反旗
建物全体に轟くけたたましい噪音。微塵に爆ぜた建材の欠片が床を打つ音が目立ち始めた頃、ようやくアガーテは四階最奥の部屋へ辿り着いた。施錠されていた他の空き部屋と同じく飾り気はない。壁紙は劣化し剥がれ落ち、蹄鉄を床に着ける度に積もった埃が舞い上がる。くすんだ赤い絨毯は、つい先ほどの、床が抜けたかのような振動と音の出所になりそうなものは見当たらない。ただ、ひとつを除いて。
ドアの正面には両開きのガラスの大窓が備え付けられていたが、無残にも窓枠ごと破壊されており、ぽっかりと大穴が空いていた。薄いレースのカアテンが、湿気を孕んだ風にたなびいている。窓の外の天候は、探索を開始した時からさして変化していない。重たげな黒雲が空いっぱいに横たわっていた。
ガラス片と砕けた窓枠が散らばる絨毯の上に、ハインリッヒはいた。膝立で屈みこんで、アガーテが部屋に入ってきたことに気づいているのかはわからない。その背中を認めるや否や、アガーテは安堵をおぼえた。
「ハインリッヒ君!」
びく、と。彼の細い肩が震えた。ハインリッヒはアガーテに振り返り、ゆっくりと立ち上がった。猫のように大きな双眼、薄い朱色の唇。押し並べて色素の薄いハインリッヒの相貌のパーツのいずれにも、およそ感情らしい感情は乗っていない。いつにも増して、その立ち姿は薄や稲穂のごとく儚くみえる。若い生娘のそれよりもきめ細やかなブルネットがそよぎ、無味無臭の色香が艶めかしく主張する。
「あれが逃げたうちの一体、という事ね」
アガーテの背後から、ベルンハルデが呟いた。タブレットケースからまた二粒ほど錠剤を取り出し、口の中に放り込む。
ハインリッヒの足元には、文字通り糸の切れた人形が四肢を投げ出していた。半透明の溶液と臓腑が飛び散り、胸部の内骨格はひしゃげてばっくりと口を空けている。胸骨の中央からは槍のような突起が真っ直ぐにそびえ立ち、その根元では内骨格に癒着する半透明の球体――――智慧の実の智慧が、籠った光を放っている。
色を喪った髪が、てらてらと輝き蠕動するゼラチン質に覆われた皮膚が、このアダム・カドモンが既に受容形態へと移行した事を示していた。ハシラの神が受肉を終え、贄として捧げられる下準備が済んだというわけだ。あの個体は確か、サモアール・プーシキナという名で呼ばれていた人形だ。
ハインリッヒはアガーテを一瞥すると、再び遺骸も同然となったアダム・カドモンに向き直る。ハインリッヒは突起を手袋越しの片手で握りしめた。「あぅ」という、人形の喘ぎにも構わず、彼はほんの数秒立ち尽くす。その間は一秒もなかったかもしれない、それが躊躇なのか、それともある種の決意にかかった時間なのか、アガーテが確かめるすべは無かった。
「待って――――!」
アガーテが声をあげるよりも早く、ハインリッヒの靴底は内骨格ごと智慧の実の智慧を踏み砕いた。
「アァ――――アァァァァ、アアアア――――ッ!!」
嬌声にも似た絶叫。理性なき雌のそれに寸分違わず、やがて人間性に次いでサモアール・プーシキナと名付けられた人形はその役目をここに終えた。アガルタを望む騎士団からすれば、いわゆる無駄死にという結末を迎えて。
顛現法における『戦性』の乗算されていない、聖剣の天威によって増幅された筋力による単純な行為。わずかな魔力は発露しているだろうが、それはあくまで能動的なものではないだろう。智慧の実の智慧は、ハシラの儀になんら貢献する事なくここに脆くも砕け散った。
ぞっと、背筋に冷たく悪寒が駆け抜ける。末端の神経が冷え切り、胸の奥が窄まるような感覚。
彼は、自分が何をしたのかわかっているのだろうか? 些細なミス? 混乱? 勘違い? 幼子が不注意からおいたをしてしまったような――――それとは違うのだろうか? なぜ、彼は、彼はあんな事を?
