厭世
日用品の買い物を終えたハインリッヒと合流し、アガーテは表情を繕いながら帰路を歩み始めた。未だ空は鼠色の曇天に覆われており、陽が西に傾く時刻とは一見してわからない。食料品の詰まった買い物袋の束を背の鞍に括り付け、今度は行きとは異なる街路を使って自宅へと向かう。ハインリッヒの私物も持とうと提案したが、彼は控え目に申し出を断った。
駅前通りより西にはずれたデパートからのんびり北上しつつ、人混みを避けながらホリゾントを東西に横断するクラーニヒ川へとさしかかる。赤レンガのアーチ橋近くには菓子や木の知育玩具を取り扱った露店がぽつぽつ並んでおり、子連れの観光客が愛息の駄々に四苦八苦している様がちらほら見受けられた。
茶請けに丁度よかろうと、アガーテは適当に吟味したうえで一二個入りのマジパンと、それに加えてアップル・クリームを挟んだウエハース菓子を購入した。ハインリッヒは終始遠慮がちにもじもじしていたが、半ば強引に口にウエハースを咥えさせると、小胆な小動物のごとく大人しく硬めの生地をかじかじ咀嚼し始めた。栗鼠や野兎のような大きな眼が余計にそう印象付け、余計にこちらの庇護欲をこちょこちょくすぐってくる。
橋の中腹に差し掛かれば、東側の欄干からホリゾントの両岸を左右に東アルプス連峰の末が聳えている様を拝む事ができるはずなのだが、この天候では山頂どころか隣町の聖堂の尖塔すら白んでいる始末。せっかく人々が体面とはいえ天上に昇った救世主を思って大地を賑やかしているのだから、天にまします我らの主は少しくらい晴天を長引かせてはくれないものだろうか。
アガーテが軽く嘆息すると、ハインリッヒは口元に生地のひとかけらをくっつけて言った。
「あのずっと東に、ベルヒテスガーデンがあるんですよね」
「そうですね、よくご存知」
「ブフナーさんから聞きました。昨日の白の大隊が滞在している場所だって」
元を辿れば、旧帝国の貴族筋が所有していた山岳の保養地。砂糖細工のようにまばゆく雪化粧の施された蒼い連峰が巨大な雲海をたずさえながら聳えて並び、豊かな山林と湖の携える魅力はまさしく風光明媚。ヘルヴェチアにほど近い、谷間に位置する都市である。東西戦争を経てからは皇族、貴族所有の山荘や施設が売り払われ、現在においては高価格帯のリゾート地として、ヘルヴェチアのお株を奪わんばかりの需要を誇る地域となっている。
日中であっても陽の射さぬような森林地帯と並ぶ帝国民族の原風景と形容しても過言ではなく、ヘルヴェチア人を除けば現に外国人観光客よりも国内からの保養を目的とした顧客が大部分を占めている。
ゆえに、かつてのFCAがここを手中に収めない理由はどこにも無かった。
首魁ヘレネ・ヴィッテルスバッハや側近であるエリーゼ・ガーデルマンは、大地に雄々しく横たわる山紫水明なる景色をいたく気に入り、国内に滞在する際には頻繁にベルヒテスガーデンに立ち寄っていたと言われている。美を愛し、豊かな緑と湖水の風致に包まれて眠る事を好んだヘレネの実の子とされるチタニア・ヴィッテルスバッハがベルヒテスガーデンに手勢を置くのは、ごく自然な事であると言えた。それが単なる過去への憧憬からくる行動なのか、それとも竜と盃を交わした軍勢たる自分たちの覇を帝国に再び知らしめる為の嚆矢のつもりなのか、まだアガーテには判別しかねた。そもチタニア・ヴィッテルスバッハなる人物については、騎士団の古参であるブフナーに育てられたアガーテと言えど、為人を推し量れるほどの情報は与えられてはいなかった。
しかし、先日相対した四人――――無数の山脈竜と飛竜を率い、伝承にも名を残す高等竜である古竜と白竜を父に持つ勇者の直系――――から察するに、後天的に聖剣の鞘となった自分たちとは比較にならぬ威光の持ち主である事は間違いない。例え表舞台でその名が席巻されてなかろうとも、彼女の持つ権威は今や聖人ヘレネに勝るとも劣らぬと断じて良い。類まれなるカリスマで民からの支持を抱き込んだヘレネに対し、チタニアは飛竜の牙城の総首領として、畏怖にベクトルを傾けた強固な存在として君臨している。
血気盛んなエミリアやベルンハルデが儀式の開始後、真っ先にハインリッヒを始末しなかったのは、儀そのものの神秘性に少なからず圧倒されていたから。それに加えて、あの四姉妹から放たれる尋常ではない魔力密度から推測できる、白の大隊そのものの規模を警戒したからに他ならないだろう。
双子のベリンダとウンブリエル。ヘルヴェチアの重鎮であるリヒャルトを父に持つこの両名が、戯れ半分とはいえ父の考案した儀式を凄惨かつ無粋に血塗られる事など捨て置けるはずがない。
醜く内輪揉めを見せつけるくらいなら、この場で十三人全員飛竜の餌にしてやろう。長女ベリンダの嚇しと三女ミランダの直接的接触によって、幸か不幸かハインリッヒをこの手で保護する事ができたのではあるが、現状は芳しくない。しかしカールの登場で刃を納め、夜明け前には飛竜をベルヒテスガーデンに退げた事を鑑みるに、人形の損失については了承した、すなわち騎士団の同胞を贄とする事に関しては半ば黙認の形で静観の構えを取ったと解釈できる。
