浸透
四つの瞳、ウィル・オ・ウィスプの灯を伴って、白銀の鎧で武装した人馬の蹄が土を蹴る。
抜き放ちたるは、刃渡り実に七尺にも及ぶ片刃の大太刀。剣士のゆるやかな抜刀の所作が、刀身の美貌をより強調する。儀仗としての役割のみならず、幾多の曰くが先人より連綿と語り紡がれてきた妖刀である。天球を覆い尽くす狂気の月光を受け、刀身そのものがうっすらと霧か薄靄、陽炎で優雅に着飾られているよう。
湖面の如く。錆、刃こぼれの一つなく、その反りは女体の如くに麗しく艶めかしい。
『聖きを砕く聖剣』禰祢斬之太刀は、ここに臈長けたる全容を月下に晒した。
「よくまあ焦らしてくれやがったなあ、時間を稼ぎてえのが見え見えだぜ」
ぼやきつつ、エミリアは猛進する白騎士を視界に収めながら駆ける。折を見て『牙』による牽制を仕掛けるも、地中から突き出した衝角は紙一重で躱される。もしくは、白刃の一振りで両断されてしまう。ささくれ一つなく滑らかに斬り伏せられた『牙』は、白刃より与えられた呪詛によって瞬く間に白化、朽ちて砂へとなり果てる。騎士の蹄は細かな砂山を踏み散らし、落葉を巻き上げ跳躍する。
「品性を塹壕に取り落した戦争屋がっ!」
逆袈裟からの大きな振りかぶりを経て、白刃がエミリアの喉元へと飛びかかる。
再度、エミリアは『爪』を新規に錬成。分厚い手甲が刃を斜めに受け止め、長刀の勢いをなんとか殺しきる。それでも白刃の神性を相殺する事は敵わず、活性と咒性で編み上げた頑強なる装甲に亀裂が走る。白刃は半ばまで食い込んだかたちになるが、長い刀身は軋みもせず、依然として一つの刃こぼれもない。
「それほどまでに欲しいのか、奈落に落ちる伴侶が! 卑しく堅気に手を出して、道連れにしてやろうとでも思っているのだろうが!」
「抜かしやがれよ小娘が!」
両の腕で長剣を保持するアガーテに対し、競り合うエミリアは左腕だけでこれを凌いでいた。
「あたしの願いは七十余年かかろうが何一つ変わっちゃいねえんだよ! Ⅴを道連れにだあ? 伴侶だあ? 笑わせんなやオッペケ野郎、なぜこのあたしがよりにもよってあの毛も生えそろってねえガキ相手に欲情せにゃならんのだ? テメエの価値観押付けんじゃねえ、クセエんだよ!」
「罪もない少年に過ちを強いて唆すそのやり方の、どこが健全か! どこに大義があるとほざくのだ! 失意を抱いて朽ちるなら一人で果てるがいい、この化外め!!」
「テメエらとあたしの一体どこが違うってんだよ!」
踵を踏み込み、体幹をあらためて安定させる。体重移動。わずかに『爪』の手甲にかかる圧を受け流し、刹那のうちにアガーテの姿勢を崩す。残る右手を用い、エミリアは先の半獣よりかすめ取った小太刀の切先をアガーテの手元へ向け、一息に突き出す。しかし、十分な勢いを得られぬままの刺突。咄嗟に反応したアガーテの肘に切先を逸らされる。
すかさず小太刀を戻すも、迫るアガーテの裏拳がエミリアの頭部を叩き飛ばした。
距離にして十数メートル、立ち並ぶ竹を次々なぎ倒してエミリアは藪を転がった。
背の高い草木が茂る周囲と異なり、そこは幾分開けていた。色の薄い砂利が敷き詰められ、手入れこそ怠られて久しいのだろうが、そこだけは確かにかつての人の営みを感じさせる場所だった。砂利の敷かれた敷地には、見慣れぬキャンドルのような形状の物体がぽつぽつ立ち並んでおり、いずれも朱の塗装が劣化して剥がれかけている。