せめて自身の手で弔ってやりたい、顛現術はその為に使う。そう語っていた、あのハインリッヒが、なぜ。
どうしてなの、そう疑問を投げつけるよりも早く――――銃剣がハインリッヒ目がけて飛来する。まるで既に他者からの戦意を汲み取っていたかのように、ハインリッヒはその場を俊敏に飛びのいた。銃剣は人形の腹部に突き立った。
「やってくれた――――本当に、やってくれたわ。ハインリッヒ君」
半ば愉悦、半ばぐつぐつ煮立つような羞悪を隠しもせず、ベルンハルデはぎしりと嗤った。その右手には、投擲した銃剣と同じものが握られている。産毛の目立たないまっ白な素手から、くすんだ刃が伸びていた。
「そうこなくっちゃ。あなたなら、やってくれると信じてた。焦って首を落とさないようにするのに、ずいぶん苦労したのよ。でも、これで――――」
つかつかと、ベルンハルデは歩み寄る。
「名目ができた」
※
跳躍。刃を少年の白い喉笛目がけて突き出す。が、紙一重で初撃は躱された。受け身を取り、剣の先端から逃れたハインリッヒの華奢な体躯は、弾けるように破られた大窓から飛び出した。迷いなく投げ出された彼の四肢は、二十メートルの高さの宙へと躍り出る。
咄嗟にベルンハルデは窓際に駆け寄るも、ぴたりと足を止めた。目を凝らせば、窓の付近には幾重にも巡らされた白銀のワイヤが蜘蛛の巣のように彼女を待ち受けていたからだ。剣でこれを薙ぎ払い、ベルンハルデは追跡のために窓枠に足をかけて身を乗り出し――――周囲を観察した。
数秒のタイムロスが原因か、ハインリッヒの姿は既に付近にはない。ベルンハルデは舌打ち混じりに嘆息する。が、そこに諦念は毛筋ほども存在しない。
窓から一望できるのはホリゾントの住宅区域ではない。ヴィレハイム館を囲う森林と敷地内の掘立小屋。その奥に小高い丘が存在し、聖マリアンヌ霊園が静謐に広がっている。灰色の墓石が窓からぽつぽつ視認でき、ときおり霊園の森に住まう鳥の鳴き声が風の音に混じって聴こえてくる。
逃げたのはあの森林だろうか?
確かに身を隠すには好条件だろうし、何より彼の固有の顛現術はああした閉所で真価を発揮するだろう。聖剣の威光によって強化された顛現術士の肉や骨すら切断する銀色のワイヤ――――森林ならばワイヤをかける支点に困る事はないだろう、先日の件を考慮するに、ワイヤの箇所によって硬軟を変えることすらできるはず。木々にまぎれて逃げ惑うふりをしながら、何らかの罠を仕掛けるのは不可能ではないだろう。不用意に近づけばバラバラの肉塊に、ワイヤの罠に警戒すればハインリッヒは遥か遠くに逃げ果せる。
が、追跡する側もまた並の手練れでない事はあちらも委細承知の上であろう。生い茂る葉や樹木に紛れるだけでその目を誤魔化せると思い込むほど、日和っているとも思えない。何の下準備も予測もなしに、安易に窓から直進するとも思わない。
「だとすれば、下か」
ベルンハルデは、ふと窓から下を見やった。ここから地べたまで無防備に落下し叩きつけられたとしても、今の彼にすれば重篤な傷には至るまい。では、そのまま下へと降りて館の敷地から来た道を通り逃走したのか? 恐らくはそれも違う。
ハインリッヒは、真下を通って逃走したのだ。
ベルンハルデは窓枠に左手をかけ、外壁に身を乗り出した。壁面に備え付けられている三階部分の大窓のガラスが破られている。窓から逃げてから破壊音がしなかったのは、あらかじめ逃走経路をこちらに決めていたからだろうか。
「アガーテ・オレンブルク! 真下よ、霊枝で追いなさい!」
戦力として期待していないわけではないが、ハインリッヒの捕獲に彼女の手を借りる事などベルンハルデは考えていない。元より虫が好かない女だというのもあるが、何よりあの男は自分の手で叩きのめさねば気が済まない。くたばりぞこないの小虫の分際を弁えず、あまつさえ生意気に顛現の末端を行使してみせる。その才が何にも代えがたく憎らしい。ディートリヒの関心を奪い、身の程を知らずに振る舞うその様が実に実に目障りだ。
