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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
決別の兆
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父娘

 アガーテは自室から廊下に出た。時刻は一時近く、窓の外からは、さわさわと草木がこすれる音だけが聞こえてくる。無機質に時を刻む柱時計の音がいやに大きく聞こえ、アガーテの感覚をむやみに煽って鋭敏に仕立て上げた。


「あの女っ……さっきから何のつもりなんだ」


 いきなりアガーテを極東での名で呼んだと思えば、御河童おかっぱ少女は不穏な笑みをにたにた浮かべながら綿のようにひらりと浮遊した。厚ぼったい装束でぷかぷか浮かぶさまはさながら夏場にまるまる肥えた積乱雲であり、部屋の壁をするりと抜けてアガーテの目の前を去っていった。


『背中を押してやろうじゃないか』


 あの提案は、果たして何を意味しているのか。あんな化外に手助けしてもらわねばならない案件などひとつもない、自分の抱えている葛藤を劇的に解決できるような手段など、方法論などあるものか。


 暗い青に染まる絨毯敷きの廊下を歩いていくと、やがてハインリッヒが利用している部屋にさしかかる。


 デパートからの帰り道の事。もう一拍くらいしていったらどうか、というアガーテの提案を受け入れたハインリッヒは、それならばと寮の自室の荷物を持参したいと主張した。回り道になるが断る理由もなく、二人並んでホリゾントの学生寮へと運んだ。


 寮の周囲は先日発生したというシャワー室での爆発事故の跡を見物しにやってきた暇な学生どもが見受けられた。しかしさすがに事故翌日の日没を前にした時間帯というのもあって、爆発直後ほど人気は減っているのだろう。建物の基礎に影響を与えるような爆発ではなかったらしく、一時避難していた学生のほとんどが部屋に戻って来ていた。


 数分ののち、ハインリッヒは私物を詰め込んだ革製鞄を持って現れた。さりげなく内部について問い質すと、「替えの下着や文庫本が詰まってます」との事である。なるほど、さすがにブフナーのものでは抵抗があったのか、アガーテは己のデリカシーの無さを反省した。


 さて。見るとドアの隙間から暖色の灯りが漏れており、彼がまだ就寝していない事が見て取れた。恐らく荷物の整理をしているうちに探していた小説でも見つけて読み耽っているのだろう、アガーテはそう思った。きっと、ここで軽くノックしたところで気づきもしまい。


 ハインリッヒの部屋を通り過ぎると、アガーテは絨毯の上をひた歩いていく。


「遺恨を遺さんように生きるのが人生のコツだぞ」


 ふわふわり、私室に降って湧いたかのように現れた御河童おかっぱ頭の少女は、まとわりつく裾や振り袖の重さなどまったく感じさせない。ふらふらり、万有引力すら超越し、煙のように中空を優雅に遊泳する。


「早うせい、マスター。それとも、あの男は私に譲ってくれるのかな。ぼやぼやしていると、どんな雌猫にかすめ取られるかわからんぞ。さあ」


「……破廉恥な!」


 振り払うように、そして自身に喝を入れるかのように、アガーテは少女に向かって静かに怒気を向けた。


「お前が選び、お前が愛した男だろう。何を遠慮する必要がある、既に我らの命は天秤に掛けられており、そして男もまたそうだ。戦地に赴く前に、互いにその体温を確かめ合う事のどこが破廉恥かね?」


 壁をすり抜けドアをすり抜け、アガーテをからかい、また誘うように少女は浮遊する。


「目頭が熱くなるのだろう? 彼の声を耳にすると、それはもう抗えぬほどの多幸感があるのだろう。体幹を震わすほどに、心の臓が亢進するのだろう? 角笛のように雄大で、しかしどこか頼りなげながらも涼やかな声に、どうしようもなく昂るのだろ」


 四脚の球節に鎖の戒めを括り付けられたようだった。毛先の長い絨毯は、濃密なコールタールのように蹄を咥え込み、アガーテの歩をねっとり遅くする。険しく少女を睨みつけていたアガーテの目つきは、徐々に憤りと困惑、そして不安で熱を籠らせたようにとろんと垂れ下がる。かたく噛み締めていた顎の力も抜け、熱波のような吐息が歯列から流れた。


 入浴後のようにひりひりと身体が火照り、ひんやりした冷気が薄皮から神経までを極めて細い針でつつき回しているような感覚がする。ひどく敏感になった感覚は、少女の吐く淫猥な戯言とともにアガーテを昂ぶりへと導いていく。


