開闢
顛現術の発現形態は、大まかに三種に分類される。
ひとつは【帯刀】。
第一級聖遺物である五柱の聖剣、もしくはそのレプリカであるエクスキャリバーを身体に宿す事で顛現術の行使が可能になる。咒式の施された聖剣はその神威を術者の肉体と同化させ、恒常性を外法の行使に耐えられるものへと拡張する。神秘性のかたまりを胸腺に寄生させ、肉や骨を鞘として昇華させると同時に、聖剣が有する霊圧に指向性を与え任意に操作する技術こそが【帯刀術】と呼称されている。
肉体損傷時における治癒、代謝速度の向上。細胞繊維の置換による神経系の更新。心肺機能の向上、極限状況下においてのセロトニン分泌による意識水準の安定化促進。術者が気分障害に陥った際には、半ば自動的にコカアルカロイドに酷似した成分――いわゆるアッパー系ドラッグを含む広義の抗鬱剤――を生成、興奮と覚醒を促進する。いわばセルフ・メディケーションの全般の役割を担う生理強化術だといえる。
ふたつ目に【抜刀】。
広義の【帯刀】には、これらに加えて自意識を形成する倫理観、哲学観、世界観に基づいた高次魔術現象の一端の発露が含まれている。【抜刀】とは、その発露に明確な目的意識を有した上で正規に能力現象を発現させる技術を指す。【帯刀】の定義に包括される能力発露よりも強力かつ大規模であり、ブリタニア正規軍や共和国軍において採用が思案されている戦略兵器に匹敵するものが発現することもある。もっとも顛現術のノウハウが正式に確立した戦後の世において、大量破壊兵器としての運用は著しく実用性に乏しい。十三騎士団や白の大隊の最終目的からして、西側諸国とはイデオロギーを異にするオリエンスに向けての抑止力は求められていないのだから。
三つ目に、【開闢】。
術者の有している願望、渇望、希望に形を与え、一般の魔術現象とは一線を画す高い位相から妄想を具現化するのが顛生具現であり、その極意こそが【開闢】である。【帯刀】や【抜刀】よりも濃密、そして苛烈にして頑強な奔流を一気に現実へ飛散、浸透させる。術者の欲望が思い描き、そして練り上げた自分だけの世界。他者のちっぽけな想像や戯言を一足に踏み潰し、暴力的なまでの気勢をもって覆い尽くす広大な創造宇宙。術者本人が傲慢にも――――否、己こそが天地を拓いた唯一神だと振る舞い、ありとあらゆる法則を隷属させる絶対現象を顕現させる。
術者だけの被造宇宙、絶対哲学領域による現実世界の侵食。これこそが『神に為り替わるズル』を究極へと導く為の顛現の極意であり、この【開闢】に至れるか否かが術士に課せられる課題だといえる。
具現階梯第四等級【肆之天】開闢。
【開闢】術におけるこの最初の関門こそが、顛現術士の分水嶺である。術士のなり損ないとして秘密裏に軟禁され生涯を僻地で過ごす事になるか、まだ見ぬ天界に鎮座する栄光を掴み取る事ができるかが決定する。
不特定多数の他者との間に共通の承認を得、物理法則に意図的な割り込みを加える魔術を扱う第一等級【壱之天】。
聖剣を肉体に受け入れ、【帯刀】によって顛現法に耐えうる変態を終える事で到達する、第二等級【弐之天】
自身の欲求を把握し、【抜刀】によって高次能力として自在に操る事が可能となり到達する、第三等級【参之天】
これら第一から第三までの下位位階と【開闢】を隔てるのが【肆之天】という術理等級である。顛現術の神髄は、森羅万象に横たわる既存宇宙に直接己の意識と矜持をもって立ち向かい、ねじ伏せることにある。十三人の騎士が【開闢】の強靭な意志を結集させ、カール・クレヴィングの拵えた『異界への門』を突き破る事こそが顛生具現、ひいてはFCAという組織の本懐なのだ。贄として排除すべきハシラの神霊は、いわば『門』の閂ともいえよう。
閂の排除は第三等級の【抜刀】で事足りるものの、最終的に儀式の構成員には必ず【開闢】の才が求められる。
アガーテは、そんな【肆之天】を正しく描きだす事に成功した一人であった。
