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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
錆びた栄華の残滓
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成れの果て

 ぎしり、ぎしり、ぎしり、ぎしり。


 糾われた荒縄が響かせる軋みが、階段を上るアガーテとベルンハルデの鼓膜を蹂躙する。一定のテンポで途切れることなく、脈動のように聞こえてくる。


 三つ目の踊り場を境に、周囲は徐々に赤茶けた錆と煤にまみれてゆく。役場として主に用いられていた一階部分の面影はどこにもない。階下で感じた嫌悪感は、大気に広く溶け込んで五感を苛んでくる。


 視界の頼りになるのは、一階からかすかに差し込む光のみ。踊り場の壁面にも窓はなく、暗闇は濃さを増していくばかり。霧中をただ無為に彷徨っているかのようだった。


 熱された飴の如くじっとりと粘性を持ち、呼吸のリズムすら徐々に狂い始める。肺と脳が酸素を欲したところで、いくら深く息を吸っても満たされない。臓腑が焼けつくような――――やがて爛れた体組織はかたちを崩して腐敗し、どんよりと腹腔で沈殿する――――錯覚すら覚えるようになった。


 吐気がする。頭が痛い。筋に力が入らない。


「もう四階どころか、尖塔の頂上に着いてもおかしくないのだと思うのだけれど」


 すぐそばにあるはずの二階が果てしなく遠い。階段を上り始めて、既に十分は過ぎているのではないか。


 どこからかの縄の軋み、蹄鉄と靴の音、自分自身の荒い呼吸音。夕闇にほど近い光度の中、アガーテは自身の思考とともに視界まで不確かに揺らぎ始めているのに気づく。言うなれば催眠術によるトランス、もしくは麻薬による陶酔。やがてくらくらと脳が揺れ、ちかちか火花が散る幻視さえ表れはじめる。


「これが……結界の本命……?」


「さすが、フルークのご眷属ですこと……やる事がしみったれてらっしゃる」


 ブロッホの証言に倣うなら、まさしくこれがそうだと言えるかもしれない。強制的に敷地から叩き出されない代わりに、未練がましくハインリッヒという縁の中継にしがみ付いているのなら、然るべき報いを受けてもらう、という事か。


 ようやく二階に辿り着いた頃には、不可解な変貌を遂げた周囲の状況と同じく、アガーテの心境は陰鬱に沈み込んでいた。一階からの照明はほとんど届かないので、アガーテはヘルヴェチアの軍用フラッシュライトを取り出した。古くはFCAの開催した大規模な党員大会での参謀演説においても使用された演出用サーチライトを祖に持つWMW《ヴァイルブルク・ジュネーブ機械製作所》製の最新型のそれは、アガーテの掌に収まる細身から、暗がりを裂くように光の筋を発した。


 照らし出された二階の内装は総じて機械油を一面にぶちまけたかのような様相で、そこここに血痕のような赤黒い滲みがこびりついていた。裂けた壁紙やほつれた絨毯から噴き出た体液のようだ、生物の臓器に鉄の刃を突きこんでかき回したみたいに傷だらけだった。


 一歩を踏み出すたびに、熟れすぎた果実の果肉を踏み潰しているような感覚になった。たっぷり水を含ませた布地を落としたときの不快な水音が鼓膜を蹂躙し、充満する臭気が吐き気を誘う。アガーテは鰯や鯖の頭と尾を詰め込んだ屑箱を連想した。


 階の構造は一階のそれとほとんど変わりはないにせよ、個々の部屋を確認するペースは自然と足早になる。ひっきりなしに生理的嫌悪感を掻きたてるこんな異界に、これ以上一秒だっていたくない。ドア板や壁を軽く手で触れるだけで、純白の手袋の生地に錆び混じりのペーストじみた汚物がこびりつく。蹄、靴裏越しには人膚を踏み躙っているかのような錯覚が常につきまとうのだから。


