茶会
ハインリッヒ・シュヴェーグラー 19/04/1932
ドアの向こうから聞こえるアガーテの絨毯越しの足音が遠ざかるのを図って、ハインは部屋の窓を押し上げた。肌を刺すように冷たい外気が入り込み、小さな灯油ストーブで温まった客間の気温を一気に引き下げる。愛用している皮の鞄を腰に、極力物音を立てぬようハインは窓から身を乗り出した。家の裏手の茂みに両の足を着けると、ゆっくりと窓を閉める。今度は『弦』を顕現させ、窓の隙間へ潜行。廊下へ続くドアの施錠を確認。窓の鍵だけを開け放っておき、ハインは足早にその場から離れた。
午前一時、喧騒の渦巻くホリゾントの繁華街からはクラーニヒ河川を挟んだ向かいにあるこの地域は、学園関係者のベッドタウンとして機能している。付近に飲食店があるとすれば個人経営の小ぢんまりとした酒屋程度が関の山であり、普段はそこで職場帰りにくだを巻く呑兵衛も、はたまた店主さえも、この時期には駅前での乱痴気騒ぎに首を突っ込みに行くのだろう。製パン店、牛乳屋、肉屋、いずれも軒先には準備中の看板が提げられていた。
草木も眠る深夜の空では、相も変わらず曇天が厚かましく下界を我が物顔で見下ろしていた。四月初旬には煌びやかな月光で照らされていた石造りの街道も、今日に至っては闇の中でぽつぽつ等間隔に光の円を作り出す街灯だけが頼りである。演者のいない壇上に明かりを射し続けるスポットライトを目印に走るハインは、今宵の湿度の高さに辟易していた。固い革靴の靴音も、なんだか普段と違って聞こえる。釈然としないまま、彼は緩い斜面に沿って立ち並ぶ商店街を駆け抜ける。
住宅や店舗の代わりに納屋や空き地が目立つようになった頃には、聖マリアンヌ霊園と記されたアーチを抜けた。深緑に覆われた小高い丘には墓地へと続く遊歩道があり、平時から来訪する人間も多いのか、ここにも林にまぎれて街灯が灯りを携えて立っていた。とはいえ整備された街道区画と比較すれば、こちらはいわば高速道路のトンネルのようなものだ。その浮世離れした圧迫感、混ざり合い、雑多になった樹木や土の香りは、深夜に立ち寄るべき雰囲気のそれではない。
若干の尻込みの念を押し込め、意を決してハインは遊歩道へ飛び込んだ。じめじめした暗所は好きではなく、生来から臆病な性分の持ち主のハインにとって、夜分遅く慰霊の地に足を踏み入れる事など忌避すべき行為に他ならないのである。余分な替えの下着など用意していない。
これまで息切れ一つせず斜面を駆けて上がってきたが、今度はおっかなびっくり遊歩道を進んでいく。道なりに五分も歩くと、鬱蒼と生い茂っていた暗澹たる雑木林がぷっつりと途切れ、ついに墓石が規則正しく並ぶ霊園が現れた。
「月が……出てる」
弓なりになった弦月が白くまばゆく、開けた霊園の敷地の真上で輝いていた。今宵は雲一つない快晴、そこに何の疑問を持つ事があるのだろう。弧を描く鋭利なシルエットは、そう確かに主張しているかのよう。直上に陽ののぼる真昼とまでは行かずとも、こんなにも明るく、そして柔らかな月光は初めてだった。
霊園には、そこここに白百合が花開いていた。舗装された歩道の傍、そして芝生の緑に混じって、彼女たちは濃厚にして芳醇な香りをふわふわ振り撒いている。旬の夏季はまだ先にも関わらず、その美貌を誇示するかのように、ある種歪に思えるほど力強く肉厚な花弁を見せつけていた。
月下の霊園に似つかわしくない風景――――墓石に囲まれながらにして深く木製のガーデンチェアに腰かけ、ハーフエルフの少女が白磁のカップを片手にティータイムを満喫している――――に、ハインは目を疑った。背筋正しくカップを傾けると、女学生姿のエミリア・ハルトマンは客人を丸テーブルの正面へ着くよう手で招いた。紺色のテーブルクロスの上には銀一色に煌めくベル付き目覚まし時計、幾つかの小皿の他に、色とりどりの焼き菓子がたっぷり満載された三重のティースタンドが鎮座していた。
「ようこそ。あたしの城へ」
