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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
錆びた栄華の残滓
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展望台

 階下の構造は、アルマとジークフリトの二人を待機させている上階と同じく円形だった。これまでの暗所に順応していた視界に光が浴びせられ、反射的にてのひらを顔の前にやる。両のまぶたを細め、指の隙間から漏れる光に目を慣らしていく。


 手をどけると、ハインは思わず息を呑んだ。フロア壁面の円周三六〇度は透明な、水晶のような材質で覆われていた。外部から射し込める西日が、深い紺色の床を橙に染め上げている。壁一枚隔てた向こう側は、屋外だ。下へ下へと降った結果、ここにあるのは果たして未知なる黄金郷エルドラードか。ハインの眼下には、赤く夕焼けに照らされた直方体が果てなく、そして隙間を埋めるように建ち並ぶ景色があった。天空を自在に舞う翼人たちですら届かぬ遥かな蒼穹から、地平線に至るまでを余すところなく観望している。コンクリート塊に覆われた大地は、精巧な砂糖菓子のようにも見えた。


「何だ……これ!?」


 壁の外に駆けより、ハインは聳動に身を震わせた。やけに口内が渇く。


 外周部には等間隔に望遠鏡が設置されていた。さながらここは展望台か。硬貨を投入する穴が空いていたが、値段表示のパネルは剥ぎ取られていた。機材そのものは錆びついていて、使い物になるようには見えない。ふたたび眺望に肉眼を戻す。


 パリで開催された万国博覧会の象徴、共和国ガリアにおける革命記念式典のセレモニーにおいても大々的にその存在を誇示したエッフェル塔よりも、その視点はなお高い。灰色の角砂糖がチェス盤の如く画一的に整理された面上に並べられ、まるで規則的な紋様を描いているよう。


 無機質な地上とは、一筋の地平線で分断された空。うっすらと星々のきらめきを携える薄暮の天球。沈みゆく太陽から離れるにつれ、紺碧のグラデーションを深めていく穹蓋。こんなにもくっきりと星々を仰ぐことなど、有史以来、翼を焼かれたイカロス以外の誰にできただろう。


 異観を映す壁に手を添えて、ハインは景色に沿って歩み出す。ほとんど無意識だった。


 うっすらと、綿のような雲の切れ端が足元を漂っている。天候は快晴と呼んで遜色ない。


 ハインの脳裏に浮上してきたのは、昨日目撃したとある光景。宵闇の夜天に穿たれた傷痕から覗く、深紅に彩られた異界の俯瞰図だ。現代における錚々たる先進都市ベルリン、ローマ、パリ、ロンドン――――いずれとも都市の孕む風致とは一致しない、いわば創作の空想都市。


 国家別の地方色はおろか、人間が介在したという感覚すら湧き上がる事はない。冷たい、あたかも打ち棄てられた廃墟じみた印象だけがぽつんと浮かぶ。直方体の並ぶ網の目、アスファルトや石材で編みこまれた毛細血管には、立ち歩く人の姿は皆無。走る車輌の姿もない。目を凝らして、ようやく車道と歩道が仕切られている事がわかった。ケンタウリ専用道は見当たらない。


 ここが展望台で、巨大な塔の上階に存在するのなら、あの未知なる大地に降りることも可能だろうか。だとするなら、階段かエレベーターがどこかにあるはず。そう思って、ハインは視線を動かす。フロア中央の大階段を柱に半周してきたことになる。ちょうど、降りて来た際に迎えられた西日を背負うかたちである。



 陽の当たらぬ場所で、彼は景色を背にして座り込んでいた。水晶の壁に背を預け、結界の主は瞳をとじて静かに寝息を立てていた。その両腕には少女を抱き、まるで死期の迫りくる彼女の最期を看取ろうとしているようにも見える。男にしてはやや長い、しなやかな暗色の髪が、呼吸に合わせて艶めいている。服装はシンプルな白ブラウスと、灰色のダメージスラックス。