 勤勉にして高潔な騎士であろうとするアガーテにとってはインモラル極まりない、彼女が深層に押し込めたはずの、憧憬と根源欲求が合一化した性嗜好をじれったく刺激する挑発だった。


 少女の引く不可視の手綱に先導されているようだった。この深夜に、善性と欲求の狭間で悶々と懊悩していた中、目の前に突如として姿を現した自称深層心理の住人に肢体を易々と掌握されていた。


 曰く、積層した思考の底に棲む者。


 曰く、深淵にてヒトの智慧と欲望を愛する者。


 曰く、自分はアガーテ(他我)にしてアガーテに非ず。


「まるで市井の生娘のように、獣性を襤褸で隠した見せかけの雄性に恋慕を滾らせるのだろう? 彼の手が皮膚に触れるだけで、喉が窄まり高い嘶きにも似た喘ぎがこぼれ出るのだろう? 一時は恥じらいこそすれ、それを頭ごなしに否定する事はないじゃないか。求めろよ、さすれば与えられん」


「求めてない! 私は、そんな破廉恥な……そんな形で評価される事なんて望んでいない! 化外の用立てなど私には必要ない、私は」


「四っつの脚は正直なものだがな。その樽のような尻も、お前の口とは正反対ではないか」


 からから機嫌良さげに笑いながら、横の壁から頭を出した少女はキャミソール越しのアガーテの腰角をぺちぺちはたいた。


「美辞麗句を並べると同時に、雄の四肢を絡め取る嬌声を学んでこそ女よ。雄は総じて阿呆な生物だ、精巣に大脳辺緑系と視床下部を支配された射精機械に過ぎん。手足のみならず爪先から頭頂にかけて、ありとあらゆる身体器官に見栄と淫慾が詰まりきっておるのさ」


 嬉しげに言ってから、アガーテの座った目に睨まれ続ける少女は、またも水面に飛び込むように壁に姿を消した。


 少女の沈み込んだ壁の内側にあるのは、普段からブフナーが書斎として活用している部屋だった。生唾を呑み、アガーテは足早に傍らにあるドアへ近寄ると、ゆっくりと真鍮のノブを回して入室した。


 室内は静謐で透明な空気で満ち満ちていた。閑かな清流で汲まれた冷水が波音ひとつ立てず、ただそこに満ちて完結している。光源はアガーテは熱で猛る臓腑を胸に抱いたまま、プライベートスペースに等しい領域に足を踏み入れた。


 書斎はアガーテの私室やハインリッヒのいる部屋と比べるとやや狭く、家の裏手の杉林に面している為、昼間でもなかなか光が射さない環境にあった。三方の壁に備え付けられた本棚には人文、哲学、歴史と幅広い分野にわたる書籍が満載され、狭所が苦手なアガーテはその圧迫感に少々面喰った。


 ヴァルター・ブフナーは、古紙とインクの香りが匂う中で安楽椅子に腰かけたまま眠りに落ちていた。活字からふと目を離し、物思いに耽ろうと身体を椅子に深く預けたところで意識が遠のいていったのだろうか。リクライニングをやや傾け、ゆるく腕組みをしながら草木のように眠っていた。


「一目惚れ、身を尽くし、帝を討ち兄を殺し、横道逸れたかと思いきや想い人のその娘と子を生した。お前が惚れた男が負ったカルマはな、そういうみみっちい、どこまでもありふれたへたれ男のそれなのよ。男はなんと罪作りで女々しく、こんなにも幼稚で愛らしいのだろう……」


 口が酸っぱくなるほどワイシャツとスラックスはハンガーにかけろ、新品のシャツを着ていけ、四の五の言わずに乾燥機を使えと言っているにも拘らず、ブフナーは相変わらずよれて色落ちしたボンクラ文官然とした恰好のままもたれていた。きちんと整えればまだ見られるはずのブロンドは寝癖がついたまま、素行不良の学生のような有様。日常に関しては必要最低限の労力すら払わないのに、そのくせ晴れの日に着る礼服や服飾に関してはアガーテが口を挟む余地なく完璧に着こなし、選択を始めとする後始末にも余念がない。


