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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
決別の兆
67/105

シャドウ

 赫映かぐやおや、という名の物語がある。


 千年も前の事、あるところに翁と媼が二人で暮らしていた。


 ある日のこと。翁がよろずの生業のため、いつものように竹林に出かけると、陽も射さぬほどの深い林であるにもかかわらず、黄金こがねの如く燦然と輝く一本の竹が聳えていた。翁は奇妙に思ってこれを切ると、その中からは三寸ほどの可愛らしい女児がまろび出てきた。翁はその子を持ち帰り、媼とともに実の子として育てる事にした。


 女児は筍よろしくどんどん大きく成長し、三月もすれば諸侯も羨む絶世の美女となった。後光が射しているかのように彼女の周囲は照り輝き、いかなる時も彼女を育てた老夫婦を光で包み込んだ。


 朝廷の抱える司祭が彼女に捧げたるその名は、赫映かぐやといった。


 世の男たちは、その美しい赫映の美貌に狂わされた。


 誰もが赫映を娶りたいと願い、終いには皇室に連なる名家の面々までもが赫映の虜と相成る始末。当の赫映はと言えば、高貴なる五家の男に向け、結婚の為の条件を出した。これが後世にも比喩として用いられる、現実には不可能な事のたとえとして広く知られるようになった『赫映の難題』である。


 案の定誰一人として存在するはずの無い宝物を探して方々に旅立ち、ある者は贋作を持ち帰り、ある者は贋作を自分で拵え、ある者は贋作にすら辿り着く事なく、志半ばで斃れた。


 三年もの間文通を重ねた帝との関係をも断ちきると、赫映はある晩から、夜天の月に想いを馳せるようになった。


 やがて秋口の夜を迎えると、赫映は月から舞い降りたる天人の使者に連れられて、故郷である月の世界へと昇っていってしまった。ドンドハレ。



 十二の頃、ブフナーから与えられた書籍にこの赫映の祖という物語は収められていた。確か、東方文化圏の逸話や伝承を収録したアンソロジーの体裁をとった本だったように思う。


 物語の焦点の当てられている赫映なる女性は、果たしていかなる心持で月への昇天を決意するに至ったのか。読書に耽るアガーテに、時たまブフナーは問いかけた。自身の幼名がこの女性と同じだっただけに、アガーテもまた微かにシンパシーを覚えていたのかもしれない。


 赫映はきっと月のやんごとなき姫君。戻らざれば天上は暴動必死、誰もが赫映を羨んでいる。赫映は神であり、天人であり、天使である。ゆえに、神ならざる者(デミウルゴス)が作りし物的世界に留まっているわけにはいかない。愛別離苦、六算と三欲の渦巻く爛れた宇宙に、高貴なる姫君がいてはいけないのだ。


 ブフナーは穢れ多き地上に、戯れから興味を抱いた事こそが赫映の罪であると説いた。


「しかし男からすれば酷い女です。弄ぶだけ弄んで、飽きたらポイッ。最後は都合よく天使だった頃の記憶を引っ張り出して、見ようによっては食い逃げです。何しに来たのでしょうね、この女は……ああ、故郷から叩き落されたのでしたっけ」


 身も蓋もないブフナーの言いように、アガーテはくすくす笑った。


 無意識のうちに異性を、他者を誑かす悪女。アガーテもそう赫映を解釈していた。無邪気がゆえの悪役ヴィランであり、憐れな老夫婦や弄ばれた男たちは道化ピエロ。この物語そのものが意地の悪い皮肉なのだ。


 赫映に定められた赦しとは、地上に抱いた興味と慕情を撤回する事。いかに地上が憎悪と血膿、ケガレに満ちた辺獄リンボだと認める事だった。ブフナーの言の通り読み返すと、なるほど確かに赫映は難題を出した後で何度も彼らの行いと、そして自身の行為を悔やんでいる。懺海している。人の身に産まれた自身に刻まれたカルマに懊悩している。


 危険と死を強いた己、己を求めた彼。無間地獄の如き連綿と続く喜怒哀楽の応酬に、ついに赫映は嫌気がさすわけである。ここは辺獄、何処へ行けども救いはなし。願わくば我を再び天上楽土へと――――