そんな奴が、こうも堂々と宣戦布告をしてくれたのだ。目の前で、見せつけるように挑発してきたのだ。智慧の実を砕き、お前たちを贄にしてやると、中指を尻の穴に突き込んでやると。そうさ、乗ってやらない手はないではないか。子供のおいたに加減をするほどの爛れた生命至上主義には染まっていないという事を、教え込んでやらなければなるまいよ。これはいわゆる教育だ。
三階の一室に降り立つと、広域霊枝を展開してハインリッヒを追う。アンデルセンほど正確かつ広範囲を探る事はできないが、それでも実用性は十分にある。ベルンハルデはドアへと歩み寄り、真鍮のノブには目もくれず、ドア板を拳で殴り飛ばした。蝶番が音を立ててひしゃげ、木のドア板は廊下へ倒れ込んだ。埃が濛々と舞う中を、ベルンハルデは微笑を浮かべながら疾走する。
「女の子を二人も置きざりに一人で逃げ出すなんて、ちょっと冷たいんじゃないかしら? ねえどう思う、ハインリッヒくぅん!?」
ドアを蹴破り壁を拳で粉砕し、ベルンハルデは猛進する。既に『戦性』方面に特化した魔力が、全身の隅々にまで行きわたっている。劣化した建材に阻まれるほど、ベルンハルデの純粋な肉体は貧弱ではない。ブロッホ、エミリアには劣るものの、彼女もまた白兵戦に非凡な才を持つ一人なのだから。
中央ホールの吹き抜けにまで到達すると、ベルンハルデはついにハインリッヒの姿を認める。ワイヤを手繰って向かい側に移動している最中だった。視界の端で追跡者を目撃し動揺したのか、ハインリッヒは着地に失敗し転倒する。すぐさま立ち上がろうとするが、ベルンハルデとの距離は縮まるばかりだった。ベルンハルデは欄干に足をかけた。膨れ上がった大腿筋が彼女の体躯を押し上げ、跳躍。弧を描き、猛然とベルンハルデの刃がハインリッヒへと迫る。
この時の彼女の得手は銃剣ではない、顛現術によって顕現した細身のレイピアである。銃剣よりも剣身は長く、専ら刺突に秀でるこの得手はベルンハルデの愛する刀剣のひとつ。波を模した歪曲紋様を鍔と柄にあしらった漆黒の一振りを、ベルンハルデは虚空より抜き放った。廊下という閉所に逃げ込むのなら好都合、このまま喉元を壁に縫い付けてやろう。腿を、二の腕を解体するのはそのあとだ。二度とおいたをしないように、教育をしてやらなきゃいけない。お兄様に、私に反意を持つなんて。許されない、赦してはいけない。
※
玄関ホールの内壁がはじけ飛び、粉砕された壁材が床に突き刺さった。
瓦礫と共に館の内部へ突入した闖入者は、既にその鋼鉄の拳を振り下ろさんとばかりにしていた。まるで狙い澄ましたかのように、大気を裂く弾丸の如き拳はベルンハルデを撃ちぬこうと殺気を噴き散らしていた。
エミリア・ハルトマンは、妖しく笑った。
よォ、久しぶり。元気してた? 調子はどう? それなら死ね。
生命の取り合いこそが茶飯事とも言いたげな狂気の住人。屍山血河のニンフ。不死者の娼婦。灼熱の赤毛を振り乱しながら、ハインリッヒよりも更に小柄な悪鬼がベルンハルデに視線をくれていた。
撃鉄に雷管を叩きつけられ、正拳がベルンハルデに放たれる。が、間一髪でその一閃はもうひとつの刃にいなされ不発に終わった。アガーテ・オレンブルクの得手であるハルバードが、両者の間に割って入ったのだ。無理やりに柄をエミリアの上腕に叩きつけてその軌道を変えると、すぐさまアガーテは左手をハルバードの柄から離す。
次いで腹帯のホルスターから手にしたのは、猿人やエルフの腕では到底扱いきれないであろう大型の狩猟用回転式拳銃。マグナムと称される実包を専用弾として開発されたこの大型銃、装填されている五発のサイズは実に五十口径。拳銃弾を弾き飛ばす羆の頭骨を打ち貫く威力を実現した既製品に改修を加えたものであり、その運用目的は『聖剣の威光を撃ち貫く』ただ一点である。弾頭に込められる鉛の代わりに水銀、または聖剣と同じヴォーパル鋼を組み込んだオーダーメイド。アガーテがブフナーより手渡された、世に二つとない物騒なお守りだった。