殴打された箇所を押さえながら、エミリアは背後を仰いだ。升天教会の聖堂と比較するとずいぶん小ぶり、木造のささやかな建屋がひっそりと佇んでいた。壁板はところどころ破れ、正面口に貼られた両開きの戸はじっとりと苔生している。
「――――寺院か。それも皇国の」
これもアガーテの【開闢】の趣向か。わずかな稚気がエミリアの内心に首をもたげる。
神社と称される、皇国の祭祀に要される施設の一種。であるならば、砂利や垣で仕切られたこの建屋一帯は、かつては神域として奉られていたのだろう。もっとも、見る限りでは寂れた廃墟も同然であるが。
「我々が、貴様とさして変わらぬと」
アガーテの沈んだ声色に顔を向ける。建屋の真正面、門戸を象った鳥居と呼ばれるオブジェクトをくぐって、四つの燐光が膝をつくエミリアを見据えた。
「むしろどのあたりが違うのか教えてほしいもんだが」
エミリアは唾を吐き捨てた。滑舌に影響はない。頭部の傷は、そう深くないらしい。あの刀の放つ異常なまでの攻性魔力ならばともかく、アガーテ本人による直接打撃に乗算された戦性程度であるならば、そこまで警戒する必要はなさそうだ。
「あいや、やっぱりテメエらの方がいささかズレはしてるだろうよ。ディートリヒにおんぶにだっこのテメエらに嫌気が射したというのも理由の一つだなあ。そして何より、自分たちの頭にカールやカッサンドラを置いたところでのほほんとしてやがる辺りも救いようがねえ。狂ってやがる。テメエら何のためにテメエの魂売り渡してこんな糞みてえな生き方選んでんだ?」
「アガルタへの到達による、FCAの悲願成就にすら泥をかけると?」
「天国にはあたしだって登ってみたいさ。テメエらの誰よりも早く辿り着いてやりてえ。そして、その恩恵をテメエらみてえに横一列並んでみんなで仲良くゴールしましょうだなんて考えの、敗け犬の腐ったような糞くだらん意向の連中に一滴でもかすめ取られると思うと我慢がならんのよ」
「どこまで貴様はっ……!」
「手前勝手だとでも言いてえのか? どの口がそんな世迷を吐けるってんだよ、寝ボケてんじゃねェ。アガルタの門に至るために、どれだけブッ殺してきたのか……ま、生まれて二十そこらのテメエにはよくわかってねえだろうな」
「そんな騎士団に籍を置いていながら、今更のうのうと人道と語る気か?」
「人道だあ? まさか。語ったところで二束三文にもなりゃしねえ、時間の無駄、人生の無駄だ。あたしがそんな何よりも頼りない倫理とやらに縋ると思っているのか? ナンセンスだ。あたしはいつだって――――いつだって、あたしの嗜好に基づいて、思うがままに生きてきた。それがテメエらの意向と違ったってだけだ、そう難しく考える事でもねェだろ」
右手で、再び小太刀の切先をアガーテへと指し向ける。
「人形でなく、テメエらボンクラを神様に差し出す方が『正しい』と思ったからだぜ。それ以上の理由なんかねえんだよ。そして、それにⅤが乗った。ただ、それだけ。選択したのはあのガキよ、あたしを責めるのはお門違いだ」
「出鱈目を、言うなあっ!!」
アガーテの怒号と同時に、がさりと落葉が吹き上がる。神域の敷地外の藪から半獣の騎士が姿を現し、エミリアを包囲する。砂利を散らす音が四方から響き、エミリアに向けて禰祢斬之太刀――――その贋作である小太刀が、月光を受けて煌めきながら翻る。
「出鱈目でも出任せでもねェさ」
ハインリッヒが乗ったのは、アガーテやブフナーでなくエミリアの尻馬だった。ただ、それだけだ。
