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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
錆びた栄華の残滓
73/105

Down, down, down. He kept on falling.

 ゆるやかに左カーブを描く階段を下った先には、鉄道をまたいで設置されるような地下道が真っ直ぐ続いていた。天井は高くなく、錆びついた鉄パイプが血管のようにびっしり取り付けられていた。壁も床も白のコンクリートで固められ、天井や床に近い箇所はところどころ汚水の垂れた跡が滲みになっていた。壁際の両面の床には側溝があり、黒く濁った水が等間隔にある排水溝へ吸い込まれていく。


 下調べの段で敷地内には電気が通っていないはずにも関わらず、地下道内は壁に備え付けられた蛍光灯で照らされていた。ときおり音を立てて光をちらつかせているのを見るに、決して新しく設置されたものではないらしい。どの蛍光灯も薄汚れているのが見てとれる。湿気のせいか、ところどころ黴も生えている。


「兎の巣穴に飛び込んだようだな」


 天井に巡らされた用途不明のパイプ類に頭をこすらぬよう、大柄なブロッホは前かがみになり、軍帽を頭で押さえた。「不思議の国は近いかもしれないな」ブロッホは苦笑した。


 歩き出すと、広さからか靴音が大きく反響する。側溝から聞こえる水音と合わせて、ハインは雨天時を連想した。ここはじめじめしているし、空気も湿気を含んでひんやりしている。 


 軍帽からはみ出る灰色の髪は毛先が巻いており、わずかに白髪が混じっている。背の丈は長身のブフナーを軽く越し、軍服をまとったその隆々なる出で立ちは、まさしく猛者と呼ぶほかない。垂れ気味の両目は拝火系人種の由来か、軍属特有のものものしさに温かみを添えていた。


 全身を筋肉の鎧で武装したブロッホに比べ、自分の身体の貧相な事といったらない。二の腕や腿に至っては三人分束にしてもその太さ大きさには敵うまい。ハインは己の華奢さに落胆する。


 ハインは、無意識にブロッホからわずかに離れて歩いていた。


 回廊のごとく細長い路を前進していくと――――三分ほどは歩いただろうか――――壁に貼られている広告にハインの目が留まった。


『ジーク・ライヒ! 其は統一されし国民の勝鬨だ。奮い立て民族よ』


 長方形の四隅は湿気で黒ずんでいたが、図画の印刷ははっきりしていた。標語らしき言葉は鮮血めいた赤で大きく記されており、横目だろうが嫌でも頭の隅に焼きつくようだった。


 頭頂部に鶴嘴が施されたピッケルハウベ、それを被る男性の横顔がデッサン調で描かれている。男性の背景には、先端が末広がりになった黒抜きの十字が据えられていた。十字には、聖人画にあるような挙身光が五芒を模して装飾されている。

 正方形に十字を落とし込んだデザインに、ハインは覚えがあった。黒衣の胸元に手を添えると、同じ紋章がそこに佩用されていた。


「黒鉄十字星章。FCAが採用していたシンボルだ」


 同行者の足が止まっている事に気づいたブロッホは、驚かさぬよう横から声をかけた。


「教科書で読みました。こういう広告を見るのは、初めてですけど」


「私も、これを見るのは実に七十年ぶりだな。もっとも、多湿の暗所でこんなに状態が良いはずがない――――これ自体は真っ当なしろものではないだろうが」


 十中八九、この館には酔狂な術がかけられている。激動の帝国における生き証人とも言えるブロッホの言だけに真実味があった。今の時勢に、こうした極端に政治色に偏った広告を刷る結社や集団などはないだろう。FCAは分裂し、身を裂かれた帝国においては、このような思想の誇示はもはや虚勢でしかない。ハインにとっては過去の遺物でしかなく、異国感すら覚えるような広告だ。連続性を欠くぼんやりとした感覚が浮かぶだけだ。


 歩を進めると、ポスターは一枚だけでは収まらなくなっていった。一面を埋め尽くすように貼られた広告は、そのどれもが七十年前の時代を体現する過去の姿見であった。


 ステレオタイプの拝火人――――青い肌と漆黒の角、金の瞳を持つ――――が、父親と思しき男性を慕う嬰児を壁から見つめている絵図には、


『帝国民よ! 魔物にいとし子を差し出すのか?』


 切り立った山岳の頂に鷲が舞い降り、その猛禽が力強く掴んでいるのは、宝石類で煌びやかに装飾された王冠。土くれと土砂に埋もれかかった冠を鷲が抱くその絵図には、


『冠を頂くのは皇帝ではない、民族の意志を継ぐ君たちにこそ相応しい』


 いずれも七十年前の東西戦争時代に帝国内で実施された戦意高揚策の一環によるものだろう。執拗なまでに『帝国民族主義』『反東部諸国』『反拝火諸国』が押し出され、一層この場所の異常性を高めていた。壁の白を覆い尽くす目的があったのかと思わせるほどに、あるいは狂信すら感じさせるほど、この通路からは現実味が欠落しているように思えた。