銀に輝く銃身は一般的な回転式と比較しても太く分厚く、そして何よりも長大。ヘルヴェチア、そしてかつての帝国軍の技術と戦闘経験の粋を結集して実現した大火力拳銃。粗暴、野蛮、他の追随を許さない程の暴力性と、幾多の兵や設計士の智慧と技術とが同居した代物。冠された名は『ケイローン』、伝承に登場する半人半馬の賢者の名でもある。
量産までこぎつけることはなかったものの、ケイローンは七十年の時を経て、そのマズルの炎を噴き上げた。事に相手がエミリア・ハルトマンであるならば、アガーテの引くこのトリガーは軽い。
この場にエミリアが現れたという事は、かねてより抱いていたアガーテの懸念が最悪の形で実現したといってもいい。すなわちエミリアが何らかの形でハインリッヒと密通しており、無為なる殺戮を目的として彼の心境に付け込んで誑かし利用した。団員同士の不和と疑念を撒き散らすべく、ついに明確な敵対行動を開始したわけだ。
業火の如きマズルフラッシュと共に、あらゆる野獣の頭部を食い破る一発が咆哮を伴って放たれる。
ライフリングに合わせた螺旋を描いて大気を裂く弾頭は、エミリアの頭部へ吸い込まれていった。弾かれたように彼女は頭部を下にして落下し、ホールの床へと倒れ込んだ。着地したアガーテはケイローンを真っ直ぐに構えたまま、ベルンハルデの背中を見送った。
撃鉄を起こし次弾を薬室へ、警告なしにアガーテは二発目を頭部に撃ちこむ。
しかし、絨毯にエミリアの脳漿が絵図を描く事はなかった。のっそり上体を起こしたエミリアは、二発の大口径弾を葉巻のように咥えていた。顎を開くと、絨毯の上にごとりと音を立てて転がった。
「邪魔すんじゃねェよかわい子ちゃん。妬いてるわけでもあるまいに、ひでえことしやがる」
口内の粘膜にも、弾丸を受けた歯にも、傷はおろか火傷一つない。純白の歯列を見せつけるように、エミリアはにたりと微笑んだ。
床を蹴り、アガーテは再度ハルバードを振りかぶる。
顛現槍ランツクネヒト――――アガーテ本人の術によって形成した戦闘用の第二級聖遺物。やはり直接胴と首を離さない限り、この女を討ち果たす事はできないらしい。淡い蒼の燐光がランツクネヒトの刃を輝かせ、流星のような軌跡を描いて揺れる。身体モデルを書き換える。循環する魔力の『戦性』と『活性』を強め、白兵戦に思考と肉体をシフトさせての、渾身の一閃がエミリアに振り下ろされる。
「血の気が多いと早死にしちまうぞ、ガキ」
今まで丸腰だったはずのエミリアの手に握られていたのは、鈍く黒光りする銃剣。ベルンハルデが得手をレイピアに持ち替えた際に捨てたものを、エミリアは床から抜き取ると同時にハルバードの刃へと剣線を奔らせた。正面から刃を受け止めるのではなく、ほんの少し斧の腹を圧されただけで、軌道は大きく逸らされる。
その隙を縫って、エミリアは大きく前方へ踏み込み最接近。がら空きになったアガーテの懐にゆうゆうと入り込み、軽く上方へ飛び上がったかと思えば、捻った下半身からの強烈な回し蹴りがアガーテの頭部を刈り取った。強打の瞬間意識が途切れ、体勢を崩して無恰好に転がる中でできた事と言えば、得手のランツクネヒトを手放さなかった事くらいか。
歯を食いしばり、再びエミリアを視界の中央に入れる。
七十年前の東西戦争、一際凄惨な殲滅戦が絶えず行われた東部戦線、そして戦後のキャメロット事変を潜り抜けた猛者。汚濁の血を被り、魔物の肉を食み魔人と相成った存在が、真っ直ぐにアガーテを見返している。
このままあの女と真正面から闘ったところで、奴の魂に刻まれた無数のキルマークのうちのひとつに加わるだけ。顛現術の扱いについての歴然とした差に、アガーテは刹那の内に実感していた。
