ヴィレハイム館
「おはようございます、アガーテ」
寝起きのアガーテが玄関先で目にしたのは、普段着のジャケット姿のブフナーだった。いかにも、これから普通に出勤するのだというような風体で、彼は玄関扉の把手に手をかけていた。
「すみません、今日は夕飯は結構です。ちょっと、用事ができましたもので」
「ブフナー卿、その……私、昨日は」
「昨日?」
わざとらしくとぼけたような仕草をし、やがてブフナーは「昨日の夕食は美味しかったですねえ」などと言い、にこやかに笑顔を返した。
「何か?」
心底不思議そうに、ブフナーはアガーテの瞳を覗き込む。昨日は普通に食事をし、ハインリッヒと暫しの団欒を過ごしてからは書斎に籠って、それから不覚にもそこで朝までぐっすり一晩寝入ってしまった。この寝癖をごらんなさい、それに背筋もばきばきだ――――そんなに不自然な事があるでしょうか?
「い、いえ……何でも、ありません」
「そうですか」
「すみませんでした、ブフナー卿。どうかお気をつけて」
アガーテに軽く会釈を返すと、ブフナーは床に置いてあった皮のブリーフケースを手に取った。
「ああ、そうだ……気を付けると言えば、アガーテ。貴女もですよ」
「私も?」
「ええ。特に、ハインリッヒ君。彼についてはひときわね」
「委細、承知しています。エミリア・ハルトマンや、ヴィッテルスバッハ四姉妹については……」
「いや、まあ……そういった直接的な圧力についても十二分に留意すべきではあるのですよ」
「はあ?」
「彼本人に関連する事柄です。彼はどうも二つほど、我々の知りえない秘密を抱えている。無論私の推測によるところが大きいのですが」
「秘密……?」
「そう。私が気になっているのは『彼がなぜアンデルセンの広域霊視にかからなかったのか』という点……ああ、彼を拾った時の話ですよ。フルークが人形を連れて行ったあの日の事です」
「それが……何か? 単に、アンデルセン女史にとっては部外者である彼に注視する必要がなかったからではないのですか。霊視の観測結果がどう出力されるかは存じませんが、最優先目標はフルークと人形たちのはずです。彼を見逃す事に、さほど特別な理由があるとは考えられません」
「あ、いや……その……ま、そうですね」
ブフナーはおどけ混じりに表情を曇らせた。
「でもまあ、本当にただ気になっているだけ。好奇心の範疇に過ぎません。よく考えれば、アンデルセンにもう一度問い合わせればすぐに解決するような事ですね、もったいぶって申し訳ない」
「もっとも、運が良ければ」と。ブフナーはそう付け加えた。
「では、もう一つというのは?」
「彼の秘める牙について」
ドアの向こうへと歩き出し、そしてドア板がブフナーを遮る直前になってから
「彼が本当に、救いを求める子羊かどうか、貴女は果たしてどう思います? アガーテ。互いに手札は伏せたままだが、恐らくは互いにそのスーツも数字も把握しきっているのかもしれない。一切を承知の上で、仮面をつけたままでいるのかもしれない――――ということです」
なるべく感情を込めず――――しかし愛娘に対する憐憫を完全には殺せぬまま、ブフナーは哀しげに言った。
「その幕切れに、多大な期待は禁物ですよ。アガーテ」
ベルンハルデとエドゥアルド・ブロッホが訪ねてきたのは、ハインリッヒと二人きりでティータイムを終えた正午過ぎのことだった。
春の時節に逆らうように、今日は今朝がたから湿度がやたらと高い。霧の中に放り込まれたかのような日で、天候は先日から引き続き真っ黒い曇天のまま。家に居ても気が滅入りそうな気候にも関わらず、この上とびきり苦手かつ嫌いなベルンハルデのつらを拝まされ、アガーテはメチルアルコールでうがいさせられるような心地だった。
先達であるブロッホもいる事だし、とりあえず社交辞令で人数分の珈琲と茶請けを用意し直し、アガーテとハインリッヒは再びリビングの座布団に座り込んだ。