 窓はすべて木板で打ちつけられ、その閉塞感は戦時につくられた地下壕もかくやとばかりに思われた。


経路は予定通り東階段から中央ホールを経由し、西側から三階へと向かう。ただそれだけの移動なのに、体感する時間は牛歩のごとしであった。


「気持ち、悪い……!」


 うず高く積もったいら立ちを周囲に見せつけるように、ベルンハルデは呟いた。


 当然心情的にはアガーテも同様である。この状況下、霊枝技術サーチで魔力を触指として発露させ続けなければならないというのも相まって、疲労の蓄積は先ほどまでの比ではない。尖らせた神経の先端を無遠慮にヤスリがけされているような気分だ。


 H型構造中央のエントランスホールは上部三階までが吹き抜けになっており、二階と三階は歪曲した壁面に沿ったかたちで欄干の備え付けられた通路が通っていた。


 ホールの通路に出た二人に、しかし解放感などは産まれなかった。食道から舌先に酸っぱい液汁がこみ上げ、更に強まる異臭にアガーテはほぼ反射的に鼻と口元を押さえてえずいた。


 ドーム状の天井に張り巡らされた穹窿構造。そのせり出した部分には、コンクリート質と大理石でできた館に似つかわしくない、古びた荒縄が結び付けられていた。目を凝らすと、乱暴に打ち込まれた金属製のフックに結んであるのがわかった。


 もう片方の先端部は輪を描いており、荒縄は経年劣化していてなお吊り下げられた荷物の荷重に耐えていた。荒縄が縛り上げているのは、水色の手術衣だけを身に付けた人間、その頚部だった。ホールに垂れ下がるその数は実に十以上、さながら精肉店の冷蔵室でカアテンのごとく吊るされた肉塊のようだった。いくつかはゆらゆらと振り子のようにわずかに揺れていたが、じきにぴくりとも動かなくなった。三階に至るまでに聞こえていた異音には縄が軋むような音も含まれていたはずだが、ここに吊られているミノムシはいずれも事切れて数分などという事はあり得なかった。頭部をすっぽり覆う麻袋も、ありあわせのきれで継ぎ接ぎした手術衣も、襤褸同前に風化しかかっていたのだ。


「こんなもの……入った時には無かったのに」


「粋な歓迎だと思っているなら、いよいよ本当に頭がイカレてしまったのだわ。元からアダム・カドモンを侍らせて慰み者にするような寂しい連中だったのだから、きっと妙な性癖こじらせたのよ。それを誰かに見せつけて、怖がってほしくて……いえ、反応を示してもらいたくて仕方がないってやつかしら。幼児なみの構ってちゃんだわね」


 青白い顔でベルンハルデは悪態をつくと、欄干に手をついて絞首死体をまざまざ観察した。どの死体も、手を伸ばせばすぐに触れられそうだった。


 手術衣からのぞく足首から先は鼠色で、さまざまな斑点や汚物、垂れた液汁の乾いた痕でまだら模様になっていた。足の爪はすべて剥ぎ取られ、指を切断されている者もいた。いずれも現代の道徳に反する、非人道的な虐待を受けた上で殺害された事は明らかであった。そしてなおさら、なぜそんな死体が突如として館に現れたのかが不可解な謎として、アガーテの胸中に翳りを産んだ。


 とりわけ残虐な殺され方をされている者には、下半身が無かった。手術衣の裾から伸びるのは両の脚首ではなく、干からびて縮んだ腸だった。おそるおそる死体のそばに近寄ると、アガーテは欄干に文字が刻まれているのに気付いた。刃物で傷つけた荒い筆致でなく、印刷版から刷りつけたように緻密で精巧な字体だった。



【××××年 ×月 ×日 ブランデンブルク州立 聖ゲオルグ顛狂院トールハウス 担当監察官:ヴェルナー・リヒトホーヒェン】

 

 患者名 ×××××××××××


  転院より八年。経過は思わしくなく、欠陥の傾向は日増しに大きくなっていく。とりわけ性的倒錯に傾いた分裂症の病状は健全な『帝国的な』社会生活を著しく、きわめて広範囲に阻害するものと思われ、現設備状態における根本的な治療活動は不可能と判断】



 そこからスペースを空けて、



【Ⅹ 報いなき獣欲の罪。ゆえに断罪】



腰から下がないのは、恐らくは自分と同じ馬人――――ケンタウリであるとアガーテは思った。診断書じみた文字列、そして無慈悲な判決の一文から察するに、あの死体は謂れなき形態差別の中で処刑された哀れな馬人。我が身ならずとも、こんなものを見せつけられて内心平然とはしていられなかった。