 彫の深い、鼻筋のはっきりしたその顔立ちに、ハインは見覚えがあった――――そうだ、忘れる筈がない。あの男は、自分のかけがえのない――――


「兄さんッ……?」


 静寂に単語だけが反響し、やがて虚しく静まり返る。


「兄さん、マルティン兄さん……!」


 ハインは数か月ぶりに見る兄のもとへ駆け寄り、屈んで呼びかけ続けた。


 その腕に抱かれているのは、やはりハインのよく知る少女――――アダム・カドモンの一人、サモアール・プーシキナに間違いはなかった。トレードマークの眼鏡はなく、半開きになったままの彼女の裸眼に生気はない。金色の眼球には、縦に大きな皹が入っている。緩んだ口元からは、まだ幾分かのみずみずしさを保った歯列と舌が垣間見える。精巧で、どこまでも豊艶な少女特有のやわらかな肉体美を孕んだ模造品イミテーション


 すでにハルヴァのような『受容形態』に移行しているのか、まさしく人形のようにぴくりとも動かない。歯を食いしばり、ハインは再び叫んだ。


「兄さんッ!! 僕だ、ハインだよ!」


 その声が届いたのか、ゆるゆるとマルティンは開眼する。


 カーシャや、眼下のサモアールと同じ金色の瞳が露わになる。ハインは、そこに映り込む自分の青白い貌を見た。


「兄さん……!」


「君は――――」


 木枯らしに吹かれ、力なくそよぐ枝葉の立てる音のような、そんな掠れた声。


「君は、もしかして……ハインリッヒ、か?」


「当たり前だろ、弟の顔を忘れないでよ」


「弟……オレに、弟……?」


 朦朧とした、霧中で彷徨う夢遊病者。思考が混濁しているのか、二の句を次ぐのにハインはやきもきした。


「そうだよ。ハインだよ」


 虚ろだった目つきが、徐々に見開かれていく。茫然自失、掠れた喘ぎがわずかに聞こえる。


「それで、あなたは僕の兄のマルティン――――」


「違う、違うんだ」


 かぶりを振り、強く否定する。


「違わない、だってマルティン・シュヴェーグラーは僕の!」


「いいや、違うんだ! オレは、オレはマルティンじゃない!」


 絞り出すように、彼は嗚咽を押し込めている様子で続けた。


「オレは君の兄貴じゃない」


「何を、バカな!」


 無為な問答の末に与えられた返答に、ハインは吐き捨てた。ハインとて正常な状態とは言い難く、心的な均衡性、バイオリズムは狂ったまま。苛立ちを遂に抑えられず、ハインは語気を荒らげた。


「すまない、申し訳ないが……違うんだ。オレは」


「じゃあ何だ、そのつら下げて自分は誰だっていうんだ!? マルティン・シュヴェーグラーのそっくりさん? 瓜二つ? それとも外科手術でそういう顔になりましたって!? ああ傑作だ、こいつあ面白いや。そんな間抜けな言い訳を鵜呑みにするような阿呆だと僕は思われていたわけだ」


「本当に、すまない。落ち着いてくれ」


 骸同然のサモアールの躰を床に置き、男はハインの両の肩を掴んだ。しかし、熟れすぎて今にも弾けそうな彼の感情には逆効果だった。


「触んな!」


 力任せにハインは男を引き剥がし、傍らへ放り投げた。その長身を誇る体躯からは想像もできないほど用意に挫け、男は床へと倒れ伏した。


 上衣から拳銃を抜き、セイフティを解く。トリガーには、先ほどアルマやジークに向けたときよりもずっと強い圧が既にかかっている。


「あなたもグルになってふざけてるのか? 少なくとも、僕たちよりかはフルークの奴と会う機会は多かったものね。全部、全部知ってたのか? 知ってた上で、ここでこうやって、わけのわからない結界なんぞで僕を呼び寄せて……僕をからかって遊べれば御の字だって? あんな、あんないかれた騎士団の連中と付き合っているうちに、そういう趣味に目覚めたわけだ」


「ハイン――――」


「気安い!」


 行き場のない憤怒に震える手先、そして銃口。今の状態で発砲しても、恐らくは男の頭を正確に砕く事はできまい。


「僕がここに何しに来たかわかるか?」


 男は押し黙り、応えない。上体を起こして、しかし伏し目のままだった。


「サミィを生贄にする為に来たんだ。サミィの、心臓みたいなものを顛現術で打ち砕いて、ハシラを生み出すんだって――――バッカみたい! やらされてる方がこれだけ笑えるんだから、やらせてる側としたらこれ以上なく愉快だろうね。歴史錯誤も甚だしい、ガスコンロで火も起こせるし指先一つで蛍光灯が点けられる今の世の中でさあ!」