「テメエが何を悔しがっているのかは知らねえが、そう喚くんじゃねェよみっともねェぞ? テメエはなあ――――」
牙を剥き、紅く爛々と光る双眼。襲い来るのは、いずれも魔剣の加護によって喚ばれたる狸。霊枝で捕捉した個体数は、先の襲撃の軽く倍。頭数は十を越える。そして、レプリカとはいえ聖滅の刃もまた同数。
エミリアの表情には、わずかな翳りもない。顔には、哀れにも豪奢に着飾ってなおうろたえる小娘へ向けた嘲笑だけ。
――――テメエはフラれたんだよ、アガーテ。おかわいそうに。
『臥龍解・顎』
顕現したのは不可視の『顎』。エミリアの背後に現界した一対の『顎』は両開きの門の如く、勢いよく狸の雑兵を巻き込んで閉じた。びっしりと並んだ『牙』によって貫かれ、磨り潰され、狸どもは断末魔を挙げる暇もなく、腹にしまいこんでいた腸と体液を白い砂利の上にぶちまけた。赤黒い臓物と液汁がしぶき、生々しく染め上げられた不可視の『顎』は形状をわずかに現した。
咒性をほとんど割かず、戦性と瀰性を複合する事で発現する顛現術であり、先の『爪』や『牙』のように魔力を物体として現世に固着させていない。いわば『顎』は圧力波で構築された歪んだ斥力の塊であり、飛竜の形状を借りた形なき現象にすぎない。
果たしてそれを知ってか知らずか、狸どもの血しぶきによって染まった『顎』に隠れ、アガーテはエミリアとの距離を瞬時に詰めていた。
即座に攻め手を変更し、直下からの『牙』を顕現。しかし先までの藪中とは異なり、砂利の発する音で攻撃地点を察知され、容易く長剣がこれを次々と両断。貪欲に敵対者の手の内を分析するアガーテは、いよいよエミリアの有する『牙』の射程、破壊力、やがては魔術的組成をも察したようにみえた。
一心に、そしてただ不乱に討つべき不埒な外道を見据え、自身もまた澄んだ抜身の刃の如く振る舞う。不義と悪徳を憎み、調和をもたらす高潔さを無二なる幸徳と定めたる若き駿馬。
そして、ついに双方の刃が交差する距離へと至る。アガーテ・オレンブルクは、より一層嚇怒の業火を滾らせる。かそけき少女の面影を戦場の無常へ没入させ、その魂を無謀とも思えるほどに燃やしながら、外法の騎士が大きく吼える。
「毒婦が! 彼に何を吹き込んだ、彼は貴様なんかが誑かしていい人間じゃない!」
「毒婦ときたか、ひでえ言いようだなあ!」
刃音散らし、火花立て、魔人二人は白刃と小太刀で斬り結ぶ。
体格、そして手にした獲物、振るう奇跡の性質。いずれを鑑みても、圧倒的にエミリアが不利なはず。にも拘らず、攻めきれない。致命打まで斬りこむ事ができない。焦れて軌跡が歪んだところを、エミリアは的確に打ちこんでいく。
館のエントランスで手にしていたベルンハルデの銃剣では、二度受け流せばへし折られていただろうが、現在のエミリアが振るうのは禰祢斬之太刀由来の小太刀。本物に比べるべくもなく粗悪なものには違いないだろうが、事実としてアガーテはこれを攻略できずにいる。
「オラどしたよ騎士様よぉぉ、腰が入ってねえわ打ち込みもお粗末だわ、ふにゃふにゃ踊ってんじゃねんだぞぉ!? そんなんで、そんな程度でこのあたしを破廉恥だの毒婦だのぬかしてやがったのかあ!? ネンネの分際でナメくさりやがってよお!! 男にフラれて情けなく破れかぶれになってんじゃどうしようもねえよなあ!!」
「くっ……そぉぉぉぉっ!!」
一閃、もう一度かすりでもすれば、エミリアの力は――――人外の異能は大きく権能を削がれる。そういう願いと奇跡が、アガーテの禰祢斬之太刀には込められている。しかし、たった一撃がどうしても届かない。確実に刀身が届き得る範囲で刃を交わしているというのに。