左手を柄に添え、利き腕でランツクネヒトを支える。大上段に構え、アガーテは刃をエミリアに差し向けた。【帯刀】術の効力と、自身の活性魔力が荒れた呼吸に戻してくれる。肺の中に籠っていた淀んだ空気をしずかに吐き出す。
しん、と。音という音が溶け去り、場が静まり返った。固く張られた緊張の糸にこの場を支配されるのを嫌ったエミリアは、ふたたび床を蹴りあげ跳躍。あくまでペースを握っているのは自分なのだと誇示しているようだった。アガーテの制空範囲、刃の届く半径五メートルへいとも簡単に突入し、嘲笑めいた笑みを浮かべてエミリアは切迫する。
一片の恐れもない。
しかし、それは自分も同じだ。戦性と活性を使った狡すからい小競り合いではどうしても敵わないなら、正面からケンカに付き合う必要などない。得意分野で出し抜ければそれでいい。
私は負けない。負けるわけにはいかないし――――そうだ、負けるはずがない。
愛しき彼を想うからこそ、このもどかしき恋慕は己の宇宙にあまねく広がり、女の性を甘く蕩かせる。それは自覚のある矛盾、清廉なる徳性を重んじていながらも情欲の濁流に巻かれる己が魂を正当化している。羞恥と自律がないまぜになった高揚状態。
無意識に、うわ言を呟くように朱に濡れて光る唇が動き出す。
煌々と、魂魄という恒星が輝き続けるアガーテの紡ぐ宇宙。彼女の魂が彼女である為のアイデンティティ。そこに響き渡るのは、彼女の織りなす捧げ歌。彼女の胸中を焦がす、悋気の歌声が現実へと流れ出した。
那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流斯麻能 佐岐耶岐加岐微流
伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米
阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯
阿夜加岐能布波 夜賀斯多爾牟斯夫須麻
爾古夜賀斯多爾多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理
麻多麻傳多麻傳 佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世
それは、遠き異国にて歌われた恋歌。
色を好む想い人に向けた嫉妬と戒め、そして哀願の籠る詠唱。
束縛。
未知なる海原へと船出せんとする男の手に指を絡め、出来るならばその背を引いて繋ぎ留めたい。願わくば彼の者の伴侶となり、その身を愛撫し愛されたい。とろけるような酩酊の中、褥を共に愛しあいたい。
『――――肆之天開闢』
けれども、それは決して叶わぬ世迷。彼の心は、移ろいですらいないのだから。私の躰を見やりもしない。彼の瞳に映るのは、変わらずたった一人だけ。黄金の艶髪たなびかせ、騎士を率いる無二なる乙女。
だから、せめて。この宇宙でだけは、私が唯一の女と為ろう。
斯くあるべし。斯くあれかし。そうと私が告げたのだから、宇宙はそうして姿を変えよ。
『――――冥加解・神語 春色梅児誉美』
アガーテの手の甲、頂点を指先に向けていた五芒星が一際強く発光し、稲妻のように白く鞭打つ。
【開闢】の宣言が高らかに詠いあげられ、エミリアに宣戦が布告された。それと同時に、魔法円の中央に描かれた五芒星が反転する。手袋に描かれていたルーンは裏返り、白地の手袋を飾っていた五芒星は、頂点が手首を指す逆五芒星へと変じた。
完全性の暗喩と称される五芒星の意と異なり、逆五芒星の孕む暗示は凶兆。悪魔崇拝と災厄にまつわる忌むべき象徴として広く認識されているが、顛現法においてはその限りではない。インバーテッドペンタクル、逆位置にある星の暗示する不確定性こそが、未知なる至高へ到達する為の秘鑰に他ならないからだ。
正しくは『無極逆五芒』
それが指し示すのは、宇宙の根源思想である太極、それに寄り添うように存在する無極。陰と陽、この二元的安定性に至ろうとするエネルギーの奔流こそが無極であり、すなわち限定性に捉われることのない、果てしない混沌の概念。規定された秩序に情念を叩きつけ、真なる世界を編み出さんとする、飽くなき探求と欲望を持ち合わせた人間のみが感じることのできるエルアイクニスの甘露。無限の可能性と選択肢を前に好奇の念を濠と滾らせた顛現術士のシンボルだ。