 静かに、男はハインの咆哮を聴いていた。


「もういちど、聞く。あなたは誰だ」


「オレは……」


「もったいぶるな!!」


 わずかな溜めにも、ハインはストレスを露わにして憤る。


「アルトゥール。アルトゥール・シュヴァイツァー。オレにとって、君は……弟じゃあ、ない。君の兄貴でいたオレは――――オレが目覚めた事で、もういなくなった。マルティンは、言うなれば夢の中でのオレなんだ」


「は……?」


「すまん……夢、などという表現は美化しすぎだな。あれは、偶発的に発生した魔術的エラーだ。本来ならばオレ本人――――アルトゥールという意識は死ぬはずだったんだが……」


 頭の中に、何も入ってこない。思考に白ペンキをぶちまけられたようだ。


「アダム・カドモンを使う儀式については、その様子だと概要くらいは把握しているみたいだな……当然か。どの恰好を見れば……」


「厭になるほどには」


「なら話は早い」


 マルティン――――自称アルトゥールは立膝になり、ハインを見上げた。


「智慧の実。ヴォーパル鉄鉱由来の特殊伝導体だ。そいつがこの世界、エデン・ラティオのカミを収める器として作用する。アダム・カドモンは智慧の実を儀式に対応する聖体に育て上げる為の、いわば苗床だ。神性が降臨する為には、経験論的な意味で発達したこの独立人格が必要不可欠とされていて、要は大勢で広場でお祈りしているうちは神様は顔を見せてくれない、って事らしい。うまいこと神様が降りてきてくだされば、智慧の実は智慧を蓄える――――あれが、その状態だ」


 アルトゥールは、横たわるサモアールの横顔をちらりと見やった。


「世界を支えるハシラの神を受肉させ、すべてのカミを人間のありのままの願いで処刑する。そうして果たされるのが、楽園(アガルタ)への扉の錬成だ。アダム・カドモンも、そしてこのホリゾントキュステも……すべてはその為だけに誂えられた。あるかどうかもわからない異世界に……天国に縋って、大勢の人間がカールやヴァイルブルクの口車に乗せられて、事もあろうにすすんで犠牲になっていった」


「狂ってる……どうかしてる、気持ち悪い……!」


「ああ、今になって……オレもようやくそう思えるようになった。本当に、バッカバカしいぜ」


 手をひらひらさせて、アルトゥールは自嘲した。


「本当に笑えるのは、誰の事でもない。このオレのこった。テメエの身体がバラされて、こうして夢から覚めるまでずっと気づきゃしなかったんだからな。人造人間、超魔術、いにしえの錬金術師――――少し頭を捻ればガキも騙せねえような文句に引っかかって人生棒に振った糞馬鹿なんだ、オレは」


「夢……?」


「君にとっては、悪夢みたいなものだったな……」


 それは懺悔のようでもあり、アルトゥールは断罪を乞うているようでもあった。




「今のオレの身体は、その女の子と同じようにコーラルフレームと人口被膜――――アダム・カドモンのそれと同じだ。くたばってなお、儀の本番に相応しい人形を育成するのに、いいように使われていた。マルティン・シュヴェーグラーとして、彼女たちの保護者として……君の兄貴としてな」


「それが、あなたにとっての夢だっていうんですか」


「人間、死んじまうのは眠りから覚めなくなるのと同じようなものだ。オレは、確かに一度死んだ。そうでなきゃ、君や彼女たちのような存在はここにはいない。君やマルティンを使ってアダム・カドモンを完成に導いたのは、元を正せばオレだ」