 記号化された悪役ヴィランである、と一笑に伏していたはずの赫映が、よもや今の自分の感情に湧きあがるとは、思ってもみなかった。


 わたし(アガーテ)は矛盾している。


 どうしようもない二律背反、斯く在らんがために、斯く在るベしと仮面を被っている。


 虚言を虚言で覆い、それを『そうせざるを得ない』などという詭弁でごてごてと覆い尽くしている。糞に糞を塗り固め、異臭に鼻をつまみながらそれを是とする恐るべき痴愚。


 善くありたい、正義でありたい、私は私に自由でありたい。そう願っていながら、アガーテは誰よりも他者に束縛されていた。否、鎖を編んでアガーテを縛ったのは他社ではない。手を、脚を使い物にならなくしたのは、他者の映った手鏡に見入るアガーテ本人なのだから。


 矮小な少年の為に施しを与える行為。


 何て尊いんだ、称賛に値する。きっとブフナー卿も褒めてくださるに違いない。


 矮小な少年の為に、彼の仇に憤る。


 何て義に厚いんだ、称賛に値する。きっとブフナー卿も褒めてくださるに違いない。


 矮小な少年の為に、自分のできる事をなんでもする。


 何て情に溢れているんだ、称賛に値する。きっとブフナー卿も褒めてくださるに違いない。


 頭蓋の内側に反響するのは、そんな独り善がり甚だしい醜悪な自愛の呟きだった。耳をふさいでも、枕に顔をうずめても止む事はなく、汚濁に包まれた充足感情が骨身に徐々に沈み込んでいく。


「そうせざるを得ないから」


 それは全ての免罪符。正義の味方は正義の為に戦うのが道理であり、機械的な行動は人々の正義の規範と自動的になり得る。普遍的な格律を築き上げる為、アガーテは一日一善模範的な人道的行動を心掛けてがんばっています。


 だからブフナー卿も褒めてくださるに違いない。


「なんて莫迦バカな事をッ!!」


 震える両の手で髪の毛を一心不乱に掻き毟り、ベッドシーツに向かって絶叫した。


「きっと彼もわかっていたぞ、私の本音を!! いいや、絶対に見透かしていた!! 分からないはずがない!!」


 アガーテの行動原理は良心の為。


 アガーテの行動原理は道徳の為。


 アガーテの行動原理は徳性の為。


 アガーテの行動原理は、より良い女性になる為に必要な理性の為。


 アガーテは善い奥さんになる為に頑張っています。


「黙れ、煩いぞ、口を塞げ! 私が私にかかずらうな!! そとづら風情がでしゃばるな!!」


 アガーテの欲しいものはブフナー卿の欲しいもの。ブフナー卿の奥さんになりたいアガーテがブフナー卿の欲しいものの為に戦うのは道理。


 渇望を追い求め、他のあらゆる一切合財を道具に貶めるのは顛生具現使い――――否、人間の性。ゆえに、私の矛盾は不完全な人間という特性によって正当性が担保される。私は間違っていないしブフナー卿の奥さんとしては至極真っ当な存在である。何せ私は正当だし、矛盾があったところでそれは特段可笑しいわけでもないのだから。


――――ハインリッヒに向けての行動は、正義の味方としては何も間違っていないでしょう? あまり根を詰めると、ベルンハルデやエミリアに寝首をかかれてしまう、そっちの方がはるかに問題だ。私はこんな所で死ぬわけにはいかない、連中を皆殺しにしてブフナー卿の望む天国アガルタを開闢しなければならないのだから。


――――現世ここはこんなにもケガレで満ち満ちているからなあ?