 少し先へ進むと、ポスターの様相もそれに合わせて変わってくる。いわゆる戦後、東西戦争が終わりを告げ、事実上の敗戦という悲報を突き付けられた帝国民に向けたポスターがほとんどになる。


 金髪碧眼、模範的帝国人種の特徴を備えた男性と、同じく対外的エルフ像を体現したかの如きヘルヴェチア人男性。硝煙と土埃にまみれながら、二人は肩を抱き合い白い歯を見せ笑っている。


『新たなる西の絆は、例え雷神であっても断ち切れない』


 ブランデンブルクの街々を見守る戦勝記念塔ジーゲスゾイレ、その背後に広がる薄暮の天空を、飛竜騎兵が編隊を組んで飛行している。煽り文句の端には、自由帝国同盟(FCA)航空旅団とあった。


『竜と共に飛翔せよ、再びベルリンを諸君らの手に』


「我々がもっとも輝いていた時期と言っていいだろうな」


「輝いていた?」


「行く先々でパレードでも始まりそうなくらいの熱狂ぶりだった。あの頃は、みんな勇者に飢えていたからね」


 今のオカルトに傾倒する自分たちを皮肉ってか、ブロッホは嘲笑まじりに言った。


「一八世紀半ば、我々は東西戦争の終結後を機に一気に勢力を拡大した。それはもう、相手の手が見え透いた卓上の茶番のようだった。それほどまでに、ヴァイルブルク陛下の手腕は疲弊した帝国には効果的だったのだろう。皆が皆、揃って同じ夢に陶酔しているようだった」


 東部領は劣等人種の浸透したオリエンスにかすめ取られ、残された同胞は今なお搾取に喘ぎ苦痛の中にある。ヘルヴェチアとの明確な繋がりのある西部領もまた、背後より忍び寄るブリタニアや共和国ガリアの唾棄すべき拝金主義に毒されつつある。大陸におけるこれら不徳は、崇高なる勇者を祖に持つ帝国民族には無縁のものである。ゆえに一切は合理的、そしてあらゆる事象を打算でのみ判断する――――非合理極まりない――――排他精神を根底に有した魔物の謀略に他ならない。今こそが決起のときであり、諸君ら帝国民族の情熱をもって闘争を始めなければならない。頽落の腐敗を憎み、そしてそれを克服し、支配したいと思うのならば、勇気と忠義を見せてほしい。果敢にも人魔の戦いに終止符を打った勇者の血を引く諸君らこそが、大陸の未来を拓く礎なのだ――――


 そんな啓蒙が連日連夜、FCAの旗印のもとに声高に叫ばれたという。


 党の宣伝相を担当していたリヒャルト・ヴァイルブルクにすれば、初期の主張は平易かつ単純。各都市で思想を緩やかに広げていければよい、本格的な浸透と思想均一化は長期スパンで行っていくべきだという事らしかったのだが、彼の予想は戦後六年後で大きく軌道を逸れる事となる。


 元帝国国教騎士団レーゲンスブルク修道会少佐相当官、ヘレネ・ヴィッテルスバッハ女公の帰還。


 この唯一無二のカリスマの登場によって、分割された東西領問わず、FCAの思想に賛同する人間は急速に、かつ爆発的に増加するようになった。オリエンスの捕虜となり消息を絶ち、しかし雌伏の六年を経て再び帝都シュティレンヒューゲルへ舞い戻った彼女は、まさしく名実ともに勇者の血を引く英雄であった。そのヒロイックな経歴に、彼女が帝国の希望を背負うに相応しい勇者――――聖人に等しい存在である事に異を唱える者はごく僅少、誰もがこの女神の躍進に期待を寄せた。捲土重来を体現する、博愛の女神(ヘレネー)の降臨に人々は心躍らせ浮足立った。


「私自身、ヘレネ公に直接謁見する機会は三度と無かったのだが、あの方の事はよく覚えている。同じ地上に生を受けた命とは思えなかったよ。『他称美人』の街娘や貴族を何百人かき集めても、きっとあの美貌は霞むどころかますます光輝を増すだろう。それでいて無邪気な少女のようによくお笑いになる、向日葵のような雰囲気すら持ち合わせていた」