 頭を垂れ、上目でハインの相貌を見つめる彼の姿は、首を差し出す囚人と変わりがない。胴と首が離れるまでのわずかな刻に、アルトゥールは床を見つめて赦しを願い出る。


「――――あの日の夜、あなたはどこで、何をしていたんですか」


 這うような声色で、ハインは呟いた。


「ゼフィールたちと同じように、フルークの慰みもののように振る舞っていたというんですか」


「……」


 返答なし。無言の肯定だった。


「オレがあの日について語れることは多くない。君の想像する通りだと思う……正気を取り戻したのは、四月に入ってからだった」


 所詮は己の意識など、こうまで好きに弄ばれては単なる泡沫。路傍の石程の価値すら持たないだろう。ゆえに、アルトゥールは自身の魂を異教の神ではなく、己の良心に基づいた断罪の果てに燃やし尽くそうと考える。こうして二度と目覚めるはずのない、滅んだはずの自分の意識が再びアダム・カドモンとしての義体に宿ったのは、マルティンが愛したハインリッヒへ懺悔する為だろうか。


 あまりに幼稚、あまりに手前勝手な、東西戦争の忘れ形見たちの欲望に、身も心も蹂躙されたハインリッヒに抱いた罪悪感は、ここに至って果てしなく膨張していく。


 崩れゆくサモアールの身体を今日まで守り通してきたのは、その感情の表れに他ならない。終の棲家にこのヴィレハイム館を選び、無意識ながらも顛現に近しい結界を発動させ、ハインリッヒを招いたのもそこに起因するのだろう。


 マルティン・シュヴェーグラーもまた、ハインリッヒという純正の人間によって育てられた疑似人格。ゼフィール、カーシャ、ハルヴァ、サモアールと同様に、相互に他愛のない日々を過ごす事によって形成された、まつろわぬ神の哀れな器たち。マルティンという、限りなく自分に近しく、しかし限りなく自分からは遠い他者の目を通して見るおぼろげな記憶の中、琥珀色セピアに覆われていながらも、輝かしい過去の光景は、何にも代えがたく尊い。


「悪い夢――――いや、いい夢だった。こうして、最期に君に逢えたんだからな」


 どうか、オレを裁いてくれと。オレを贄にしてくれ、オレを消してくれ。生き恥を晒すのは厭なんだ。耐えられない。生血の通わないまがいものの肉体に収められて、なお君に恨まれて生きていくのは、煉獄の悪鬼に爪先からじわりじわりと磨り潰されていくのと同様の刻苦なのだ。その黒衣に袖を通した君が呪いに蝕まれていく様を見るのも、骨の髄を削られる激痛にも匹敵するだろう。


 ろくな人生ではなかった。


 聖職者としても、研究者としても、咒式設計士プログラマとしても、軍人としても。ありとあらゆる過去が、踏みつけにしている足元から地蟲の如く這い出してくる。


 ろくなものじゃない、どうしようもない、今の今までどうしてのうのうと生きてこられたのだ?


 そう、耳元まで尺取虫が這い上がり告げてくる。人間の屑そのものの所業を繰り返し、好奇心を糧に、楽園アガルタという餌に釣られた連中を利用した。彼らの屍を積み上げ、天に手を伸ばした。顛生具現なる人外の秘法に魅せられ、黎明の神霊(カール)に魂を破格値で売り渡し、倫理の箍はいとも簡単に弾け飛んだ。


 こうしてアルトゥールとしての意識が顕現したのは、その対価なのだろう。輪廻の円環から外され、罪人として現世で永劫、自身の罪業に苦しめというわけか。最後の審判に裁かれる資格を剥奪され、異端の秘術に手を染めた愚かな下手人として、いびつな転生の法理に生き続けよと。


――――夢に逃げるなど許されるものか、罪人のおまえがマルティン(別人)になり済ますなどあってはならない。おまえ自身どれほどの数の人間の命運を弄んだのか覚えていないだろうが、少しばかりその考えは虫が良すぎるんじゃあないかね? アルトゥール(おまえ)も、そう思っているんだろうよ。無理はするな、懺悔の道を選んだという事は、おまえは至極まっとうな、普通の只人に過ぎんのよ。罰を求めるのは人間の証だろう、おまえがそうあろうとした、普通の家庭のお父ちゃんに相応しかろう。さあ、捧げるのはその命以外にあるまいよ。ガキにテメエの焦げ付きを押付けた報いを受けなきゃな――――


