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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
錆びた栄華の残滓
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懸念

 風除室の先に広がるエントランスは、外観からの印象を裏切らない程度の慎ましさを持っていた。H型建築の中央に位置し、玄関ホールは吹き抜けの伽藍のようになっていた。見上げた先の天井や壁のそこここに煤や経年劣化によるささくれが点在し、一部に大理石が用いられた床にはところどころ亀裂が入っている。歩くたびに埃を巻き上げる襤褸絨毯もまた、ここが人の営みから排された廃墟であることをありありと物語っていた。


「なるほど。これが館の本当の姿か」


 感心したようにブロッホが呟いた。


「用意した見取り図と何ら相違はない。結界がハインリッヒ君と、我々を受け入れてくれたようだな」


「以前はどんな妨害を受けたのですか」


「そうだな。玄関扉に足を踏み入れたと思ったら、その向かい側正面には来たはずの道がそっくりそのまま敷かれていた、だとか。驚いたのは、開ける扉すべてトマソンだった事か。無意味なドア、無意味な螺旋階段。ただ、引き返せば元の場所に帰してくれるのだから良心的だな」


 ぞっとしない、といった表情でベルンハルデは肩をすくめた。


「ただし、奥にいるであろう人物が必ずしも好意的だとは限りません」


 ブロッホの案である、ハインリッヒの縁に便乗して結界をパスするという策こそ成功したものの、問題はここを支配下に置く存在に関してである。エントランスに入ってから、アガーテは底知れぬひりつきのような感情を抱いていた。彼女本人の優れた有視界霊視の才が影響しているのかは定かではないものの、いわば館に充満する大気によって抱かされる奇妙な錯覚がアガーテに吐気にも似た不快感を与えていた。


 それは恐らく、ここに籠城している人物の持っている感情。希望とは遠くかけ離れた、諦念や忘却にほど近い概念を孕んでいた。


 願わくば、このぬるま湯に浸かっていたかったのに――――胡乱なまま、思考に桃色の靄がかかった有様である。その手に抱くものは体温を持たず、意志はおろか命すら持ち合わせているかどうかすら怪しい。だが、彼の手元に残ったものはそんな不定形なしろものだけ。過ぎていく時間は、彼に与えられた命の灯を無情にもすり減らしていく。無論彼はそれを織り込み済みであるのだが、だからこそ彼は諦念と、そして懺悔に心を揺蕩わせていた。


――――いい、夢だったなあ。


――――○○○○も、○○○○も、またあの時みたいに集まって……


――――もしかしたら……○○○○なんて、本当は求めてなかったのかもしれないな……この子たちが幸せに、健やかに育ってくれるのであればそれでいい……


――――の幸せっていうのは、いつのまにかすれ違うようになって……


 不意にノイズ混じりに奔った支離滅裂な声は、金属音のような耳鳴りを伴ってアガーテ達の思考をつんざいた。ホリゾント入りからこちら、こうした薄気味の悪い幻聴は一度や二度ではない。聖剣を肉体に宿した顛現術士、つまり十三騎士団の面子のほぼ全員に共通して起こっている異常であった。ブフナーに言わせれば、ホリゾントキュステ――――ガリアという地に根付く土着神や祖霊に対する信仰が納魂祭に際して活性・表面化した事による一時的な霊的混線だという事らしい。何を主張したいかはわからないし、単なる呻きであったりする事がほとんどだが、今回ははっきりとその内容が理解できる。それだけに、底冷えするような不気味さをありあり呈していた。


 それは、まるで埋葬された屍からの声。鼓動をやめ、墓標の下で土と合一せんとする体が放った最期の囁き。己もまた死を以て地へと還り、しかし死してなお夢において愛を叫ぶ――――彼は、非生物に向けた寵愛を抱く奇特な夢遊病者。


例えるなら、砂上の楼閣に立ってあらん限りの愛を叫んでいる哀れな狂人を見てしまったかのような。


足元を支える床が細かな砂の奥に呑まれゆく中、なおも一心に愛を叫び続ける。寵愛の対象は人間ではなく、人を模した単なる木偶。木目すら化粧で隠されず、まっとうな精神を有しているのなら路傍の石と何ら変わらぬ人形。そんなガラクタに向けて、どうして彼はそこまで執着できるのか。間もなく声なき死者と成り果てるのに、彼は何に心と身体を突き動かされているのだろう。夢の中で、幽世かくりよの果てでもがいているだけなのに。自分を取り巻く現実に、誰より熟知していなければならないのに。