 ブロッホの立ち止まった壁には、その麗人の姿がありありと描かれていた。


 若干色褪せは見られるものの、他の広告の例に漏れず鮮やかな発色。ヘレネ・ゲルトルート・フォン・ヴィッテルスバッハの憂いの像は、七十年の時を経てなお美しかった。絵図にまたがる文句は、これに限っては皆無だった。冬物のトレンチコートを羽織り、石造りの階段を下りるワンシーンを描いたものだった。一八〇センチを越えるという長身の体型は、鳥肌が立つほどの黄金比。翻った黒の外套と共にはらりと舞い上がる絢爛なゴールデンブロンド。帝国南部貴族の乗馬服を思わせるタイトな服装は、文武を併せ持つ女騎士にこれ以上ないほど調和していた。


 ハインにとって、異性を前にして息を呑むような体験は、これで二度目だったように思えた。


「二人のお子様をお連れになって、ヘルヴェチアでヴァカンスを楽しまれる様は、まるで一枚の絵画を眺めているようだった。魔的と言ってもいい。ほんとうに、陳腐だが、美しかったよ」


「お綺麗な人だったんですね」


「そこらの女優やファッションモデル、ポルノスターなど相手にならなかったよ。彼女と距離の近いヴァイルブルク陛下には、男女問わず頻繁に嫉妬の声が挙がったものだが――――私を含む大多数はそれで構わない、むしろそれが自然だとすら思っていたさ。彼本人に心酔するメンバーも少なくはなかったし、何よりあの女性に吊りあうのは陛下くらいだと認めていたからな。ハルトマンなどは、ずいぶんとヘレネ公にご執心だったよ。辺境でのパルチザン狩りから、念願かなってヘレネ公着きの第一装甲猟兵団に選抜された時には白目を剥いて卒倒したくらいだ」


「なんだか、想像できません」


「帝国の補助警察の一員として連合兵殺しに従事したと思えば、六年後には飛竜を駆ってブリタニアに銃を向けていた。まだ年若いハーフエルフの娘が、よくもあそこまで景気よく首を狩れると感心したよ」


「鬱憤を晴らすようにな」ブロッホは付け加えた。


「彼女とて木の股から産まれたわけではない、無論私もな。幼少期があり、思春期がある。両親がいて、そして自分がいる。誰も皆、人を人足らしめる最小の社会単位から産まれ出ずるものだ。さまざまな縁を受け継いで、まっさらな状態で人間は産まれてくる。君だって、もちろんそうだろう」


「両親の事はほとんど知らないんです。六つか七つの頃にはもう兄さ……兄と分校にいました」


「――――そう、か。すまない」


 気を悪くしないでくれ、とは続けず、ブロッホは気まずそうに鼻先を掻いた。この少年に課せるつもりの残虐極まりない行いを思い返したのだろうか。彼は軍帽のつばを深く被り直した。




 それきり今までより増して口数の少なくなったブロッホは、ハインより数歩先を足早に歩くようになった。


 暫くハインは左右の壁に、さながら模様のように貼られる広告に興味を寄せていたが、次第に引いては返す波を眺めつづけているような気分になり、目が回ってきたのでやめた。


 視線の先には突き当りの壁が見えているが、それも遥か遠くかなた。直線を結ぶならば学園のグラウンドよりも距離があるだろう。


 至急された腕時計に目をやると、未だ進入して十五分も経っていない事を長針が指し示していた。


 会話が途切れてから体感で五分も経たないうちに、ハインは壁から真鍮のドアノブが突き出しているのを見つけた。位置的にハインのような猿人向けのドアのものらしく、大柄なブロッホは見落としてしまったのだろうか。彼はハインの先を寡黙に歩き続けており、既に数メートル先にその大きな黒い背中が見えた。


 ドア板はべたべた貼られたポスターに隠れてしまっているのだろうか。ハインは手袋越しにノブを掴んだ。施錠はされておらず、そのまま捻ると抵抗なくノブは回転した。少し力を入れてノブを引くと、さほど劣化しているようには見えなかったポスターは驚くほど脆く、朽ちた藁半紙のように音もなくばらばらと散っていった。


 姿を露呈した錆びた鉄製のドア板の奥は、個室だった。狭い直方体に一歩、二歩、誘われるようにハインは足を踏み入れる。地上階と同じように個室は絨毯敷きだったが、こちらは襤褸切れのようにはなっていなかった。靴底にふかふかした感触が伝わる。