「ふざけんな」


 乱暴にアルトゥールの襟が掴みあげられ、半身が持ち上がる。それを支えるハインの細腕の震えは、重さに耐えかねてのものでは断じてない。成人一人分の荷重など、今の彼にとってはさほどの負担にはなり得ない。片腕一つで互いの顔を引き合わせる。


「さっきからぶつぶつくだらない御託を並べたと思えば、最後はもういやだ殺してくれ、おれも被害者だから、だって? お断りだ、見知らぬ誰かの自殺をどうして僕が手伝わなきゃならないんだ!? 僕は、僕はここには、サミィを殺しに来たんだろうが! それ以外は知った事か、他の連中に殺してもらえ、ベルンハルデさんかアガーテさんか! 騎士団なんかまだいるぞ、好きな死に方選べばいい、僕を巻き込みたくないんじゃないのかよ!?」


 近日に至るまで怒りの感情とは長らく無縁であったハインは、未発達の喉仏を苦しげに震わせて吠えた。


「だいたい、なにが夢だ!? 僕にとっては全部、産まれてから今まで全部全部、現実なんだ! 夢であった事なんて何一つない! 勝手な事抜かすな、僕の現実を夢にされてたまるか!」


 カーシャと定規でしばきあって流血沙汰になったのも、サミィにとうとう得意分野で勝てなかったのも、ハルヴァの出した適当ななぞなぞを最後まで解けなかったのも、ゼフィールに恋をしたのも。マルティンと、夢を語り合ったのも。荒唐無稽で理不尽極まりない、夢などという不確かなものじゃ絶対にない。


 フルークに辱められ、ゼフィールを奪われ、ベルンハルデに殴られ、ハルヴァを殺した。その一切は、どれだけ記憶の層に埋もれようとも、確かに過ぎ去った現実の記憶。ハインを取り巻く遍くすべての環境は、これらの経験ありきのもの。


「僕はもう仮面ペルソナを剥いだぞ! 騎士団の連中が泣いて悔しがる事なら何だってしてやる、アガルタなんか端から信じちゃいないけど、一番に昇りきって、そのあと扉に続く階段を蹴り崩してやる! 奴らが悔しがって半べそでお互い殺しあうところを上から笑いながら見下ろしてやる!」


 人の生は刻一刻、過ぎ去った時と将来性が同時に存在し、現存在たる人間ハインを形作っている。

 

 相克ではない、完全なる同期関係。構築済の社会関係を円滑に行うための仮面を剥ぎ取り、本来性、すなわち人の生物としての有限性を根底に据えた思考。幻想の不死性、不滅性を排し、唯一無二のいわば一回性のもとで生を実感する。そこに永劫変わらず不朽のまま存在し続けるものなどは粗末なまやかしであり、滅びあればこそ頽落から復帰する可能性を人間は得ることができる。


 自棄になるのは、頽落と変わりはない。滅びから目を反らした永劫への願い――――無謀な博打、怠惰、淫慾――――それらと自殺は、何ら変わる事の無い生への冒涜なのだ。永劫続く快楽などありはしない、ハインはそれを身を以て経験している。そして、拙いながらも覚悟をした。いつ決意が崩れるかもわからない頼りげのないものだが、確かにハインは仮面ペルソナを取り去った。畏れを見据える覚悟は、ここに完了している。


「全部全部、取るに足らないまやかしだ! あなたが言った事だろうが、責任持てよぶっ飛ばすぞ! そんなものに左右されるほど人間はか弱いのか!? 触れもしない夢に人は殺されるのか!? 僕はそんなんで死にたくなんかない、死ぬくらいならどこぞで舟漕いでる夢の主を叩き起こしてでも生きてやる! 起きたんだったらそれくらいの事言えないのかよ、まだ寝ぼけてるのか!?」


 怒気を表に出すのに慣れていないハインの瞳は、水面に溶けた絵の具のように色彩が揺蕩っていた。長い睫毛に包まれた大きな眼が、まばたきに合わせて煌めきながら潤む。


「あんたはこそこそおびえながら――――どこへなりとも行っちまえ……!」


 顔も見たくない。マルティン・シュヴェーグラーの顔をした知らない誰かには、もう二度と会いたくない。死人にはもう二度と会えない、幼児ですら薄々感づくであろう摂理だ。同時に、死人を殺す事なんてできやしない。