純粋な格闘能力やスタミナであるならば、馬人であるアガーテに分があるといえる。しかし、こと顛現法を絡めた白兵戦となれば話が変わってくる。
顛現法――――顛生具現術法とは、いわゆる聖剣、それに紐づく伝承や神性の有する奇跡に指向性を持たせ、手綱を握る為に編み出された秘術である。一般に普及した魔術や信仰をペテンであると一蹴し、己の有する渇望、情念、妄想こそが唯一無二の絶対法理だという観念に基づいて具現化する『神になり替わるズル』。ゆえに、その発現形態には術者の個性や環境によって培われた哲学観念が色濃く反映される。
顛現法の行使技術には升天教総本山ヴァチカンの制定した聖剣、および聖遺物の階梯分類方法が流用されている。
一般に聖遺物は、聖人として認定された勇者の身体の一部を第一級、聖人が直接身に付けていた物品を第二級、この第二級聖遺物に接触した物品を第三級聖遺物……この法則に則って、第五級聖遺物までが制定されているが、騎士団が身体に宿している聖剣はいずれも第一級聖遺物。本来ならば武具といった物品は第二級に相当するはずではあるが、五柱の聖剣と称されるこれらだけは例外として扱われている。
曰く、勇者の背骨を鍛えた剣であると。曰く、勇者の臍の緒を鞘に埋め込んだしろものであると。
真相こそ定かではないものの、カールの介入と三賢者――――フルーク、アンデルセン、アルトゥールの尽力によって顛現法が確立してからは、人智を凌駕した奇跡を顕象させる存在として認められている。
その中でも、顕象した奇跡の種別には五類型の個性が存在する。
『戦性』――――征服と戦勝を暗示し、闘争における勝利と支配を司る性。
『咒性』――――言霊と呪術を暗示し、信教における法儀と教義を司る性。
『業性』――――人の魂に宿るカルマを暗示し、聖人の奇跡の規模や特性に携わる性。
『活性』――――繁栄と発展を暗示し、人間そのものや自然物、果ては技術に至るまでの活力を司る性。
『瀰性』――――伝播と瀰漫を暗示し、顕象した奇跡の拡大や継承に携わる性。
無論例外も存在するが、顛現術の行使の種類もまたこの五つの個性に分類される。聖剣をその身に宿す聖遺物容器として直接奇跡を執り行う顛現術士にのみ適用される概念である。
推測になるが、特にエミリア・ハルトマンは顛現法においては『戦性』と『活性』の才能に秀でた剛の者であろうとアガーテは考えた。
すなわち『戦性』……優れた戦闘技術とセンス、白兵技術に恵まれ、『活性』……類まれなる生命力、頑強な活力をも持ち合わせている生粋のパワーファイター。
また、国力の強度や技術発展を司る『活性』に秀でている事から、発露させる魔力量の調整にも卓越しているのだろう。先ほどの攻防、エミリアは使い慣れていないはずの、しかも他者の顛現術によって現界した銃剣に合わせて性質を変えた『戦性』魔力を通電させ、アガーテのランツクネヒトを受け流した。『戦性』の性質を『活性』の才能を以て乗りこなすという手間をかけた上で、アガーテが自身の『戦性』の全霊をかけた一撃を容易くいなしてみせたわけである。
直後の回し蹴りに関しては、アガーテが警戒して予め発動させていた、身体を覆う防御膜が無ければ、いとも容易く頭蓋を砕かれていただろう。『活性』と、それに加えて顛現術の起こす奇跡の範囲を規定する『瀰性』を掛け合わせた防性魔力の応用であるが、これを展開していたからこそ攻撃がおろそかになっていたともいえる。
予想するに、先ほど館の外壁を突入してきた際の一撃にも、恐らくエミリアは全力の二分も『戦性』を発揮していないだろう。ケイローンの弾頭もまるで効果がないところを見るに、『活性』の才に内包される治癒、回復能力にも恵まれているはずである。
『咒性』……ブリタニア正規軍で正式採用されている『紅の弾丸』といった、自身の魔力そのものを攻撃に用いる技術に近しい才に、アガーテは特化している。