 奥の壁面には長方形の大きな鏡がはめ込まれており、ハインの折れそうなほどに薄い体躯が写っている。ベルンハルデに言われた通り、確かに礼服を着ているのでなく、着られているといった感が否めなかった。この二週間でまた少し痩せたかもしれない、ハインは無意識のうちに細指で自分の頬を撫ぜてみた。黒に近いブラウンの横髪がロップイヤーの耳のように揺れ、散髪もさぼっていた事も思い出した。 


 男らしからぬ大きな眼はふさふさの睫毛で縁取られていて、潤んだ瞳はトルマリンの灰緑色。我ながら、童顔を通り越して男らしさの欠片も感じられないこの顔立ちは、相変わらず女々しくて好きになれない。ハインは嘆息気味に目を伏せた。


 その瞬間、がごんと個室全体が振動した。続いて数度、鉄が軋むような音が響いたかと思うと、開け放たれた鉄製ドアの内側をスライド式の扉が遮り、通路と個室を分断した。


 振り返って、初めてハインはその個室の持つ機能を理解した。内装こそ通路とさして変わらないよう偽装されているが、エレベータのケージと考えて間違いない。弾かれたように、ハインは扉横に備え付けられたコンソールへ駆け寄った。パネルを何度押しても反応はない。


「くそ……何だよっ、これ!?」


 一般的にエレベータのコンソールには、パネルの他に階層別に数字のパネルが並んでいるのが通常である。階層を示す数字が刻まれたスクエアパネルが二列に並び、その下部には開放パネル。規格は帝国製のものらしく、閉鎖のパネルはない。開放パネルを連打するも虚しく、ハインを載せたケージはついに降下を始めた。特有の浮遊感が身体に伝わる。


 階層パネルが示すのは地上七階から地下一階まで。ヴィレハイム館という建造物においては、何もかも当てはまらない。出鱈目もいいところだ。浮遊感は数分続いてもなお終わらず、いよいよハインはどこに連れて行かれるのか不安を感じ始めた。ぎり、と脂汗の滲む拳を握り、いつでも『弦』の行使が可能なよう、心の準備だけは怠らないようにする。同時に、ブロッホとの行動を分断されるという己の迂闊さをようやく把握した。


 衝動的に拳をパネルに押しつけ、ハインは失意のうちに俯いた。


 言われなければわからないんじゃだめだ、というのは、耳にタコができるほど聞かされ続けてきた。けれど結局このざまだ。肝心な所で抜けている。警察官や兵隊には致命的に向いていない。果たして、誰から言われてきたんだっけ。兄さん? サミィ? ゼフィール? 


 後悔と不安でぐちゃぐちゃになった思考の中で、唐突にそんな記憶が走馬灯のように駆け巡る。口を酸っぱくしてお説教をされたときの記憶だった。誰から? 家族からだ。ハインをハイン足らしめる、社会の最小単位から与えられたお説教だ。


 兄さん(マルティン)以外とは血のつながりはないけれど、家族には違いない。カーシャもハルヴァもサミィもゼフィールも。みんなから縁を受け継いでも、結局こんなヘマをやらかしてしまう。ああ、何をやってるんだ僕は。こんなんじゃ独り暮らしなんて無理だ、いつか施錠し忘れて空き巣に入られるぞ。ぼんやりしてちゃあだめだ。起きたらすぐに顔を洗って、歯を磨いて――――

 

 ああ、そうだ。ゼフィールだ。彼女に間違いない。いちいち口うるさいと思った事もあるし、お互い泣くまで喧嘩だってした。物心ついた頃からゼフィールはお姉さんぶって、ある時は理不尽に想えるくらいぽんと突き放したり、ある時は過保護なくらいべったりくっついてきたり……


 お互いに洒落た言葉を使いたがる年頃で、趣向を凝らしためちゃくちゃな文法の手紙を回し読みされた。あとで兄さんに取り上げられて笑い者にされた。ゼフィールは小鳥みたいに笑っていた。


 ベッドでうつらうつらしている時も、問答無用でゼフィールは暇つぶしの相手を探しにやってくる。私が遊んでやるんだからと言わんばかりに――――


 下へ、下へ、下へ。


 ハインはどんどん下へと降りていく。


 どれだけの距離を落ち込んできたのか、もはや見当もつかない。


 四千マイルの深さを越えて、ハインの意識は沈みゆく。





 

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