無極逆五芒が形成されたという事は、アガーテの【開闢】がここに顕現するというのと同義。
詠唱が終わり、エミリアの鋭い貫手が黒衣へと届く前に、アガーテの全身をまばゆく光がはじけた。ほんの一瞬の閃光が迸ると、篤実さを醸すアガーテの立ち姿は変貌していた。
少女から女性への羽化の最中にあった顔立ちは、水鏡の如きフェイスガードに覆われていた。両側頭部の二か所ずつに彫り込まれた楕円形スリットからは、サーチライトを思わせる燐光が瞬いている。突起や凹凸といった装飾を抑えたストイックな形状のアーメットヘルム。顎部や後頭部、頚部に至るまでが純白の板金と柔らかな帷子に包まれ、白い素肌の露出は皆無。
胴部は表面に溝が掘り込まれた薄手のフリューテッドアーマー。アガーテのめりはりある膨らみと括れを反映しており、背面腰部は伸縮性のあるコルセット。下腹部より下には、前肢の可動を阻害しない形状に仕上げられた頑強なペイトラル。フランガード、クラッパーいずれも複数枚の装甲板によって編み上げられており、馬人の生命線ともいえる四足はオーロラのような透けた外套がやわらかに包み込んでいる。光を反射し膨らみが輝くのは、これ自体も強靭な金属繊維である証左だろう。装甲部の隙間への攻撃から身を護るためか、この繊維の持つ輝きは関節部や接合部の至る所に垣間見える。頭頂部から突き出る一対の外耳も、繊維の庇護下にあった。
――――なるほど。
突き出した貫手はもう引き戻せない、エミリアは刹那のうちに息を呑んだ。
腕部を覆うガントレットに刻まれた無極逆五芒星、すでにそこに握られていたランツクネヒトは姿を消していた。アガーテの篭手はエミリアの手首を鷲掴み、姿勢を正したまま彼女の華奢な躰を放り投げた。エミリア本人の突進の勢いは殺されず、勢いよく中空へ投げ出される。
※
「これが本命かね」
エミリアは、頭上に浮かぶ巨大な白い球体を睨みつけた。保湿に乏しい年増の素肌を間近に大写しにしたようなグロテスクな表皮を持つそれは、太古より地上の宵闇を儚くも淡く照らす月。視界いっぱいにクレーターを見せつけてくるその有様は、エミリアがアガーテの【開闢】に呑まれた事を暗示していた。
エミリアの立つこの場は、既に埃が積もりに積もったおんぼろ城館のエントランスホールではない。
わずかな風に草木が葉鳴り、冬空から舞い降りる冷気があたりに広がる静謐な夜闇。
等間隔に白い節の刻まれた、妙に腰回りの細い木々が竹である事にエミリアは気づいた。自生している実物を見るのは初めてだ。すべすべした表皮を撫でると、凍てつくように冷たかった。
青みがかった竹林を、異形の月が温度を持たない光を浴びせている。エミリアは肩に乗った笹の葉を払いのけ、軽いため息をついた。周囲には、先ほどの甲冑に身を包んだ小娘の姿はない。
「攻め手を即座に変えて、出し惜しみせずに【開闢】トバしてきやがった」
なかなかどうして、ガキにしては妙に神経質そうな振る舞いから大胆な動きに出たものだ。
エミリアは手近な竹の一本を片手でへし折った。先端を斜めに寸断し、五十センチほどの長さの槍に整える。そして、エミリアは竹を真上に投擲した。数秒後、頭上の何に衝突することなく竹槍はエミリアの足元に落下し突き刺さった。
「ただの幻覚というわけじゃあねえ。生意気にも、あたしをだまくらかす疑似宇宙を派手に広げてきた――――そうかい、あちらさんもやる気満々ってか」
たとえ【帯刀】の恩恵を受けた走力をもってしても、この竹林を抜け出ることは恐らくできまい。先ほどまでヴィレハイム館を包んでいた結界に準ずる外法、それがエミリアの周囲には展開していた。
「あたしがⅤやⅢを追わないようにするための檻か。わざわざあたしのために誂えてくれたのか、それとも元よりこういうしみったれたわけのわからねえ宇宙がテメエの願望か……まあ、どっちでもいいか」