これは、まったく気が触れている。統制と秩序に基づく常識の埒外において、四つ辻で死蝿を伴いくねくねと踊り狂うかばねの舞踏――――


生ある者なら誰しもが疎ましく思う本能的な拒絶を喚起させられ、アガーテは嘆息した。


 ベルンハルデもまた少なからずそれを感じているらしい、眉間に皺を寄せているところにアガーテの視線を感じ、何でもないと言わんばかりに咳払いをした。


「あまり長居していたくはない場所だな」


 ブロッホが傍らの少年に視線を落とすと、彼はありったけの胆気をかき集めて言った。


「僕なら、大丈夫ですから。行きましょう、みなさん」




 館には地上施設に加え、地下階が存在していた。エントランスの東側最奥にひっそりと下り階段が備えつけられており、濃密な暗闇を携えてぽっかり口を開けていた。


 当初から二人一組で行動する事は取り決めてあったが、地上階よりも面積は大きくないだろうとの事でブロッホとハインリッヒのペアが地下階の調査に当たる事になり、アガーテらは二人の背を不安げに見送った。


 そもそもペアの人選は全員の総意によって決定されたものであり、もっとも術の行使に長けた騎士団の古参であるブロッホがハインリッヒの護衛を務めるのに誰もが賛同の意を示していた。地下という先入観からハインリッヒの安否に憂慮したアガーテだったが、この場においてもっとも場数を踏んでいるのはブロッホである。いかに馬人ケンタウリであるアガーテは夜目が利くとはいえ、ブロッホと比較してそれが彼に対するアドバンテージにはなり得ない。また、地下ゆえの閉所で馬体を持て余す可能性すらあった。


 不服ではあるが、アガーテがベルンハルデと共に探索へ向かう事になるのは、半ば必然と言えた。


 西側から東側へ一階部分をくまなく散策したものの、さして異常らしい異常は見当たらない。奥に広い長方形の応接室、会議室には役場として使われていた頃の面影が残っており、当時の書類や新聞が束になって放置されている部屋もあった。積もった埃を払って確認した日付を見るに、作成日時はほんの二十年前。確かに物珍しくはあるが、目的とは何の関係もないのは明白である。


両端の出入り口は北側に広がる中庭に通じていたが、ドーム状の温室と朽ちた木のベンチが打ち棄てられているだけであった。温室はガラス張りだったらしく、内部にはその破片が散乱していた。半ば骨組みだけで野ざらしになった温室には名もなき雑草が乱雑に生い茂り、並べられた植木鉢の中は枯れて朽ち果てているものばかり。


中庭も同じく時の流れに蹂躙され、ささやかな煉瓦の花壇は砂漠のようなありさまだった。


在りし日には華麗に水蓮が花を咲かせていたのであろう人工池は干上がり、風化した繊維質のようなものが点描じみた模様を描いていた。


「何のことはない、単なる廃墟ね。ほこりっぽいだけだわ」


 確かに、そうだ。ベルンハルデの言に、アガーテは全面的に同意した。不気味ではあるが、例えここに野生化した飛竜が住み着いていたとしても、アガーテらにとっては些末な事。むしろこの場に内包される脅威が暴力という形態をとり、目に見えるものとなる事で安心感すら得られるだろう。


 この敷地から放たれるきな臭さ。死臭とも取れる、不快極まりない風情。脅威が明確なかたちを持っていないからこそ、警戒の度合いは際限なく高まっていく。今のところ術を行使するほどまでではないが、根拠のない不安の切先を眼前に突き立てられているようで、アガーテは落ち着かなかった。


『その幕切れに、多大な期待は禁物ですよ。アガーテ』


 その不安は、先のブフナーの物言いに対する疑問へと姿を変える。アガーテなりに気を紛らわせようと脳裏をよぎらせた問題が、あろう事か彼女の焦燥に拍車をかける。


『彼がなぜアンデルセンの広域霊視にかからなかったのか』


『彼が本当に、救いを求める子羊かどうか』


 いずれも、あのハインリッヒに関してのブフナーの疑問である。曰く取るに足らない、好奇心によるもの。だが、そうであるならあんな局面で敢えてアガーテに告げはしまい。


 前者について、アガーテは薄暗い廊下を歩きながら考える。


 アガーテの引っかかる点はひとつ、この疑問は『なぜアンデルセン女史はハインリッヒを見逃したのか』という問いかけにならなかったのだろうか。まず、この問いにおける主語は紛れもなくハインリッヒである。あの雪の日、顛現法についてはまったくの知らされず、生身の肉体の彼のどこにアンデルセン女史の霊視をすり抜ける道理があろうか。