自身の有する咒性の才への局所的上昇補正――――【開闢】等級技術である『神語 春色梅児誉美』は、アガーテの身体を流れる皇国の血と呼応して加護を与えてくれている。帝国の土地を強制的に変容させ、独立した空間に自身のルーツである土地を顕現させる術である。元来は儀式を遂行するための儀場の吟味と選定の為に用いられるはずの術だったが、術者であるアガーテの状況に応じて変化したものである。
「逆に一つ訊きてえんだがな。どうもテメエは、Ⅴに妙な期待を持ってるんじゃあねえのか? あのガキが単なる清廉潔白でか弱い羽虫にでも見えるのか? 泣いて助けを聖人に乞う子羊か何かにしか見えんのか」
【開闢】同士のせめぎ合いでは、アガーテに有利な条件が揃っているはず。それなのにこうまで拮抗するとなれば、エミリアの側の有するポテンシャルがアガーテのそれよりも桁外れに高度だという事に他ならない。既に、アガーテから口を利く余裕はなくなっていた。
「きわめてシンプルなもんさ。あのガキにとって何が一番大事か考えりゃ、手懐けるなんざそりゃ簡単よ。だが」
ひらりとアガーテの刃を掻い潜り、エミリアはアガーテの腰目がけて小太刀を突き立てる。卓越した咒性による通電操作によって先端に戦性を集中させた強烈な刺突。右わき腹のコルセットと装甲の継ぎ目が強引にこじ開けられ、帷子を貫通し柔肌へと刃が達した。
「テメエ如きが、Ⅴに全財産賭けたあたしに勝てるわけねえだろ」
力任せに斬り上げられ、鎧の裂け目から鮮血が噴き上がる。血しぶきで顔を飾ったエミリアは再度『顎』を顕現。ついにアガーテ本人の身体を射程に捉え、白銀の鎧に包まれた馬体を装甲ごと噛み潰した。鎧は【開闢】によって神秘性と強度が底上げされていたにもかかわらずひしゃげ、不可視の牙が深々とアガーテの毛皮を穿つ。先と比にならぬ重傷から、ぼとぼとこぼれる重たげな液汁が砂利を叩いた。
「がっ……ぐ……!」
牙を食らいつかせたまま『顎』はアガーテの身体を真上へ持ち上げる。万力の如くに増していく顎の圧に、骨は軋み筋は断裂する。胸腺に寄生したエクスキャリバーの齎す快癒の恩恵を最大限に活性化させているのだろう、しかし反射的に分泌を促される鎮痛と脳内麻薬もさして効力を見せず、アガーテのぶつ切りの呻きは刻苦に満ち満ちていた。
ぐしゃり、更に圧が高まると、アガーテはついに手にしていた獲物を取り落す。具現化させていた禰祢斬之太刀は砂利の上に突き立ち、やがて柄の先端から細かな光の粒子となって霧消していく。
――――成程。獲物は所詮、具象化させた神威の一端に過ぎんか。
それを見届けたエミリアは、血濡れた馬体目がけてだめ押しに回し蹴りを叩き込む。杭打ちの如きエミリアの渾身の強打を受け、ようやくアガーテの身体は『顎』から解放された。食い込んでいた牙に表皮が剥かれ、細かな血が再びしぶいた。アガーテの巨体は鎮座する社の壁面に衝突し、これを容易く突き破った。劣化し腐って朽ち果てた板壁がその衝撃で次々剥がれ落ち、周囲に舞った黴と埃が月光に照らし上げられる。
上衣に付着した埃を手で払いながら、エミリアはつかつかと社の本殿へと歩み寄る。ところどころ朱色に染まった白銀の鎧が粒子となって飛散し――――湿った木板の張られた床に、満身創痍のアガーテは横たわっていた。