有視界霊枝の精度を引き上げる。確かに、攻性の性質を有した魔力の反応が周辺に点在している。もぞもぞと蠕動する、歯がゆい感覚。敵意や悪意というものを察知すると、いつもそうだ。鬼さんこちらと挑発するように、眼孔の奥の部分がくすぐられる。もどかしい、鬱陶しい。駆除してやるに相応しい。
深緑を揺らす風が止む。
それまで流れていた雑多な竹藪の香りがわずかに薄まり、エミリアの敏感な狭域霊枝が半径十メートル圏内の変調を捉えた。
六時、そして八時方向。咄嗟に振り向くと、エミリアを付け狙っていた敵がついに姿を現した。
アガーテ・オレンブルクではない。【開闢】を発動している術士などが近づけば、垂れ流している発露魔力ですぐにわかる。
身の丈は実に一メートル弱の小人。独特の漆塗りの甲冑が黒光りし、三日月を思わせる黄金の双角が伸びた兜がエミリアの目を引いた。皇国の騎士階級の人間が身に付けるキッチュな装飾がいやにグロテスクに思え、余計に嫌悪を誘う。いかにも恣意的、強権的な時代錯誤を体現する過去の遺物だ。
小人は毛むくじゃらで、鎧の隙間からはこげ茶色の体毛がはみ出ていた。拝火のヴェアヴォルフか、しかしそれにしてはあまりに小柄すぎる。半歩を飛びのき、間合いを詰められるまでの刹那にその兜を覗き見る。眉庇に爛々と輝く双眼は小さい。顔立ちは確かに狼や山犬を思わせるものだったが、それにしては妙にマズルが小さく短い。目の周りは黒い隈取りがあり、毛の質もふっくらとしていて、やわらかい輪郭をしていた。
体つきは寸胴で、ころころ肥ったビア樽のよう。しかし、外見に反しその挙動は俊敏そのもの。膝下まで伸びた藪に手元を隠しつつ、彼らは器用に肉球と爪を使い、腰に下げた鞘より獲物を抜刀する。
藪の影から斬り上げられたその片刃は青白く、ゆらめく炎を纏っているように見えた。刃渡りこそ彼らの体躯に合わせたものである為、そこまで立派なものではない。だが、この場合警戒するべきはその刀剣が持つ業と由来だ。
身を捻って一太刀目を躱し、次いでの真横の払いを後方への転回で回避する。四つの瞳は獲物から視線を動かさず、各々下段に刃を構え再度藪の中を駆けだした。
「はははは、いいぜ!! おもしれえじゃねえか!!」
左の爪先が着地したと同時に、エミリアは二振りの白刃へと吶喊する。そして、【抜刀】。
「肩慣らしに犬畜生をわざわざ差し向けてくれるたあ気が利くなぁ!! 犬どもまとめて腸引きずり出してテメエの尻の穴から糞を流し込んでやるよ、Ⅹ!! なに、そんなんでも死にゃしねえさ、臍から下バラバラに解体してもなかなかおっ死なねえもんだぜ!」
脅迫を吐き散らしながら右手に発露させたのは、エミリアの顛現術『臥竜解・爪』。豪奢な彫り込みの紋様が施された漆黒の装甲板によって組み合わさった手甲から伸びるのは、鉄板の如き巨大な鉤爪。手首より先のパーツは巨象の頭蓋すら軽く握砕できるほどのサイズを有し、歪曲した爪のそれぞれは赤黒く染まっている。
右手に装着された手甲に、半ばそのウエイトに振り回されるかのようにくるりと回転。腰を深く落とし、その勢いと共にギロチンめいた五枚の鉄板を振り上げ、迫りくる刺客の腹に叩きつけた。刃のサイズからして、白兵戦で正確な狙いを付ける必要はほぼない。奇襲も同様の一撃は鎧をまとった半獣に直撃し、一匹を膾切りにする。圧倒的な重量による力任せの一閃は、小柄な血袋を破裂させるにはあまりに容易い。
鉄の手甲と爪に新たな血錆をこびりつけたエミリアは、しかし縦横に藪を駆ける二匹目の奇跡をついぞ補足しきれなかった。青白い刃による横薙ぎの斬撃がエミリアの左わき腹をかすめ、黒の上衣が鮮血で濡れた。再度爪を振りかぶるもすでに遅く、刃は空を切った。
「クク、あはは。やりゃあがった。悪かねぇ、無能のロッポンアシってのは撤回するぜ。ああ、存外悪くねえよⅩ」
痛みが引かない。傷がふさがらない。深くはないものの、活性の治癒能力が働いていないように思える。血液の滲みが徐々に広がるのをちらりと見やるも、エミリアは再び迎撃に神経を集中する。
