神の子ならざる人に刑を執行する、ただそれだけの為に無垢なる魂を与えられた、やくざな首切り刀ども。
虚空から剱の切先が覗き、鞘から抜き放たれるように一斉にその刀身を露わにする。その数は十、百、千――――十万を軽く越える数の刃は、既に同胞たる剣のうち一人が処断すべき罪人の皮膚を裂いた事を知覚したのだろう、彼らはぎゃりぎゃり音を立ててせせら嗤った。
――――美味い、美味いな。たまらぬ、この味、もっと、もっと噛みしめていたい。
――――童貞の血だ、童貞の肉だ。童貞だ、童貞だ、童貞だあ!!
――――年を重ねただけの下手人など臭くて臭くて喰えたものではないわ、無垢なる童の柔肌がよい。
――――ぷりぷりの軟骨をこすったぞ、もはやこの躰を御しきることなどできぬ、ああいきり立つようだ。
――――暖かくてなんとやわらかなまろみ。おお、たまらぬぞこの舌先を愛撫するが如き甘露。
――――おお、我が刃を、あの童の皮膚に滑り込ませてみたいものだ。どんな鞘だろうが、彼の腸や脂肪のあたたかさには敵うまいよ。
――――ああ、果てるう。気持ちが良い。この刃に姿を映さば、わらわはきっと狂ってしまうわ。
異体同心。彼らは五感すべてを相互に共有しており、いずれもが若き鮮血に飢えていた。垂涎ものの獲物をひとたび察知したならば、前に塞がるあらゆるすべてを突き砕き邁進する。彼らを阻む箍などは存在しない。刃に宿る魂から発露する人格には整合性が存在しない。彼らはベルンハルデの呪詛によって多大なる矛盾を孕みながら強引に召喚された疑似人格であり、人格のモデルとなった故人――――刀剣のかつての使い手――――の個性は、活性化させられた淫慾によって塗り潰されている。
兄を崇敬し、己の矮小さを韜晦するベルンハルデの懺悔の道具として、彼らは歪曲させられた狂気に身を悶えしているのだ。
長剣、突剣、懐刀、曲剣、大鉈、円刃――――片刃両刃、形状問わず、帝国における古今の刀剣が一斉にハインリッヒに狙いを定める。
有史以来、帝国領内において人の生血を啜った刃のすべてを顕現させ、『彼ら』が遂行した殺人――――殉死の儀を再び現代において、イレギュラーな奇跡として執行する。これこそが、ベルンハルデの有する【開闢】における能力発露であった。
伴侶の姦通を咎めた夫に振るわれ、生きたまま彼の妻の腸を巻き取って引きずり出した大鉈がにやけた。
手首を落とされ失血で果てた女の妹に担がれ、女の処分を下した執政官の頭蓋を叩き潰した手斧が喉をくつくつ鳴らした。
拉致監禁、終わる事なき強姦と暴行の中で、父親のわからぬ子を孕まされたオークの女にようやく安寧を与えてやったダガーナイフが歓喜にむせび泣いた。
飢饉に苛まれ、互いに互いを喰らいあうべく農民に振るわれた農具たちは、堰を切ったように大声で笑いだした。
個々が独立した思考と霊枝能力を有する半自動追尾型の使い魔ではあるが、その最終的な統括権利はベルンハルデにある。正確には、彼女の手にしている【抜刀】の一振り――――顛現剱フルンティングに、彼らは忠誠を誓っている。ベルンハルデの抜き放ちたる漆黒の剣身は、いわば彼女の指揮棒。黒いガス状の瘴気が剣身を覆い、刃から放たれる呪詛がより一層刀剣たちの醜悪な欲求を倍加させる。