 序列(ノイン)の座にあるレギーナ・アンデルセンについては、アガーテはその名と優れた咒式設計の才能、そして卓越した霊視能力についてのみ知り得るに留まっていた。かつて帝国において名を馳せた高名な術理博士にして、正規軍や蛇狩りでも採用されている基礎咒式の論理構築にも携わった天才咒式設計士(プログラマ)。FCA内部では”賢人”バルタザール、プラハのメイガスといった異名を持つ女傑。文献から読み解く限り、アンデルセンはこのような大人物として記されていた。


 にもかかわらず、ブフナーは買い被るかのように、ハインリッヒには何らかの手段があるとでも言いたげな口ぶりだった。仮にハインリッヒがアンデルセンに追随する魔術の才の持ち主だったとしても、顛生具現に広義の魔術は太刀打ちできない。何らかの防衛機構を敷いたところで、アンデルセン側の干渉にはまったくの無防備と変わりはない。


 となれば、ハインリッヒはエクスキャリバーを身に付けるより前の段階でアンデルセン、そしてヘンリエッタの霊視を掻い潜るなんだかの手段を有していたという事になる。無論アガーテの『アンデルセンにとってハインリッヒは分校に残っていた少数のFCA党員と同じ有象無象に過ぎない』という意見を覆すには何らかの物証が必要となるわけであり、現状そんなものをアガーテは持ち合わせてはいなかった。


 誰かの手助けを受けたのだろうか。分校には顛現法を一端と言えど使いこなし、エミリア・ハルトマンに斃された人形がいたというが――――深く考えるまでもなく却下である。あの当時、伝染するかのようにグレゴール・フルークの狂気が蔓延していたとの事らしい。ハインリッヒに銃で致命傷を負わせたのもまた人形である以上、当時の彼に与する存在がいたとは考えにくい。


 それではやはり偶然なのだろうか。人形を価値ある存在にまで作り上げる為の検体であるハインリッヒがフルークの謀反に偶然巻き込まれ、その鎮圧に駆り出されたアンデルセンとヘンリエッタには一般党員と同じに映ったために放置され、偶然にもその後エクスキャリバーによってフルークの欠員を埋める補充要員として採用された?


「ベルンハルデさん」


「何?」


(フュンフ)の……グレゴール・フルークの謀反についてお聞きしたいのですが」


「謀反……? あの、ハインリッヒ君を拾った日の事?」


「ええ」


 怪訝そうな目つきで、ベルンハルデはアガーテを見上げた。


「そうね、いいわよ」退屈凌ぎになりそうだしね、と、ベルンハルデは珍しく快諾した。


「異変に際して、最初に動いたのは?」


「ブフナー卿だったと聞いているわ。やがてルイーゼ妃経由でお兄様が(ノイン)(エルフ)を向かわせて、次いでブフナー卿が貴女や私、ブロッホ大尉に召集をかけた。正直言って……あまり気分のいいものじゃあなかった。かなり出力は搾られているとは言っても、いの一番に術を発動させたのはあのⅨですもの。そこらじゅう炎で炙られて、FCAの非戦闘員までまとめて焼かれてしまっていたわ」


「その、焔を操るというのはアンデルセン女史の能力と考えて良いのでしょうか」


「ブロッホ大尉がそう仰っていた以上、経験の浅い私や貴女が口を挟める余地はないでしょう? 察するに発動タイプは具象顕現型、高い咒性と瀰性にものを言わせた広範囲にわたる顛現術の現象発露を得手とする……直接戦闘の才に直結する戦性や活性の不得手を犠牲に長所を尖らせた、生粋の『魔術師』。実際のところは面と向かって確認するほかないでしょうが、かなり的を射た見解だと思います」