空も地面もぐしゅぐしゅ湿った濡れ雑巾に置き換わったのかと思うくらいにじめじめする中、二人が纏ってきたのは馴染深い騎士団の黒装束。何を思ったのか、よせばいいのに指定の外套まで律儀に被ってくるものだから、ベルンハルデは雨に降られたかのように汗だくだった。
「この恰好を見れば、今日来た理由はわかるでしょう」
などと文字通り格好つけたところで所詮は湿気にやられた濡れ鼠。ふやけ切った高嶺の花にどうこう言われたところで虫唾が走るだけである。カビで模様が着かんうちに押し花にでも何でもなってしまえとぶちまけてやりたい気を抑えるのに、アガーテは大層骨を折った。反してブロッホがその彫刻めいた無骨な佇まいをわずかにも崩さず、汗ひとつかいていない所を見るとなおさら滑稽である。さっさと帰れ床を汚すな。
「言ってくれれば空きの部屋をお貸ししましたのに」
アガーテのとぼけた提案でようやく自身のありさまを客観視できるようになったのか、ベルンハルデは「他人の家で着替えるのが嫌だっただけだから」などと吐いた。
茶請けのシュネーバルをそれぞれ一つずつ齧り終えた頃になり、ようやくブロッホが今日これからの予定に関する口火を切った。
「ベルから既に聞いているかもしれないが」
きわめて堂に入った、地を這うような低い声。ブロッホは対面するハインリッヒをちらりと一瞥すると、言葉を続けた。
「フルークの眷属と思しき魔力反応を、アンデルセンの霊視の網が捉えた。感応波長をトレースした上で先日のうちに私とディートリヒが現場の下見に出たのだが、これがどうにも締まらない結果に終わってしまってね」
「締まらない、とは?」
「門前払いだ」
岩肌めいた眉根をぴくりとも動かさず、ブロッホは淡々と言った。
「言葉通り、そもそも干渉する事すらままならなかった。反応のあった敷地内付近に接近すると、奴さん問答無用でこちらの行動を阻害してくるのさ。視覚情報を狂わせ、平衡感覚に指を突き込み、触覚までだまくらかしてくる。直接的な攻撃の意志こそ感じなかったが、あのディートリヒですら目標に辿り着けないとなると、力押しではどうにもならない」
「敷地内と仰いましたが、目標はその……どこかに、建物か何かに籠城していると解釈してよいのですか」
アガーテの問いに、ブロッホは頷きながら返答した。
「ヴィレハイム館という建物を知っているかな。駅からクラーニヒ川をまたいだこちら側、ここからやや歩いた先の丘にある古城なんだが」
「私たちなら走った方が早いでしょうね」というベルンハルデのつぶやきに、ハインリッヒはぎょっとしていた。
「存じています。実際に足を運んだ事はありませんが」
さほど規模の大きくない、林の中にささやかに建つ城である。傍にあるものといえば、聖マリアンヌの名を冠する閑静な霊園くらいのもの。現に墓所の管理施設として敷地の一角が利用されているとも聞いており、以前は町役場としても機能していたらしい。ヴィレハイムとはクラーニヒ川を挟んだホリゾント東側の旧名であり、再開発による都市区画の統廃合を経た現在においては、その名が公的に用いられる事はまずない。
件のヴィレハイム館は地上四階建て、敷地には物置や畜舎と思しき建屋が数戸点在していた。
黒の瓦屋根が敷かれた尖塔に、壁にはウエハース菓子を連想させる薄いカーキ色の建材。鬱蒼と茂った針葉樹の間から垣間見えるその姿は、御伽噺の舞台装置めいた可愛げある雰囲気をたずさえており、どことなく愛嬌すら覚えるようなものだった。
「ディートリヒに言わせれば、やはり縁を要にした認識結界が展開されているとの事だ。私やディートリヒ、それにヘンリエッタ……我々全員、フルークやその眷属とは騎士団という浅い縁でこそリンクしているものの、結果はご覧の通り、恥ずかしながらの無駄足だ。更に深層の縁が要求されているわけだ、つまりは」
ブロッホの瞳がハインリッヒを見据えると、
「結界を展開した術者はハインリッヒ君、君をどうやら御所望のようだ」
「僕を、ですか?」