「まず脚を止めなさい。殺してはいけないわ」
ビルの屋上に立ち、ベルンハルデはハインリッヒが逃走したおおまかな方向に向け指揮棒を突き出した。次の瞬間、一斉に切先を同じくした数万本の刃が弾丸の如く弾け飛んだ。弧を描いてハインリッヒを追跡する者、果ては指示を無視して一直線に飛び出した末に近場のアパートメントに激突する者。こちらには続く数千本が相次いで殺到し、建造物の支柱すら容易く突き砕いてしまう。外見こそ血錆で刃こぼれしているなまくら、しかし頑強なコンクリート造りのアパートメントはウエハース菓子の如く外壁を半壊させられるという結果に終わった。
言うなれば、鉄の暴風。石材すら喰らい尽くす蝗の群れ。甲高い羽音を撒き散らしながら飛来する、殺意を過分に孕んだ黒雲。手当たり次第に建造物を齧りとり、あちこちに剣戟の歯型を付けていく。
動作の精密性に難がある代わりに、このベルンハルデの【開闢】が有する有効射程範囲は実に最大半径十五キロメートル。戦性と瀰性によって高濃度の瘴気を生成、高速で飛散する刀剣に纏わせて敵性勢力を執拗に追跡し排除する。刺突箇所を急速に劣化、腐敗させる呪詛を含んだこの瘴気は、顛現術における『活性』での快癒能力すら跳ね除け犯し尽くす。体内に取り入れた場合でも呼吸器系、神経系に重篤な打撃を与える猛毒でもあった。
瘴気とは即ち伝承におけるミアズマ、中世期には感染症や伝染病を引き起こす原因として広く信じられてきた架空の概念であり、これもまた十九世紀以降のポスト・エピックの到来によって排斥された一つである。瘴気が病を呼び、病がケガレを呼び、ケガレが病人を呼び、そして病人の腫瘍から再び瘴気が吹き上がる。これらの信仰と同じく、ベルンハルデの瘴気は現実に災いをもたらさんとここに顕現した。
竜殺しの剣の指揮のもと、拍子をそろえて悪しきを殺す。瘴気はベルンハルデ、そして聖剣エクスキャリバーの権能を受けて性質を変容させていた。かつて瘴気は魔王軍――――異文化である拝火がもたらす汚濁の大気として認識されていた。今日ホリゾントの曇天の下に吹き上がったのは、人種の区別なく腐敗を蔓延させる絶滅の噴煙。万人が心に持ち合わせるであろう、それこそほんの小さな滲みほどのものであろうとも、瘴気は人が育んだ罪悪の念を嗅ぎつける。ベルンハルデの定めた罪人――――兄であるディートリヒを除くすべての只人は、死して原罪を濯ぐ事を強いられるのである。飛び交う刀剣の暴風とともに、その飛散する範囲は広まっていく。
すべては浅はかで愚劣な背信者――――ハインリッヒを燻り出す為だけに。
しかし瘴気の性質に反して、ベルンハルデに殺戮の意志はない。皆無、というわけではない。十三騎士団の魔人だとて元は人間、升天教の倫理観念に照らし合わせて思考の基準を据えているから、という理由で説明付けられるだろう。だがベルンハルデにとってホリゾントの有象無象は、さほど関心を寄せるに値する対象ではないのもまた確かだった。
ベルンハルデが顕現した瘴気の濃度に手心を加えている理由など、ただの一つしか存在しない。ハインリッヒを――――グレゴール・フルークへ至る手がかりを生け捕りにする為だ。
――――それ以外に理由なんてないだろうがよ?