「その火災のなか、ハインリッヒ君は?」


「奥の校長室。煙に巻かれなかったのは、大窓に穴が空いていたかららしいわね。そもそも術による現象なわけだから、鎮火するのもかなり早かったらしいし」


「そこで貴女とブロッホ大尉が彼を保護したと」


「いいえ。彼を見つけたのは恐らくハルトマン中尉。(ヘンリエッタ)は逃亡した人形とフルークを追うのに手いっぱい、アンデルセン女史はその時既に分校から姿を消していた。居座っていた最後の人形を破壊して、ハインリッヒ君を確保したのはハルトマン中尉よ。私たちがその場に居合わせたのは、全部終わった後だった」


 アガーテは緊張からか、思わず息を呑んだ。


 エミリア・ハルトマン。騎士団のやくざ者、屍山血河の不死者の王(ノーライフキング)――――あれが、ハインリッヒを救った張本人だというのか。


 (フュンフ)として採用する件を提案した、そこまではいい。フルーク討伐という題目もあるし、単に彼を弄ぶ愉悦を味わいたいが為の狂言としても納得できる。だが、見ず知らずの少年をあの女がその程度の見返りで救うものだろうか。


 それに、ここで新たな疑問が浮上したきた。


 そもそもアンデルセンが気にも留めなかった少年を、エミリアがなぜ見つけられたのだ?


 エミリア・ハルトマンはその逸話と戦いぶりから察するに、肉体強化に秀でた純粋な白兵戦特化タイプ。その彼女がアンデルセンよりも秀でた霊視を展開できるとは考えにくい。ブフナーからの受け売りだが、対人戦闘では必須となる視界の霊的感応力を高める有視界霊視ヴィジュアル・サーチであるならばともかく、ああした気性の持ち主は広範囲に感覚を張り巡らせる広域霊視を不得手とする傾向がある。推察に推察を重ねる結果にはなるが、アンデルセンと何らかの密約を結んでいなければ、もしくは分校について知り得ていなければハインリッヒへ辿り着く事は、まず不可能と言っていい。


 もちろんエミリアは七十年前の東西戦争、そしてキャメロット事変に際し各地を転戦した経験のある歴戦の古強者、新参のアガーテよりもフルークの研究に込み入った知識を得ていてもおかしくはない。それでは、なぜエミリアは異変に感づきハインリッヒを助けた? 組織の中核であるディートリヒやアンデルセンすら『その他大勢』と見做した彼を。


「何か、余計なことごちゃごちゃ考えてるみたいね」


 ぴたりと歩を止めたベルンハルデの声色は、出来の悪い愚かな教え子に、自らの間抜けさを遠まわしに諭しているかのよう。時間の無駄だ、下手の考え休むに似たり、そう言わんばかりにベルンハルデは蔑みすら混じった視線で睨みつける。


 その背後には、二階へと通じる階段が伸びていた。タイルも手すりもところどころ朽ちて欠け落ち、上階から墨をこぼすように流れ出る濃い闇が影となって皹割れに滲みこんでいる。乾燥した皮膚から鮮血と膿が漏れるように、闇は形容しがたい異臭と汚物を孕んで垂れ流していた。


「お優しいこの結界の主は、引き返すのを留めない。そんなに不安でしょうがないなら、尻尾巻いて帰っていいのよ?」


 玉の汗が項を伝うのを感じ、アガーテは胸の内の焦燥がより激しく、強く盛っているのを自覚した。


 階上から伝わる、瘴気とも言うべき淀みきった気配によるものであるのは確か。それに加えて、アガーテの懸念は種痘のごとく、膿を蓄えじくじくと膨張していく。


 ブフナーはこれを予見していたのだろう。愛娘アガーテが目を反らしているものを見抜いていたのだろう。


『エミリアが既にハインリッヒを懐柔しており、アガーテを始めとするメンバーを欺いている』という可能性を半ば故意に揉み消していた。理不尽にまかれ、打ちひしがれた子羊が餓狼の牙など持ち合わせているはずがない。そんな都合のいい手前勝手な解釈で――――懐疑する為の思考すら、アガーテの良心が丸め込んでしまい――――内々のうちに完結させてしまっている。牙と爪を持つ怪獣の侵入を許してしまった愚昧な豚とは、アガーテ(わたし)の事だったのだろうか?


 懊悩を抱え自問しつつ、アガーテはやがて蹄鉄を叩いて歩み始めた。それは惰性や慣性にも似た諦めからの思考放棄なのだろうか、アガーテの双眸はゆらゆらと鬼火のように震えていた。


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