 胴を裂かれたのは、中世期の異端審問と同時並行で考案された半人ケンタウリ用の処刑方法あっての事だろう。ヒトの上半身と獣の下半身を分かち、そこで初めて断罪は果たされ、罪人は猿人の神から赦しを得る事ができる。そういった思想に基づいて行われた【Maulwurf】の執行方法は至極簡単。接地する受刑者の四本の脚を脱臼させる、もしくは槌で砕くなどしてから、腰部を専用のギロチンで切断するというものだった。


 猿人に正義の刃と称された処刑台の裁きを受けた受刑者は、身を裂かれた苦痛にもだえながらはみ出た臓物と体液をあふれさせ、切断面にほど近い皮膚を爪で掻き毟る。ひとしきり民衆の嘲笑と歓喜を誘うと、次に処刑人は残る二本のあしを槌で粉砕する。ケンタウリ(ろっぽんあし)なる人外の存在はこれにてすべての脚を喪い、惨めにも地べたをこすり這いずる達磨と化す。【Maulwurf】の名は、この有様がモグラを連想させるところから付いたといわれている。


 猿人にあらぬ半人はさながら魔物の如し。太陽のもたらす光に焼かれ、あわてて地中のねぐらへ戻ろうとしたところで、神罰の代行を担う猿人の行いによって、その身はつまびらかにされるのである。


 続いてアガーテの目を引いたのは、判決文の頭に意味深に記された【Ⅹ】だった。これには深く考えに及ぶまでもなく、死体と一文が示す結論を窺い知る事ができよう。馬人であり、騎士団序列Ⅹ《ツェーン》を賜るアガーテ本人を暗示している。そう考えるのが自然だった。


 誹謗にも近い、趣味の悪い嫌がらせにアガーテが眉をひそめると、その背後のベルンハルデが壁際に向かって嘔吐し始めた。つんとした刺激臭を伴ってシリアル混じりの吐瀉物がびたびたと音を立てて降り積もった。アガーテは咄嗟にベルンハルデへ駆けより、身を屈めて背中をさすった。


「大丈夫ですか」


 気持ちは分かるが――――と言おうとした途端、胆汁混じりの液を口の端から垂らしたままでベルンハルデはアガーテを振り払った。


「いいから……触らないで」


「体調が優れないのなら、一時撤退しましょう。ブロッホ大尉が戻り次第、身体を」


「余計なお世話だって、言われないとわからないの!」


 目を剥いて憤りを露わにするベルンハルデに、アガーテはたじろいだ。


「――――先に四階に行くわ。別れた方が効率がいい、貴女はこのまま三階を調べて」


 手袋の甲の部分で口元を拭うと、ベルンハルデは西側へと歩み始めた。足取りは重く、酩酊しているかのようにふらついていたものの、徐々に足早になっていく。アガーテに背を向けて、ずかずかと西側建屋へ続く両開きのドアへと近づいていく。汚れた右の手袋を取り去って投げ捨てると、彼女はジャケットの内ポケットからタブレットケースを取り出し、収納されている錠剤をざらざら飲み下した。


「待って、待ってください。危険です、離れないで――――」


「ふざけやがって、この私に……私にこんなものを見せたところで、何の足しになるって言うの。単なる陰湿な感覚誤認イリュージョンにしたって……ある事ない事並べたてやがって」


「ベルンハルデさん」


「ついてこないで」


「しかしっ……!」


「貴女、私の事嫌いでしょう? ならいいじゃない。ほっといて頂戴、利害の一致。何か文句おあり?」


「は……?」


「私も、貴方の事は大嫌い。ムカツク。今戻したのも、きっと貴女がいたからよ。お互い生理的に絶対交わらないのよ、私達。それにね、滲み出てるのよ。貴女から。言葉や目つきの端々から。『ベル・ヘンシェルみたいなビッチなんか大嫌い』だとでも思ってるんでしょう? ディートリヒ・ガーデルマンの腰巾着だとでも思ってるでしょう?」