 曰く、努力すべきところを勘違いするわけにはいかぬ。明日できる事は明日やればいいし、付けなくていい習慣は無用の長物。執拗に迫られて初めて本腰を入れればよい。


 実際それで恥をかいた事はアガーテの知る限り一度もないので、現状アガーテの余計なお世話が内助の功としてブフナーの危機を救った事例もまたない。


 ぽやぽや腑抜けた様を周囲に見せつけていながら、やるべきところは何一つ瑕疵なく締めてみせる。十三騎士団、ひいてはFCAという組織内においてカールやフルーク、ディートリヒと並んで活動指針に直接関与できるポストの存在に相応しく、ブフナーという男は優秀にして老獪だった。


 アガーテを拾う以前から長く(フィーア)として活動していただけあり、あわや同胞との戦闘状況に陥りかけた先日でも汗ひとつかかず切り抜けた事からも、その荒胆ぶりは明白である。


 白の大隊(ヴァイス・バタリオン)の軍勢と、顛生具現使い(顛現術士)に勝るとも劣らぬ地力を各々持ち合わせるヴィッテルスバッハ四姉妹を前に、ブフナーの采配はその鋭利さを竜の圧力によって鈍らされる事なく発揮されていた。


 広域霊視(サーチ)と目配せによって、ハインリッヒへ向けられた加害を防ぎきった上でヘンリエッタの報復を推しとどめた。ハインリッヒの場合はあくまでミランダによる示威行為、ベリンダの発言に便乗した嚇しと言ってもいい。そんな稚気に満ちた安い挑発に、直接戦闘のエキスパートであるエミリア()ブロッホ()を差し向けるべきではない。戦力差は未知なれど、こちらが冗談交じりのジャブに過剰な反応を見せる痩せ犬だと思われるわけにはいかなかった。


 ゆえに若輩のベルンハルデかアガーテに白羽の矢が立つのは自明であり、且つブフナーの言に耳を傾けるとなれば後者しかあり得ない。加えて、それまでアガーテがハインリッヒに抱いていた感情の機微を悟った上での采配であろう。顛現術とは使い手の持つ意志や哲学に密接に繋がる術法であり、明確な目的論的思考を有した上での使用によってその真価を発揮する。


受動的パッシブに発動する』ような特性を持つ能力でもない限り、基本的には使い手の矜持もしくは哲学に合致する目標に向けての行使こそが合理的運用法だと言える。


 弱きを助け強きを挫く。そんな功利的思考が、アガーテの『帯刀』によって顕現した《顛現槍ランツクネヒト》の戦力を押し上げ、明らかに格上と断定できるミランダの一閃を逆薙ぐ事ができたのだろう。アガーテ本人もまた、当時は分を弁えた上でハインリッヒの安全確保のみを第一に思考した事が有利に働いたと考えられる。


「よくやりました、アガーテ」


 触れれば皮膚を焼き、血肉を沸騰させる実体なき凶刃を受け止め――――それは無論、ミランダの実力の三分ほども込められてはいないのだろうが――――その冷ややかな恐怖に、小刻みに震えていたアガーテに、ブフナーはそう言って頬を撫ぜた。


 凍える身が暖かなジンジャー・ティーで氷解されていくような安堵と、得も言われぬ心地よさが若芽のごとく顔を見せた。


 実の父母の顔をはっきりとは知らぬアガーテの父性性愛エレクトラ・コンプレックスは、日に日にその激しさを増すばかりであった。初めての思春期から今日こんにちにかけて、それはまるでパイ生地を幾重にも積んで作られたミルフィーユ、甘い甘いメープルソースのたっぷりかかった忘我の味わいである。一介の乳母や女中にままごとの相手をしてもらったところで到底満たされぬ、ブフナー(お義父さま)のみが与えてくれる至福の多幸感。アガーテを必要としてくださる方のお役に立つ事こそが私の生きる、闘う目的であり、無比の清福に他ならない。


『よくやりました』、ああ、その一言が。どれだけ私の身に薪をくべ、慕情という炎の勢いを増す一助になるのか。果たしてブフナー卿(お義父さま)、あなたにお分かり頂けるでしょうか。拾われ子である私には許されざる、身の程知らずの高慢な恋慕である事など百も承知、しかし、それゆえに背徳はこうして我が胸の内をちりちりと急かすように焼き焦がしていくのです。柔らかでまるいものが、喉の奥をこそばゆく這い回りくすぐってくるのです。