「実際、君をストレートに呼んでいるかどうかはわからんがね。ただ、君ならば目標のもとに辿り着けるのではないか、と私やディートリヒは踏んでいるのだよ。無論、あくまで仮定に過ぎんが。顛現術における結界というのは、主に立ち入る人物の属性や業、思想を査定した上で固有の妨害咒式の起動判定を行う受動機構だ。今回の『十三騎士団』という大枠の括りを弾くという事は、より術者に立ち入った縁者の持つ属性がなければ、判定をパスする事はできない。ゆえの、ハインリッヒ君への指名なのだが」
一端言葉を切ると、ブロッホは周囲のアガーテ、ベルンハルデの両名の間に視線を泳がせた。
「ハインリッヒ君のエクスキャリバーをホストに、同じくエクスキャリバーを顛現の要として扱っている彼女やベルもまた、便乗して結界をパスできはしないかと思ってね」
「私たちが、ですか」
「そうだ、やってみる価値はあるはずじゃないか。幸い、こちらに致命傷を与えてくるほどの抵抗を向ける相手ではない。トライアンドエラーを許してくれるなら、それに甘えない手はないだろう」
「それはもちろん、構いませんが」
アガーテは気取られぬようベルンハルデの顔を見やった。自身の胸に秘める聖剣の名こそ知り得ていたものの、よりにもよってこの女とは同じやいばを分けた仲だったとは。ハインリッヒならともかく、アガーテは二杯目のメタノールを呑んだ。
「して、ハインリッヒ君。君の意向を聞かせてもらいたいのだが」
名を呼ばれたハインは、澄んだ水晶のような眼をブロッホに向けた。
「ブフナーや、それにハルトマンからも再三にわたって脅されてきたろう。改めてここで確認しておきたいのだ。我々が、君に期待している事を」
ブロッホに次いで、ハインリッヒの表情からも温かみが消えた。警戒心という鎧の無機質な光沢を露わにさせ、三分ほどの怯えは奥歯をきつく噛み締める行為へと転化させていた。
「僕に選択の余地はないと思うのですが」
ハインリッヒの持つ縁は騎士団にとっては無比の存在、フルークへ近づく為の足掛かり。裏切り者フルークとその眷属を想定通りに始末できれば、これ以上の結果はない。アンデルセンの霊視の結果をただ待ち続けるだけでなく、『探知機』を用意できれば確実に仕留める事ができるのだから。白の大隊に反感を持たれることもなければ、騎士団同士で殺しあうこともない。
ハインリッヒとしてもこの計画に波立てず賛同するのなら、引き続き手厚く魔人たちによって庇護されるだろう。子供も騙せぬ陳腐な手品程度の魔術で悦に入る『蛇狩り』に引き渡されるよりかはよほど安全だろう。また一介の福祉職員や警察官が竜の子孫、勇者の末裔に睨まれて、無事でいられるとは到底思えない。公的機関に信頼が置けず、騎士団のような反社会的極まりないオカルト礼賛集団に身を委ねねばならないハインリッヒの身の上を、アガーテはそれが偽善であることを自覚しながら案じていた。
いかに無頼なるエミリアとて、団員過半数を越える意見の合致に抗うほど幼稚な判断基準は持っていないはず。現状問題視すべきはフルーク側の工作と白の大隊の存在くらいのものなのだ。
メリットこそあれ、騎士団への反目で得られるものなど無いように見えたが、アガーテは平時からハインリッヒが醸す憂いを常々感じていた。それが何なのか、アガーテは既に答えを持ち得ていた。どうすれば、ハインリッヒに立ち込める暗雲を晴らす事ができるのか――――否、そんな事は私にはわからない。わからないふりをする事で、アガーテは決断を先送りにしている。現に、アガーテは浮かび上がった疑問に対して、その裏付けたりうる答えを何一つ得ようとしていない。『願わくば』という実に不確かな希望的観測にもたれながら、彼女は震えながら時が流れるのをただ見つめていた。
「フルークが憎いのは今でも変わりません。あなた達に協力できることがあるのなら、何でもします」
「自分の置かれた立場は分かってるみたいね」
「もう、あなた達と付き合って二月以上も経ってますから」
「だったら、四の五の言わずにもう少しだけお付き合い願いたいですわね」
「僕がいつ四の五の言いましたか」
「がたがた四の五のうるさいですわね」
わざとらしく髪をかき上げ、ベルンハルデが口をとがらせた。