ものを想像し、規定し、定義し、理解し、創造し、行使する。この一連の流れを行い、まったくの架空の存在を顕現させる。単なる皮算用や放漫な絵空事ではなく、確たる芯の通った、術者の哲学や理念に裏打ちされた奇跡である事が不可欠とされる術法。しかし、一端とはいえその『咒性』を乗せたケイローンでの射撃でさえ防がれたという事実が、アガーテの矜持に重くのしかかる。
「行かせる、ものか……貴様などの好き勝手にはさせない」
「口の利き方がなってねえガキだな。ブフナーの教育はどうなってんだ?」
四つの脚に力を籠め、アガーテはエミリアの進行方向を遮るように立ち塞がる。ランツクネヒトに再度『戦性』を籠め、魔力を発露させる。
「貴様こそずいぶん余裕があるようだな。Ⅴがどうなってもいいというのか」
「こちとらマンカスくせえメスガキにいらん心配こかれるほど耄碌してねんだよ、人形全部揃えてねえテメェらボンクラがあれをどうこうするわけねぇじゃねえか。でもよ、せっかく懐かせたのを赤の他人に捏ねまわされるのはどうにも癪なもんでな。できればあの妹君をブッ殺しに行きたいわけだが」
「懐かせただと?」
ふざけろ、拠り所になる倫理も道徳も持ち合わせない悪鬼が。
復讐の泥沼に足首を引きずり込んだだけだろう、彼を血河の亡霊に仕立て上げたいだけだろう。
誰かの転落を願い、誰かの破滅を己の幸福とし、己以外のすべての不幸を是とする下衆の極み。アガーテの徳性が、決して見過ごす事の出来ない歪み。
『そうせざるにはいられない』
それこそが渇望であり、アガーテの哲学の根幹に存在する顛現の源なのだ。
「どうしてもってんなら、相手してやらないでもないがな」
手指の骨を鳴らし、エミリアは坐った双眼でアガーテを見やる。
「日和見主義のブフナーの子飼いにしちゃずいぶんお盛んじゃねぇか。え? 欲求不満か? 尻の穴から尿道までヒタヒタのグズグズになっちゃいねえか? さっきからくっせえくせえ馬小屋のニオイがしてたまんねぇんだよ、そのシマリの悪さはどうにかならんもんかね、オイ」
物言わず、ただアガーテは自身の内より湧きあがる義憤と憎悪に身を委ねる。あちらの出方を伺うとともに、『想像』と『創造』に意識を割く。
『貴様のような畜生は、永劫須臾の竹林で悲劇を演じておればよい』
『咒性』と、そして産まれ持った業の特性に規定される『業性』によって、徐々にアガーテの魔力は密度と『正当性』を増幅させていく。その事実を知ってか知らずか、エミリアは口を閉じることをしない。圧倒的強者ゆえの挑発か、それとも興が乗ったからこそ、あえての遊戯感覚か。その、両方か。
「黙ってねえで何とか言えや、人間モドキのロッポンアシ」
それは、帝国社会における最大級ともいえる侮辱の単語。ケンタウリを同じヒトと見なさぬ、今では滅んだ魔物と同列に扱った唾棄すべき差別用語だった。
昏く、どこまでも昏く沈んだ瞳で、アガーテはエミリアを見据える。
「おまえみたいな――――」
これよりアガーテが切ろうとしているカードは、いわゆる切り札のひとつ。可能であればジョーカーは秘匿しておくべきだというのは、顛現術士のみならず魔術師にとっては普遍の常識といってもいい。現にアガーテは自身の能力偏差や『抜刀』の特性をブフナー以外に口外する事はなかったし、これからもそうするつもりはない。ベルンハルデがこの場にいないのは、むしろ幸いとすら言えるだろう。
「おまえみたいな奴が、あの子に擦り寄っていいはずないだろうが」
独善にして何よりも高慢。
しかし、だからこそ術の正当性が担保される。意地と意地、矛盾と矛盾、そして奇跡と奇跡のせめぎ合い。前代未聞の顛現術士どうしの戦いは、このどうしようもなく稚拙な感情の押し付け合いに他ならないのである。
ここに、アガーテは『抜刀』を。
そして、『肆之天開闢』を宣言する。