 それもまた、情から来る非合理的なエゴイズムだった。


 アダム・カドモンの媒体としてその魂を利用されたアルトゥールである。どこまでも己の生に執着するのであれば、ここでアルトゥールの有する智慧の実の智慧を受容形態にまで移行させ、ハシラとして殺害するのが定石であろう。


 ハインには、それができない。


 家族――――たとえそれが出来そこないの疑似家族だったとしても――――の仇討を欲望の基点とするハインには、兄であるマルティンを手にかける理由がない。顛現法の目的論的起動法に矛盾が発生する。仮にマルティンがハインの生命を明確に脅かす行為に走り、この迎撃のために術を用いるとするならば矛盾は発生せず、ハシラとしてこれを殺す事も可能だろう。しかし、現時点においてマルティン――――アルトゥールがそれを行う理由など存在しない。ゆえに、ハインにアルトゥールを殺す事はできない。無論『弦』を使わずとも、今のハインならば人一人を縊り殺す事などは造作もなかろう。しかし、ハインをハイン足らしめる矜持がそれを赦さない。アルトゥールはハインにとって、絶望的に無害な父性アニムスなのだから。


「すまん。君の、言う通りかもな。オレはまだ、瞼が重くてしかたないらしい」


 同じように自嘲気味に笑う。嘆息したときの表情は、やはりマルティンのそれと全く同じものだった。ハインはアルトゥールの襟を離してやった。目を手袋の甲でこすりこすり、赤くなった目尻を見せないようそっぽを向く。


「あなた、馴れ馴れしくて気持ち悪い。ハインだなんて呼ばないでよ」


 アルトゥールはスラックスの埃を払いながら言った。


「ああ、そうか……まだ、言ってなかったか……オレは――――」




 轟音。


 二人の耳を、雷鳴の如き破壊音が駆け抜けた。


 材質不明の天井が土くれのように砕け、瓦礫と化して展望フロアの床に崩落する。周囲の壁に亀裂が走り、磨り硝子に似た様相を呈す。


 瓦礫の白煙が瞬く間に膨れ上がり、ハインの周囲を埋め尽くす。反射的に、ハインはサモアールの元へと走っていた。崩落の衝撃で飛来する瓦礫を背で受け止めるべく、か細い四肢を抱きかかえた。


 徐々に明らかになる視界の中でハインが認めたのは、アルトゥールを凌ぐ巨躯。


「ブロッホ、大尉……!」


 その巨大な拳に紅の燐光を纏わせながら、(アハト)―――――エドゥアルド・ブロッホがハインらを見下ろしていた。肩口に積もる埃を払い、ブロッホもまたハインの姿を捉える。しかし、その視線はすぐさまハインではなく、その付近にいたのであろう他者へと向けられた。


 濃紺の床を材質ごと抉る打突の音が響いたかと思うと、ブロッホは跳躍。利き腕であろう右腕を振りかぶり、捻りを加え、目指す白煙目がけて振り下ろす。館の床を撃ちぬく一撃が喰らいかかった獲物とは、アルトゥール・シュヴァイツァーだった。


 咄嗟にアルトゥールは右手を左手の甲に重ね、防御の姿勢をとった。魔術の心得がなくば、ただの一撃をもって粉微塵に霧消するだろう危機の襲来に、アルトゥールは奥歯を噛んで覚悟を決める。


 次にハインが見たのは、アルトゥールの左腕が樹木の皮を剥くように弾け飛ぶところだった。


 鮮血ではなく循環電解溶液が四散し、人工筋肉がささくれ立って引きちぎれ、皮膜が焼け焦げる臭いが周囲に漂う。


 打突、そして衝突。単なる正拳突きとはいえ、顛現の一端を行使しての破壊は並の身体強化魔術とは比較にならない。大気が震え、皹の入っていた周囲の壁面から水晶片が細かに飛び散り床へと落ちる。


 続いてブロッホはアルトゥールの首を鷲掴みに、異界と内を隔てる壁に叩きつけた。華奢な女子供の腰回り程度ならば容易に握砕できるであろうその手に、アルトゥールの内骨格が軋みをあげた。