「ただの剣じゃねえな。皇国の刀だ。それも下っ端の兵隊や騎士が振り回すもんじゃあ断じてねえ」
エミリアの思考はきわめて澄んでいた。口ぶりこそ品性下劣を演じているものの、脅威の優先順位を冷静に規定していた。
あの青い刀がまずい。あれがアガーテ・オレンブルクの【抜刀】、そして【開闢】を大元とする能力なのだろうか。この犬だか狼だか定かではない使い魔も相当の手練れ、だとすれば予想通りアガーテは『咒性』と『瀰性』に秀でた使い手か。
『咒性』によって架空の存在である半獣戦士と竹林を編み上げ、『瀰性』で絶対哲学領域として射程範囲を拡大する。この場合はエミリアをヴィレハイム館の座標から切り離すのに活用したわけだ。『戦性』『活性』を使っての白兵戦から、『咒性』による搦め手で相手の足を止める。理には適っている、さほどおかしな矛盾は見当たらない。
――――それじゃあ、最初の獲物はどう説明づける。【開闢】を発動させる以前より振るっていたあのハルバード。そもそもあれこそが能力の一端【抜刀】ではなかったのか?
ヘルヴェチア傭兵が中世期に愛用していたとされる斧の一種、しかし先刻の鎧で武装したアガーテの手には握られていなかった。
――――そもそもこの【開闢】によって作り出された世界。奴の手にしていたハルバードとは、あまりに属する文化が乖離してはいまいか。
十中八九、この竹林は帝国より遠く離れた東洋の地にのみ存在するものだろう。半獣らも、彼らが身に付けている鎧も、エミリアら帝国人を取り巻く文化圏では目にかかれない代物ばかり。何らあのハルバードとは結びつきが見られない。
恐らくあのハルバードは胸腺に埋め込んだ聖剣――――エクスキャリバーの神威によって顕現した武器。にもかかわらず、こうも帝国人とは縁の薄い魔術現象を実現できるものだろうか。そして、同じエクスキャリバーを身体に有するエミリアの肉体に、快癒不能の傷を負わせることができるだろうか。
強力な『戦性』に『咒性』で細工をすれば、治癒しづらい傷を与えることは不可能ではない。が、エミリアの場合はエクスキャリバーそのものが反応しない。活性魔力がこれを傷だと認識していないらしい。
――――あのハルバードはフェイク。本命はこっち、異国の雑木林を発動させる方だ。得手が『咒性』なのは間違いない。問題は、あいつが"エクスキャリバー以外の聖剣を手懐けている"かもしれないという事だ。
それが、エミリアの浮かべた仮説だった。根拠がないわけではない。以前ブフナーから伝え聞いた事から、この結論に辿り着いたのである。
「異能を殺す魔剣、聖剣喰いの聖剣……なるほど、いまヘルヴェチアのお偉方の手元にはないなら、盗人が元あった皇国に持って帰ってた事もあり得るわけだ。ブフナーの野郎、何を考えてるのか知らねえが、こんなわけのわからねえもんまで儀に持ち込んでやがったのか」
エミリアは左の掌を地にかざし、にやりと微笑んだ。
「しかし、セオリー通りバカ正直に咒性全開で攻めてくるたぁカワイソーなもんだ。頭軽そうなアホはそのぶん『戦性』と『活性』に振り切った筋肉バカか。いやこりゃあたしナメられすぎだな、参ったね」
竹林と藪に紛れてエミリアを包囲する半獣の数は、徐々に増えつつあった。仕留めたのはただの一匹、エミリアの姿を捕捉し、刀の柄に手をかけている半獣は実に十を越える。双眼に宿る輝きは畜生のそれではない、確たる理性を抱く妖の眷属。東洋に棲息する『狸』なるイヌ科の哺乳類を伝承の祖に持つ妖魔の末裔。たとえその身が仮初の使い魔であろうと、英雄と呼んで遜色ない彼らの神格は確かなものである。
「挙句の果てに、あのアマ最後まであたしにこんな畜生ラジコンの相手をさせんのか。コケにしやがって」
しかし、対峙するエミリアには、そんな儚き妖の叙情など取るに足らぬ妄想の残滓に過ぎない。エミリアの左手の甲に描かれた五芒星が反転し、ここにもう一つの無極逆五芒が成立する。
「いつ、どこで。どこの阿呆が、あたしの『咒性』の扱いがヘタだなんてホラ吹きゃあがったんだろうなあ?」