絶対哲学領域――――顛現術士が発現させる、一般に知られる結界魔術の上位に存在する技術によって編み出された仮想空間。術士が規定した、もう一つの現実と呼ぶべき宇宙。第四等級なる位階に到達して初めて行使が可能になるという技術だ。存在そのものはあらかじめ知らされていたものの、実際こうして肌で感覚するのは初めてだった。生身の身体ならばかじかむほどの冷え込みは既に感じず、頭上を見てもじっとりと水を含んだ曇天は影一つない。百合の芳香がふんわり漂う春の―――どこか矛盾した――――エミリアが主神として君臨する夜が、そこにはあった。
恐る恐るエミリアの正面の席に着くや否や、目の前になみなみ亜麻色の液体が注がれたカップが差し出された。立ちのぼる湯気の孕む香りは、爽やかな柑橘のもの。渋めのアールグレイに輪切りのレモンが添えられていて、傍らの椀にはソース状のブルーベリージャムがたっぷり収まっていた。
「よく迷子にならないで来られたな。えらいぞ」
普段のまくし立てるような激しい口調ではない、エミリアは子を諭すような穏やかな口ぶりで言った。
ハインは無言でポケットの中に仕舞い込んでいたもの――――折り目のついた小さな薬包紙を取り出し、テーブルの上で広げた。デパートの最上階で、喪服の女とすれ違った直後に拾った飴玉の包みだ。包紙の中央には、癖のない活版のような筆跡で聖マリアンヌ霊園の住所が記されていた。
「さっきは驚いたか? 七光りのガキども、いきなり鼻先に剣を向けてくるのだものな」
口元に俄かに微笑みを湛えながら、エミリアはティースタンドから焼き菓子を小皿に取り分けた。傍らの小瓶からは真っ赤なラズベリージャムを目いっぱい載せて、ハインへと配膳した。
山盛りのジャム群に面喰った様子で視線を泳がすのを見かねて、エミリアは言った。
「ブルーベリーはそのまんまカップに入れて飲め。ちびちびスプーンで掬って舐めるのはオリエンスのタマナシのする事だからな」
「帝国でこんな飲み方するんですか」
「あたしのいた国ではみんなそうしてた。絶対この方が美味い。体が温まる」
言われるがままにジャムをアールグレイの濃い水色に落とした。鼻腔に漂う芳醇さに甘ったるい糖分が加わり、口内にじんわりと唾液が滲みこんでくる。カップの中身を一口含むと、予想を裏切らない強烈な甘みが舌の上を万遍なく覆い尽くした。
「目が覚めます」
「それは良かった。これからそれなりに、頭を使ってもらう必要があるからな。せっかく生きて参之天まで到達しておいて、生きたまんま輪切りにされて生贄に……なんて御免だろうが」
「僕は……何をすればいいんですか」
「これまでと何も変わりゃしない。生きればいい。何も、お前が正面切って連中と喧嘩する必要はねえだろ。実際闘りあうのは自分以外に任しときゃあいいんだよ」
どうやら、エミリアもヴィレハイム館の件については把握しているらしい。明日にはブロッホやベルンハルデがアガーテとブフナーを訪れる事に関しても。
「智慧の実の智慧は――――サミィとゼフィールは、僕が……殺します」
「真正面からブロッホやディートリヒに殴りかかったところで、連中相手に五秒以上原型保っていられる自信があるのか? 生きて逃げ伸びる事だけを考えろ。命乞いしてでも、他の誰ぞをペテンに巻いてでも、死んだら負けだ。骸にたかる虫以下だ。生きて、生きて次の勝負で勝ちを取りにいけ。うわっつらのプライドとやらに拘る必要はねえ。最後に勝って、逃げ果せてから暇ができたらテメエの矜持を確認しろ」
ふと、ガーデンチェアのそばで咲いていた白百合を見やって、エミリアは呟いた。
「空きっ腹の痩せぎすでやれる事なんか何にもないんだよ。なーんにも」
カップの紅茶を飲み干して、エミリアは顎に手をやって物憂げに俯く。
「そこでだ。館でやる事済ませた後に、損害をせいぜい腕か足の一本の内に留める為の努力を今からしてもらう。理想としてはお前が上手いことサッサと姿をくらませて、あたしが連中を対応するのが最善手なわけなんだが。保険をかけておくに越した事はない」
「保険?」