いざとなれば、街のボンクラどもなんぞ匙加減ひとつで皆殺しにできるんだ、このわたしの手で。カスみたいな連中をのさばらせておくのなんて、ただの気まぐれ。理由なんてないんだから。
一瞬の、奇妙な逡巡が脳裏をかすめる。
……そう、そうよ。別に、仮にここで何百人殺したところでどうだというの。
おかしな思考をすぐさま切り替え、使い魔どもが収集する感覚を広域霊枝情報と結合させる。並行して、有視界霊枝を用いてベルンハルデ自身もビルからビルへと飛び移り標的を捜索する。
やがて、薄い紫煙がぼんやりと路上から舞い上がってくる。薄い雲のように、希釈した瘴気が立ち込める。常人ならば即座に死には至らずとも、呼吸器と末端を焼かれ、生きたまま酸で身体を苛まれる苦痛に強いられよう。
ただし瘴気は画一的に範囲を広げていくわけではなく、あくまで剣の大群が通過した後に追随して散布されるものである。ゆえにその広がり方や濃淡にはどうしてもムラができ、さらに限界射程十五キロメートルを越えれば瘴気の毒は死滅する。つまり、この射程は今のベルンハルデにとってのタイムリミットとも言える代物だった。もちろん術者であるベルンハルデや、毒の中継点である剣どもは絶えず移動を行っている為、一概にこの数字が正しいというわけではない。しかし顛現術の恩恵を常時受けている術士にとって十五キロの射程など、どれほど有効なのだろうか。謀反を企てた下手人を処断できる名目に心躍らせるベルンハルデとて、懸念の材料がまったくないわけではなかった。
弓なりに、前方のビルとビルの狭間から剣の奔流が噴き上がった。
鋼同士がぶつかりこすれあう噪音が一際大きくなり、粘度の高い水流が勢いよく湧き上がるような轟音が周囲を蹂躙する。
幾千幾万にも及ぶ切先と刃の隙間を縫ってコンクリート壁の陰から姿を現したのは、未だ記憶に新しい華奢な体躯の少年。右腿を二本の細身のレイピアに貫かれたまま、ハインリッヒは追い立てられるようビルの屋上へと転がり込んだ。腿の傷口からは、羽虫が群がるかのような瘴気が濛々と立ち込める。
「見つけたあ」
全身の血を滾らせて、ベルンハルデは床を蹴った。ハインリッヒの右脚――――先日、彼女が弦によって斬り飛ばされた箇所と同じ――――目がけて、ベルンハルデは虎の子であるフルンディングを抱剣に構え跳躍。
殺気に応じ、即座にハインリッヒもまたその場を離れようとする。瘴気に毒された腿に引きずられ、体勢を立て直すのにもたつく。銃剣が貫通したのだろう左の掌を庇うような仕草。ベルンハルデと瘴気の軍団が数メートルに迫り、ようやく硬質のワイヤを遠方の建造物へ刺し穿ち、その体躯を浮き上がらせる。
「ちょろちょろ鬱陶しく逃げ回らないでよ、男の子でしょうが!」
刃の間合いに到達したのは、ベルンハルデの方が先だった。渾身の一閃がハインリッヒへ肉薄する。
しかし、咄嗟にハインリッヒは移動用ワイヤを解除。慣性だけでビルから中空へ投げ出される中、彼が真っ直ぐに見据えていたのは逃げ道ではない。ベルンハルデの振るう、黒光りするフルンディングの刃だけだった。
両の手指を組み――――両の手で生成した弦と弦を編み合わせていく。生半可な速度ではない、瞬きした次の瞬間には、幾重にも結びついた繊維の白布めいたものへと変貌していた。ぐっとハインリッヒは両腕を広げた。弦の持つしなやかさ、そして頑強さを併せ持つ純白の外套が、瘴気の刃を受け止めようとカアテンの如く広がった。生地は薄く、向かいのハインリッヒの表情までも読み取る事ができる。さながら、獣の猛戟の前に敢然と立ち、そして鷹揚なまでに落ち着き払った闘牛士気取りか。小突けば今にも泣き出しそうな顔を下げていながら!!
『幽弦解・緞帳』
詠唱の如くに短い、耳を澄ましていたとしても聞こえるかどうかは怪しい囁き。
しかし、確かにハインリッヒはここに新たな【抜刀】を宣言した。
フルンティングが最後まで振り切られる事はなかった。布らしからぬ火花を散らしながら、飾り気のない白の外套は、瘴気によってどす黒い滲みと裂け目を生地に穿たれつつ、剣の軌道を真横へと受け流した。地に足着かぬ中空で残心にもたつくベルンハルデを横目に、ハインリッヒは再び移動用ワイヤを背後のビルへと射出する。
「何よ、それ……っ!」
そこへ瘴気の鉄凬が殺到し、更なる追跡を開始したのは直後の事だった。
ベルンハルデの憎悪の視線を受け、獰猛に、貪欲に、彼らは甘美なる童の柔肉を目指す。