藪から落ち葉が舞い上がり、今度は四方からエミリア目がけて青の刃が迫る。小回りの利く小さな的を相手に、鈍重な『爪』を使った立ち回りは自殺行為と同義。爪を地面に突き刺したままで、エミリアは狭域霊枝で周囲を駆ける半獣の位置情報を正確に認識する。頃合いを見て、ぐっと力強く左手を握る。
連中このあたしを狩るつもりだ。畜生ども、魔物ども、薄気味悪い半人ども。
阿呆ぬかせ! どの口がそんなくだらん与太を吐く? 人間モドキがつけあがるなよ。
エミリアの余興が、殺意の満ち満ちた竹林へと流れ出す。ねじけた口元から、この場の誰よりも濃い戦意と熱気を孕んで噴出する。
Es duftet süß. – Hans Huckebein
我らは勝利の余韻を食みて、その嘴を盃へ伸ばす凶鴉ぞ
Taucht seinen Schnabel froh hinein. Nicht übel!
Und er taucht schon wieder Den Schnabel in die Tiefe nieder.
ああ、この味、この香り。悪くはない――
忘我に至り、夢心地のまま躍る我らは酒狂い。盃逆向け飲み干そう、一滴残らず啜り取れ。
Er hebt das Glas und schlürft den Rest,Weil er nicht gern was übrigläßt.
ああ気分がいい、おお果てそうだ、心の臓すら至福を祝い、猛き鼓動を打ち鳴らす。
Ei, ei! Ihm wird so wunderlich, So leicht und doch absunderlich.
天はちらつき地は波打ち、我らの狂気に恐れ戦く
Er krächtzt mit freudigem Getön Und muß auf einem Beine stehn.
呵々大笑、喝采に包まれ、酩酊の底へ沈む騎竜の葬列
Übermut kommt zum Beschluß, Der alles ruinieren muß.
足取りよろめき千鳥足、やがては誘われ絞首へ至る
Er zerrt voll roher Lust und Tücke Der Tante künstliches Gestricke.
かくて慢心には報いが来たり、一切の昂ぶりはしじまの帳へ覆われる
Der Tisch ist glatt – der Böse taumelt
Das Ende naht – sieh da! Er baumelt.
驚くなかれ、血膿にまみれた終焉は近い
エミリアの双眼が見開かれるとほぼ同時に、地に敷き詰められていた落ち葉が一斉に吹きあがった。半ば腐葉土と化していた地面に浮かび上がるのは、エミリアの手の甲のものと同じ逆五芒。傷口からはみ出す肉と同じ、鮮血のまだらから覗く濃い桃色の光を放つ。
Am Anfang schuf der Held 4te heiligtum “Machonom”
――――肆之天、開闢
【Hans Huckebein, der Unglücksrabe】
――――惨禍の奴隷ヒュッケバイン
柔らかな黒土を突き上げて、隆起した岩盤が巨大な槍となって地上に現出した。半獣――――狸たちの頭部、腹部目がけて突出した鋭利な先端は容易に鎧を刺し穿ち、彼らを物言わぬ死骸へと変えていく。
『臥竜解・牙』
隆起したのは岩盤ではない、エミリアの『咒性』によって創造された飛竜の牙だ。灰色の突端は、またたくまに勇猛果敢な半獣の腸を食い破る。エミリアの思っていたほど血は出なかった。
「見せろやⅩ、ケンカ売んならハンパはナシだ」
エミリアのもとへ最接近していた半獣の刃が彼女の頬に毛筋ほどの傷を付け、やがて最後の十体目が力尽きる。
ぎいぎいと耳障りな断末魔がようやく止む。エミリアの周囲には腹を穴を開け、頭骨を粉砕された畜生が円を描いて果てていた。
「もったいぶんなやアガーテよぉ!! こっちゃテメエとイーブンの肆之天見せたんだぜ!? チンタラしねえでさっさと禰祢斬之太刀出せや!!」