「必要最低限の護身技術と、逃げ足の速さの底上げ。さすがに肉体的な面においては、懸念材料はなかろうよ。基礎体力は聖剣が補ってくれてるわけだからな。問題は、その出来上がった身体を脳ミソがどう動かすかだ。それなりに『抜刀』のヒモを扱えるにはなったみてえだが……お前を追いかけてくるのは、四六時中テメエの小きたねえ欲望ぶらさげてる、阿呆の極みのような連中だ。ノラ犬やシャブ中のルンペンに追い回されるよりずっとタチがわりい」
すっくと椅子から立ち上がり、エミリアはハインに向けて指を三本立ててみせた。
「体感で五百時間――――三週間のうちに、悪あがきの付け焼刃を用意する」
「五百時間……って、一体何を言ってるんです。夜が明けるまで、多く見繕っても五時間しか」
ハインの発言に眉をひそめる事もなく、エミリアは涼しげに机上の目覚まし時計を手に取り、目安針を五時に合わせた。現在の時刻からは約三時間後。長針と短針は、ハインがガーデンチェアに着いてから一目盛も動いていなかった。自身の腕に巻いた腕時計も同じで、秒針は糊付けされたかのように断固として不動を保っている。
「絶対哲学領域ではあたしがルールなんだよ。足を踏み入れた段階で、既にお前の脳はあたしの術中に嵌っている。人間の脳ミソってのは、都合の善し悪しで繊細だったりズ太かったりするもんでな。情報の回転する速度で体感時間なんて如何様にもなる。外から得る情報をスポンジみてーに吸い取ってフル回転するガキの脳なんかは、無駄に外見に贅肉こしらえたオトナの何倍の密度の二四時間を送っているのやら――――既存のクズ情報の介在しない無地のノートの方が、より濃密な時間を味わえる。魔術師なんてのは、どういうイカサマを持ってくりゃガラクタまみれの脳ミソを白紙と同じように扱えるかを日がな一日考えてるような人種だ。それが顛現術なんつうデタラメのズルでようやく日の目を見て現在に至る、と。もっとも、あたしらが使う【開闢】にとっちゃオマケみてえな機能なんだがな」
「そんな事もできるなんて……」
「だが、初歩の【抜刀】止まりのお前が仮に数年修練に集中したとて、こればかりは当人のセンスの問題だ。何もあたしと同格の位階にまで至れなどとは言わん、しかしせめてまともにトンズラこける程度には脳ミソを慣らさんとどうにもならん。無様にスッ転んで、ケツからクチまで串刺しにされたかねえだろ」
濃厚な甘露が凝縮されたカップの中身を胃に収め、ようやくハインは席を立つ。食道からもぽかぽか温まり、先ほどまでの寒気は既に皆無。全身を循環する血液すら熱気を孕んでいる気さえしてくる。脈打つ心臓という炉心にナラの薪をくべられたような感覚が、今は何だか心地よい。
「さて、そんじゃまず最初のレッスンは……」
ずきん。一際臓腑が激しく跳ねるように蠕動したかと思うと、視界のピントが大きくぼやけた。
眼前のエミリアの唇の動きが、ばかにゆっくりと感じる。首を、顔を動かしても、視界が意識に追随しない。まばたきの一回が煩わしくなるほどに遅く、呼吸で肺を膨らせるにも非常に時間がかかっているように感じる。実に平時の五分の一程度の速度だろうか。体感している意識だけが歪に加速しているようだ。三半規管を蹂躙する外界と意識との遅延に、ハインは軽くない眩暈を覚えた。
エミリアの支配権能で外界との時差が開いていてなお加速させられる意識は、果たしてどれほどの期間を体感として経験する事ができるのだろう。ハインはすぐにその答えを出す事ができなかった。
「基礎の基礎、組手の型から付き合ってやろう。実際に足を使うのは後だ――――呼吸を止めるな。背筋を伸ばせ。肺胞に酸素が満ちるのを感じろ」
真似をしろ、と手で合図するエミリア。彼女の声だけが間延びせず、はっきりとそのまま頭の中に沁みていく。緩やかに呼吸、鼻で吸って口から吐きだす。シンプルに、張り詰めた心身の弦を解きほぐし、行使に値する柔軟さを与えていく。最初こそ溺れてもがくように乱れていたハインの呼吸が、徐々に一定のリズムを刻み始める。エミリアの調律が、少しずつハインの身体に同期していく。