「そんな、ことは」


「人徳求めると他の女がみんなアバズレに見えるのかしらね? 清廉潔白なアガーテ・オレンブルク女史としても、私のような雄の端女はしためと言葉を交わすのは本心じゃあないでしょう」


「貴女……いきなり何を言っているんですか」


 ベルンハルデを避けているのは確かである。こうした手合いの女は好かないし、正直言って嫌いだ。できる事ならば、これから死ぬまで会う事のないよう生きたかった。だが、それも当然ベルンハルデの方にも薄々は伝わっているだろうと内心感じていた。それがすべて筒抜けになっているとは、今まで思っていなかったのだが。


「強がりはよしてください、こんなところにいれば誰だっておかしくなります」


「強がり?」


 語尾を若干上げて、ベルンハルデはようやくアガーテの方を振り向いた。


「私が、何に強がるというの」


「それは……」


「貴女に? 冗談、貴女に見栄張ったって何も得する事なんてないわ。仮に強がるのだとしたら、貴女ではなく大尉やお兄様相手になら、あるいはそうするかもしれないけど」


「今はそんな我儘を仰っている場合ではありません」


 たまらずアガーテも語気を強めて諌めるも、その直後に、


抜刀(Sturm)


 ひゅん、と大気を切る音がしたかと思うと、細く鋭い痛みがアガーテの右頬に走った。それとほぼ同時に、すぐ背後で鈍い音が響いた。静かに首を動かすと、半身だけとなった痛ましい死体にもう一つ責苦が追加されていた。細身の銃剣バヨネットが手術衣を裂き、深々と突き刺さっていた。


「今は、誰とも一緒にいたくないの。大尉でも、お兄様でも嫌。貴女なんかはもってのほかなだけ」


 青い稲妻のように弾ける体外化魔力の燐光が、ベルンハルデの白い右手を覆っていた。その細く長い手指には、残り二本の細身の銃剣バヨネットが握られていた。指と指の間からのぞく鋼の煌めきは、ベルンハルデ本人の拒絶の意を強く反映しているようだった。ホールに存在する何よりも、冷徹に二振りの刃はアガーテを牽制していた。


 顛現術の一端を解放する抜刀(Sturm)を用いてまでの拒否。エミリアやブロッホほど戦闘に長けた手練れならばともかく、一般化しておらず、未だ一部の人間のみが行使できる顛現術で殴り合うという前代未聞の応酬に自ら足を踏み入れるほど、アガーテは自信家ではなかった。歯を食いしばりながら、アガーテは三歩ほど後ずさった。


「貴女、そんなに誰かと一緒にいたいのだったら、お誂え向きのやつがいるじゃない」


 あらゆる問いかけを跳ね除けるように吐き捨てると、やがてベルンハルデは扉の奥へと消えて行った。


「お誂え向きのやつ……?」


 ベルンハルデの言には、まだわからない事が多い。特に、最後のこの台詞については見当もつかないわけなのだが――――




「や、や、や。危ないなあ、Ⅲは。私の方に当たったらと思うと肝を潰したよ」


 突然の背後からの声にびくりと肩を震わせ、咄嗟にアガーテは振り向いた。


 死体が喋った!? そんな事があるはずあるまい、死人に口なしは古今東西共通であろう。


「ここだここだ、ここだよⅩ」


 未だに目を白黒させながらミノムシの大群を見つめるアガーテに、声の主は暢気にふにゃふにゃ語りかける。聞き覚えのある憎たらしい小娘のような声だ。


 カール・クレヴィングは縄を足首に縛り付け、他の死体に紛れるようにゆらゆら弧を描いて揺れていた。上下逆さまになった事でホリゾントの学園指定のプリーツスカートはまくれ上がり、パンティストッキング越しにショーツを晒してしまっている。上衣もまた同じで、白い腹にぽつんと空いた臍が見えた。


「やあやあ、ごきげんよう。君の連れと仲良くなろうとしたんだが、これがなかなかどうして気難しいものだ。あんなにぷりぷり怒る事はないだろうに……」


 反省の色をまるで見せないカールに、しかしアガーテは警戒の念を緩めぬまま毅然と彼を睨みつけた。

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