激痛に身を震わせ床を引っ掻く。が、襤褸同然に嬲られた脚は彼女の意のままには動かない。オーロラに包まれていた健脚は枯れ枝の如く無残にへし折られ、皹の入った蹄からは血が滲みだす。もがけばもがいただけ、板張りに血だまりを広げていくだけだった。
「阿呆みてえにしつこく粘って打ち合い仕掛けてきてくれるから助かった。あたしをここから出したくなかったんだろうが、それでクビが締まるのはどっちに転んでもⅩ。テメエには変わりねえんだぜ。いけねえなあ、攻め手がわからん相手に時間を与えちゃ」
「黙れっ……そこを、動くなよ……! 殺してやる、Ⅶ!!」
直後、鈍い乳白の『牙』が床を破って現出した。歪曲した鋭利な突端がアガーテの白い喉笛を貫くと、アガーテの上体は『牙』に持ち上げられるようなかたちとなった。頸に巡った動脈から噴水のように血液がしぶき、周囲の天井や板壁へ深紅の痕を無数に刻み付けていく。喉頭を穿たれたアガーテには、もはや声をあげる事は敵わない。苦痛ゆえの唸りであれ、憤怒ゆえの怒号であれ。口端からただ赤い泡がぐずぐず音を立て、抉れた傷口が血の雫を散らしてびらびら捲れ上がるだけだった。
アガーテの鮮血が跳ねた先には、石作りのまるまるした人形が奉られたひな壇が置かれていた。本殿の壁際に沿って設置され、壇上には掌に収まるものから幼子ほどの大きさのものまで、多種多様な石像が所狭しと安置されている。いずれも丸みを帯びた輪郭をした、乳飲み子を模した造型のものがほとんどだった。神像には真っ赤な生地が前掛けのようにかけられていて、その表情には刻苦や憤怒は欠片も見当たらない。真に純粋な白紙の心境を抱く嬰児のそれであった。
本殿奥には、帝国教会における聖壇の代わりに大量の布の人形が安置されていた。細い枝の先に真綿を挿しこみ、その上に白布を被せ、壁際に置かれた石像と同じく、衣服を模した深紅の布を重ね着させた簡易なものだった。
――――いずれも、これらはアガーテの【開闢】が齎した神威の埒外。アガーテの深層に根付く皇国の自然信仰が、外部からの干渉が【開闢】の魔術現象へ半ば誤動作を引き起こさせた事によるイレギュラー。
既にアガーテが顕現させた【開闢】の未完成宇宙には、相対する侵略者の放つ強烈な毒が根深く浸透していた。
自身が編み出した法理の主権を自認する事こそが、顛現術の奥義である【開闢】に不可欠な要素である。では、術者が何らかの理由で主権である事への自覚を持てなくなればどうなるか。他者への畏怖で自身の根底を突かれれば、果たして無事でいられようか。己は唯一無二の神性ではないと、僅かにもその自尊と矜持を揺るがせば、【開闢】宇宙の存亡はいかなるものになるのだろうか。
「テメエと相手の実力差がどんなもんか把握できんほどのバカタレでもあるまいによ。なんださっきのは、悪手もいいところじゃねえか。くだらねえ。勝機も薄いのに見栄張って万歳突撃死にました、褒めてください上官殿。ってえのは本場の猿のする事だろうがよ。そんなに、テメエは良い子でいてえのか? 命を擲つくれえに」
ゆらり、と。
アガーテを前に立つエミリアが右手を持ち上げ、ぱちんと小気味よく指を慣らす。
それを合図に、【開闢】が形成していたアガーテの環境結界を覆う月光が、灯火を吹き消したかのように光を断った。
「殉死の齎すものなど何一つありはしない。死を誉れだなんだと持ち上げる類の痴愚に――――あたしの子は渡さない」