「誰が口をきいていいと言った! やめろ……やめろ! 私は、そんなつもりで彼に関わったわけじゃない!」


――――貴女おまえは最後まで彼の家族を人形としか呼ばなかった。それが確たる証拠だろうがよ? 善い善い、善いよ。お前はどこまでも善人だ。心底から愛する者だけはまったくもってぶれておらんからな。


 ずきりと胸中に漆黒の覗く亀裂が走ったような気がした。クレヴァスの奥からは、爛々と輝く一対の瞳が輝いていた。亀裂が徐々に広がるにつれ、瞳をぎらつかせるその風貌が明らかになっていく。


 アガーテを苛むアガーテ自身は、ここに彼女の眼前に顕現を果たす。アガーテそのままの姿ではなく、彼女の受け入れたヴォーパル鋼の宝剣によって作り出された神霊の現身として現界した。


 知らぬうちに私室の化粧台の前に佇んでいたのは、一人の小柄な猿人の少女。顔立ちはアガーテよりもずっと幼く、目鼻も扁平で起伏がなかった。ただ、大きな一対の黒々した両の眼は、アガーテの意識を際限なく呑みこんでいく底無しのクレヴァスに等しい。


「こうしてまみえるのは初めてだな、主殿(マスター)?」


 列島皇国ヤーパンの民族衣装である数枚重ねの煌びやかな女性装束を着込み、まるでそこに誂えられた彫刻じみた重圧すら感じさせる。そもそも動き回る事を想定していないのであろう、鎮座という表現がこれほど合致するケースをアガーテは知らない。横座りになる事で伸びた足は白樺の枝の如く細く、手厚く十二単に包まれた彼女の華奢さがより強調して見えた。


 漆黒の頭髪は横顔と耳を常に覆い隠す艶めいた短めの尼削ぎ。俗に御河童おかっぱと呼ばれるふうわりしたその髪型は、アガーテの懊悩をせせら嗤う少女の異常さをより深める一助となっていた。


「私がそとづらとは、つれない事を言わんでおくれよ。顛現の法を用いる者にとって、相の顕現は喜ばしい事ではないのかね? 鼻つまみ者を自分の中で作りだして、後ろめたさをぜえんぶまとめて架空の共犯者におっかぶせる。顛現術士の特権であり、最低条件だろうがよ。そう嫌ってくれるな」


「あなたと話す事なんて無い、私の失態は私だけのもの。助けが欲しいだなんて言ってないし、景気付けに喧嘩を売って欲しいとも頼んでいない」


「私としては喧嘩を買って、全部憂さを晴らしてもらわんと困るのさ。マスターのコンディションが不調では勝てる戦も勝てなくなる。私もそれじゃあ困る。五つ分ハシラを用意せにゃあならんのだろ? ならウダウダ悩んでねえで、私におっかぶせなよ。そうしなきゃあ強くなれねえんだろ、あんたらの顛生具現は」


「たかが道具がごちゃごちゃ世迷よまいを並べるな!」


「世迷じゃあないさ。私は誰よりお前の事を考えてる。誰よりも優しくって強欲なお前を、私は世の中で一番愛してる。何たって私は、お前なんだからなあ」


「何を……莫迦な」


アガーテって奴は、どうしてそうやって頭がカチンコチンなんだ? そんなんで生きてて楽しいわけがなかろうよ。それも升天教の教育の賜物ってか? とんだ愚策だ、これだから大陸人のやる事は度し難い。そうは思わんかね? 謙虚であれ、清貧であれ……何だそれは、頭が痛い、理解できん、気色が悪いな。覇を謳って何が悪い、富を願って何が悪い? 升天教のみならず、人の世論とやらは強くあろうとする事を邪と断ずる邪教よ。出る杭を数えきれんほどの槌で殴り倒し叩き折る弱者の法理よ。ああ嘆かわしい、情けない。そんな寄生虫の如き精神が、あろう事かこのアガーテの心根にもわずかに息づいてしまっているとは何たる不覚か。おおアガーテ、深層心理(ここ)は最近どうにも居心地が悪いぞ。強くあれ、黎明に足を踏み出せ。善性と欲の両方を取れよ、アガーテ。その為の私であり、顛生具現であろうが?」


 今のアガーテに、その笑みほど忌まわしく思えるものはなかった。こんな邪悪さが、こんな身勝手さが、こんな反社会的極まりないものが、私の胸に埋まっているだなんて!


「ちょいとばかり――――背中を押してやろうじゃあないか。なあ、伊庭赫映いばかぐや。私の愛しの主殿マスター……?」

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