「と、彼には了解を得られたわけだが……君もそれに理解を示してくれるかな」
ブロッホの機械的とも言えるほどに調子の変わらぬ声色に、アガーテは毅然と言った。
「無論です。彼の意向を尊重こそすれ、私はそれに口を挟んだりはしません」
「馬子にも衣装という感じね」
FCA謹製の礼服に袖を通したハインリッヒを見て、同じく揃いの装束であるベルンハルデがせせら笑った。開口一声からしてこの無礼千万を慇懃に投げかける美少女の失言に応じ、彼女の保護者と見間違うような巨躯がやんわりと咎めた。
「君も大して違いはないと思うがね」
「背丈は私の方が高いです」
そうは言っても、さほどきつくベルトを締め上げていないにも関わらず、ハインリッヒのウエストはここにいる女性二人のどちらよりもほっそりと華奢であった。
採寸合わせこそ間違っておらず、製造も組織とパイプを持つヘルヴェチアの系列企業によるオーダーメイド。ホリゾントの学生服の三倍ほどは値が張る特注品である。ただしサイズが合わず先日の寝間着のようにぶかぶか、というようには行かずとも、新ヘレニズムの信条とする富国を体現する親衛隊の勤務服は、いささか線の細い彼には不相応に感じられる点があるのは確かだった。もっとも、決して少年少女特有のアンタッチャブルな耽美さが損ねられているというわけではない。
「着慣れて振る舞いも板についた人間が言う言葉ではないだろうに」
「あら。彼、術士としての振る舞いについては、かなり熟練しておいでのようですけれども?」
ふふんと鼻を鳴らしてぼそぼそするベルンハルデは、嘲笑とも称賛とも取れぬ曖昧且つ投げやりなハインリッヒ評を垂れた。
時刻は午後五時を目前に控えた時分。一同は、件のヴィレハイム館を正面にしていた。四人全員が対物・対魔加工を施された黒の礼服に身を包んでおり、一見して堅気とは判別し難い様相だった。もっとも館周囲に人影はなく、彼らのほかに動くものといえば樹上を忙しく伝う小動物くらいである。以前は町役場として使用されていたとはいえ、その役目を終えた今では打ち棄てられているのと同様と言えた。
敷地内は雑草が無遠慮に生い茂り、畜舎と思しき建屋の裏では、赤さびまみれの蒸気式トラクターが、牛かなにかの死骸のように遺棄されていた。煉瓦式の石床はところどころが砕け、隙間から毒々しく苔と蛭が顔を見せていた。よく周囲を見ると、その付近には真っ黒に酸化した水道の蛇口が備え付けられていた。根元の水道管が破れているのか、粘土状になった土が一部の舗装をぐずぐずに崩していた。
敷地の周囲は、黒々と繁茂した雑木林で覆い隠されている。ときおり吹くつむじ風が草葉をざわざわとやかましく騒がせ、そこが閉じきった狭所であるかのように錯覚させる。音が止めば、耳に痛みさえ感じさせるほどの静けさが雄大に、そして残酷に横たわる。
「ここまでは順調のようだな」
うらぶれた感のあるヴィレハイム館は、人の出入りが途絶えて尚、健気に来訪者を待ち続けていた。H型の中央部に置かれた正面玄関付近は、意外にも建材の激しい劣化には晒されておらず、背の高いマホガニーの両開き扉は今なおまぶしく黒光りしていた。
「扉に触れたその瞬間、本命の結界が作動する。ハインリッヒ君、頼む」
「はい」
ブロッホに促され、ハインリッヒは扉の前に立った。
「五時に時間を合わせる。収穫の有無にかかわらず、三十分後に再集合」
「わかりました」
各々きりきりと支給された腕時計のリューズを回し、指定時の訪れを暫し待った。木々の嘶きと自身の鼓動だけが鼓膜に響く中で、アガーテはハインリッヒに歩み寄る。それは無意識的なものであり、何か告げたいことが特別にあったわけではなく――――本来ならば、ここで自身の為にもはっきりとさせておかねばならないことはあったはずなのだが――――ただ、自然とアガーテは、ハインリッヒの頼りなげな黒い背中を見つめ続けた。
やがて、各々の短針が五時を指し示した。
ハインリッヒがドア板に手を添えた。ほんの少し力を込めるだけで、支えを失ったように力なく扉が開いた。蝶番がぎりぎり軋み、砂埃が薄く舞い上がった。