落葉をがさがさ持ち上げる音を立てて、竹林に似つかわしくない蔦が首をもたげる。竹の一本一本に蔦が這い上がり、絡みついてはそれらを絞め殺す。竹の表面は深緑から徐々に色味を喪い、やがて朽ちて落ちる。
竹藪の生気を吸って蔦から次々に顔を覗かせたのは純白の百合。生物的で肉厚な花弁が緩やかに開花すると、噎せ返るほどの芳香が四方から一斉に垂れ流される。嫉妬と羨望が過分に含まれた女の経血の香り。憎悪と扇情がないまぜになった雌の臭気。びらりとめくれあがった内花被の中で、水気でひたひたになった雄蕊と柱頭は、煮え立つような淫慾を撒き散らす性器だった。無遠慮に放たれる香りの濃密な分子は、もはや呪詛といってもいい。
百合は自身の放った香気を吸い、その淫気に蹂躙されるようにじわじわ花弁の彩りを変容させていく。ぽつぽつと褐色の滲みが現れ始め、やがては純白のすべてを漆黒に塗りあげられる。秘裂から蜜が滴る如くに、花弁の先端から粘り気のある液体が垂れた。
アガーテの【開闢】を体現する月は、音もなく溶けるように消滅していた。竹林の上に広がる天球を、やがておぼろげな白の一色が禍々しく染め上げる。老朽化した木造の本殿に結露が浮かび上がり、さほどの間を置かずにそこも緑の蔦と黒百合に覆い尽くされた。
外光は蔓と蔦の隙間から僅かに覗くのみとなり、社――――否、竹林だったその空間は、エミリアの放つ【開闢】の檻に完全に覆い囲われていた。互いに絡みつく百合の茎が繊維のように噛みあい、内側の繊管束が鼓動を打ち鳴らす。幾重にも連なる血管が縦横無尽に駆け巡る、巨大な生物の胎内のよう。
「ブフナーにも、ディートリヒにも――――カッサンドラにも。もう、もう誰にも渡さない」
厭らしい、そして艶やかな猫撫で声。どすを利かせた声色は既になく、エミリアは恍惚の面持ちで自らの肩を抱き、ぶるりと肢体を震わせる。しとどに濡らした股間を持て余し、起伏の乏しい身体をくねらせる。顛現の欲望からまろび出る、情婦の熱気が華奢な躰から俄かに舞い上がる。
刹那、次にそこに立っていたのは、子供と見紛う半エルフの女ではなかった。八ミリ映画のフィルムが連続した映像を途切れさせ、異なるカットを突然映し出したようだった。
貞淑を象徴する黒を基調とした、ハイウエストのドレスが花弁の如くふわりと開き、女にしては長身な彼女の深紅の頭髪がはらり舞った。女性的な括れと病的な痩身が同居した歪な体躯は、死化粧を済ませた骸じみた青白い肌に包まれており、さながらその振る舞いは冥府から迷い出た屍者の貴婦人。
触れただけで事切れそうな雰囲気を醸しながらも、女より流れる【開闢】の波動が孕む密度はアガーテの比ではない。咒性と活性に関しては数万、数億倍にも匹敵するほどの、途方もない開きがあるだろう。桁が違う、次元の異なる力量をまざまざと示していた。等級でいえば、第四等級『肆之天』よりも上位にある事は明確であった。
女は骨ばった胸元で黒の長手袋に包まれた拳を作ると、一気にそれを振り降ろした。硝子がハンマーで砕かれたような音が女の背後から響き渡ると、蔦と黒百合が作り出す異彩を映す光景が、文字通り硝子の如く砕け散った。背後に開いた大穴の向こう側には、ヴィレハイム館の内装が覗いていた。
脈動する茎と愛液に濡れた黒百合の主――――エミリア・アウグスト・ハルトマンは、黒のルージュが引かれた口唇をうねらせた。
「そんなのあたしがあの子のお母さんなんだから、当然でしょう」
ハインリッヒ・シュヴェーグラーが智慧の実を踏み砕いてから、漸く四分が経過しようとしていた。