「生き意地が汚いな、アルトゥール。なぜ貴様が生きている? レギーナとシュヴァイツァーを捨てた貴様が」


「誰かと思や……なんだ、テメエかエド……成長期も過ぎたってのに、また膨れ上がってねえか」


 アルトゥールの頸を押さえつける手に、一層力がこもる。分厚い鉄板が幾度も折り重ねられ、強度としなやかさを両立させたような筋肉。それらの織りなす強靭なる剛腕。元より戦闘を想定されていないアダム・カドモンの身体に、ブロッホの放つ魔術的圧力、そして物理的な破壊を凌ぎきるほどの強度はない。炎熱に似た性質を有するブロッホの魔力に晒され、アルトゥールの皮膜は火花を放ち、気化していく。


「貴様は既に礎としてその身を捧げたはずだ。夢うつつのまま壊れるまでフルークの玩具でおればよいものを」


「言っとけボケが。こちとらテメエらと顔合わせんで死ねるならサッサと死んでるぜ」


「やはり貴様に(ツヴォルフ)を与えたのは、我々全員の過失だったな。今や三賢者ドライ・ヴルツェルの中で唯一健在のレギーナだけが、状況を正確に見据えている。悲願を捨てた貴様と違ってな」


「ひとつ、忠告しといてやるよ……帝国を、この世界(エデン)を栄えさせる気でいるんなら、まずテメエらが囲ってるアンデルセンを殺せ。あれやヴァイルブルクに縋ってる以上は、どうにもなんねえぞ。オレやフルークを欠いたFCAであれの手綱を握れる奴はもういねえ――――あいつは、あれはもう人間でも動物でもねえ」


「貴様がそれを言うか」


「オレだから、言えるのさ」


「子供を懐柔するような下衆が言えた義理ではなかろうに」


「抜かせよ異常性欲者ペドフィリア、テメエにだけはそんな事言われたくねえ」


「死人の声をまともに取り合う者はいない。口を利くなよ、レギーナの実験動物ホムンクルス


 依然としてブロッホの表情は彫像の如く不変。発露する閃熱の淡い光に包まれ、やがてアルトゥールの衣服が発火した。ブラウスが燃え上がり、ちりちり音を立てて中空に溶けていくよう。


「貴様にはまだ聞きたい事がある。ここでは殺さん」


「へえ、何かね……お偉いカールやアンデルセンですらわからん事か」


「――――アダム・カドモンの五体目――――予備個体をどこに隠した。よもや出来損ないの貴様を代用に使うわけにもいくまい」


 五体目。


 すなわち、ハシラの儀に用いられるはずだった人形――――カーシャ、ハルヴァ、サモアール、ゼフィール――――に加えられるべき、もうひとつの存在。エミリアの言では、五体目のアダム・カドモンはマルティン以外にないはず。にも関わらず、それ以外のアダム・カドモンが存在するかのような口ぶりだった。


 ハインがここで気になったのは、古参のブロッホでさえすべてのアダム・カドモンの存在を掌握しきれていなかった事だ。それだけ分校を支配していたフルーク、そしてマルティン――――アルトゥールの情報秘匿が高度だったからだろうか。


 アルトゥールは残る腕に力を籠め、かたく拳を作り出す。殴りかかるわけではない、いかに顛現術の魔力が乗ろうと、義体の側にそれについていくだけの耐久性は期待できない。


オレ(アルトゥール)が死ぬ前に口割らせてみろよ、豚ァ」


 勢いよくアルトゥールは拳を背後の壁に叩きつけた。僅かに発露した攻性魔力を圧縮させた塊を一気に浸透させる。ブロッホが自身の顛現のギアを上げるべく意識を向けるよりも早く、それを炸裂させた。


 円周部の壁面、縦横無尽に刻まれていた亀裂と皹がより大きく深くなり、ガラス質どうしが軋みあう耳障りな音が一同の鼓膜をつんざいた。間を殆ど置かずして、異界の情景を映し出す展望ガラスはフレームごと粉微塵に吹き飛んだ。


 壁面の側に圧をかけられていたアルトゥールがブロッホの懐に潜り込むのは難しくはなかった。襟首を握りしめ、彼はブロッホの巨躯を背に担ぎ上げるように、窓枠の外へと落下していった。

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