 おお、どうか。どうかこのアガーテを少しでもいじましく思われるところがあるのであれば、どうか――――


 蜜花に吸い寄せられるように――――揺蕩うようにブフナーの椅子の傍まで歩み寄ると、アガーテはゆっくりと床にぺたんと腰を下ろした。


 場末の娼婦が上客に媚び諂うように、御河童少女はブフナーの肩に腕を回し、空いた手指を彼の口元に据えた。色素の薄いハーフエルフの朱色を少女の指の腹が撫でまわすのを目の当たりにし、余計にアガーテは焦れる思いがした。


徐々に距離を詰めていく中で、やがてアガーテはブフナーの胸元へ鼻先をうずめた。少女に代わって両の腕を首に回して、ぴったりとアガーテはブフナーに密着する。鼻を鳴らしてシャツの温もりを鼻腔いっぱいに吸い込み、気管から肺にわたって彼の匂いを沁みつけるつもりで嗅ぎ続けた。


VaterおとうさまVaterおとうさま――――」


 若い娘が言うような加齢臭とやらはてんで感じない、しかし初心なアガーテには実に新鮮かつ刺激的な汗の匂いがうっすらと香り、鼻先からじわりじわりと興奮が熱っぽく全身に広まっていく。

発情した牝馬を諌める理性も戒めも今はなく、御河童の少女の姿はすでに何処かへ霧消していた。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ……赦して、どうか……」


 震える歯の音で懺悔するような呟きもまた、己の情欲に油を注ぐだけだった。


こんなにもアガーテは猥褻で、卑猥で、矮小で、だからこそ貴方の救いが必要なの。貴方に受け入れてほしい、どうか抱きしめ返してほしい、どうか痕が残るほどに、聖痕スティグマータのような爪痕を深く、深く抉って刻み込んでほしい。私は貴方の土地として、貴方の領土として振る舞いたいのです。だから、どうか――――

 

「アガーテ」


 聞き間違う事のない穏やかな声色で頭上から語りかけられ――――たとえそれが寝言であったとしても、恐らくアガーテの反応は変わるはずなく――――アガーテは飛び跳ねるようにブフナーの胸元から顔を離した。


「お義父さ……ブフナー卿」


「部屋へお戻りなさい。今夜の事はすべて忘れますゆえ、言う事を聞いてくれますね」


 普段と何も変わらない、悪戯の過ぎた子を諭すような口調だった。


「あなたに恥をかかせたくないのです。わかりますね、アガーテ」


「恥だなんてッ、そんな!」


「子に手を出す父親がいるものですか。逆もまた然り。アガーテ、あなたは少し疲れているだけです」


 依然として目を瞑ったまま、自分は何をされたわけでなく、あくまでこの夜自分は書斎でただだらしなく眠りこけているだけだ、というていだった。しかし、数瞬の逡巡のちに唸って息を吐き出すと「いや……違うな。アガーテ、そうですね……」と呟いた。


「ハシラの贄の選定、それで起こり得る騎士団の瓦解……それが怖いのでしょう、アガーテ」


 傍らにあったアガーテの黒髪を手で梳かしながら、ブフナーは行為の落としどころを用意してみせた。アガーテは高鳴る脈動でつかえながらも、ようやく肯定の意を示す返事をした。


「よろしい、そういう事にしておきましょう。その事に関してならば……安心なさい、あなたも、そしてハインリッヒ君も決して贄にはなりませんよ。少なくとも、私は年若いあなた達をどうこうしてやろうとは思ってはいないし、それにあなた達の屍で築かれたきざはしアガルタに昇るなどまっぴらです」


 瞳を懺海と不可逆ゆえの反省で潤ませるアガーテに、努めてブフナーはその涙の堰を切らぬように宥めた。


「みなで無事に儀の完遂を迎える為には、多少の荒事は覚悟しなければなりません。ハインリッヒ君にも……そして、あなたにも辛い出来事が待ち構えているかもしれない。しかし、恐怖に竦み歩みを止め、停滞に身を甘んじる事こそが人の死であり敗北であり、そして無二の苦役なのです。ですので、アガーテ」


「……はい」


「一時の迷いに振り回される事ほど、理性ある人間にとって不自由な事はありません。研鑽を重ねなさい、あなたはそんな安い女性ではないはずだ。私の見初めた鞘たるに相応しい、賢い子。あなたの世界でのあなたの存在を、もっと大切になさい。いいですね」


 牧師の説教臭くなってしまいましたね、と自嘲し、ブフナーは静かに笑ってアガーテを穏やかに送った。やがて再び書斎に静寂が訪れると、誰に向けるわけでもなくブフナーは言った。


「不憫な娘だ。私のような不感でいくら遊んでも面白くはないでしょうに」

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