今度はこちらが喰らい合いから降りる事のないように監視を始めたのだ。儀式がこのような不用意な集団の手によって始まってしまったのならば仕方あるまい。なればこそ、中断するなどもっての外。ゆえに、贄を出すなら疾くすべし。
あの晩ヘンリエッタが口にした『裁判官』とは、こういう事だったのだ。十三騎士団の思想と行為に裁定を行い、然るべき反応がなければ即座に死罪を申し付ける。
どうあっても雑種の血で父の戯れが穢されるのであれば、それはそれで結構。やれるところまでやって見せるがいい、生命にさして頓着しないメクラの莫迦ガキがどう躍るか愉しみだ。矛盾を矛盾としない享楽主義的思想が、彼女たちから透けて見えた。無論リヒャルトへの敬意はまごう事なき真実だろうが、この場合軽視されているのは言うまでもなく十三騎士団である。王が奴隷を見下す際のそれと比べて、数千倍の距離があろう認識の差異。家畜として見られているのなら御の字、命ある生物と認められているかどうか怪しい。白の大隊にとっては、白の大隊こそが基本にして総なのである。
「我々がまともにぶつかり合って、敵う相手ではありません」
「皆さんは」
ハインリッヒは奥歯を噛み噛み、伏し目がちに言った。
「どうして、そこまでして儀式を成功させたいんですか。儀式をうまく終わらせて、それで何になると言うんです」
「自分の命を賭け金にしてでも、叶えたい願い事があるから……でしょうか」
「それって、例えば?」
その問いはすなわち、アガーテの掲げた願いとは何か、と同義だった。
「何が自分の命と吊り合うか……か」
「死んだら、おしまいじゃないですか。もう何も喋れないし、何も食べられない。きっと暑くもなければ寒くもない、きっと耳も目も鼻も塞がったままで……」
「升天教では、死後はそんなふうに教わるんですか?」
「違いますけど、きっと死んでから雲の上でストリッパーのダンスやビールが振る舞われるなんて事はきっとないって思うだけです。だって実際、そうだったじゃないですか」
ハインリッヒは一際もの悲しげな表情を浮かべて、捻りだすようにして呻いた。
「この川はビールじゃないし、アガーテさんはストリッパーじゃない」
「あなたは死んでなんかない」
「死んでるようなものじゃないですか」
石畳を這うような呻きがハインリッヒの喉を震わせるのと同時に、彼は石の欄干を拳で殴打した。欄干を構成していたブロックは砂糖細工のように粉砕され、散らばった欠片は穏やかに波音を立てるクラーニヒ川の水面に吸い込まれていった。
「僕、いったい何やってんでしょうね。体に変な金属入れられたと思ったら、ご覧の通り古典のスーパーヒーローですよ。夢みたいですよね、きっと死んでるんですよ、これ」
あの時、彼と暮らしていた人形のうち一人に胸部を弾丸で撃ちぬかれ、自分は既に死んでいる。ハインリッヒはそう語った。
「それとも今こうしているのが現実なんでしょうか? 自分の家族はみんな流れ作業の工場で作られたどこかの特産品で、皮の下には内臓や骨の代わりに腕時計のフレームや螺子や歯車か何かがぎっしり詰められていて、僕は可哀想に歯車の具合の悪くなったその女の子の銃で撃たれて、目が覚めたらこれですよ。すごい現実だ、まるで夢みたいだ。生まれ変わったって言ってもいい、いいやきっと夢なんだ。そう思って、僕はその夢の中で新しい学校に通う事になって、それから二週間経って……まだ、まだ覚めないんです。まだ現実に帰れないんですよ」
それが自嘲だとひしひし伝わってくるような吐露だった。無理に口端を吊り上げて、ひくひく震えているようだった。
「これは夢であって現実じゃない、だから現に存在してる僕には関係の無い、銀幕の内側で行われている映像に過ぎないんだって、ずっとそう思い込もうとしてた。でも、殴られたら痛いし刺されればもっと痛い、僕はそこに居ないはずなのに涙が出るほど痛い事ばかり起こるんです」
怖い、いなくなりたい、こんな自分は厭で厭で仕方がない。こんな状況は理不尽だ、もう辞めてしまいたい。こんな夢が現実であっていいはずがない。
消えてしまいたい。現実であろうが夢であろうが真っ平御免だ。僕を僕たらしめる存在は、辛い事にかかずらうのはもうごめんだと云っている。僕は僕でない、別の何かになってしまえればどれほど良いか。それこそが、現実でなければならないのだろうが?
矢も楯もたまらず、アガーテは馬体を屈みこませてハインリッヒを抱擁した。
「居なくなりたい人間なんてどこにもいません。落ち着いて、息を吸って、吐いてみて」
ごく自然に、幼児に語りかけるようにアガーテはハインリッヒを宥めた。後頭部のやや下を撫ぜ、耳元で声をかけた。
「肺がふわっと膨らんで、感じるでしょう? ほら、よしよし」
わずかにじたばた抵抗をしたものの、アガーテに害意がないのを汲んだのか、やがてハインリッヒはその華奢な身体をアガーテのふっくらした胸に抱かれる事を許した。
「厭なんです、辛いのも怖いのも痛いのも、寂しいのも厭です」
痛みや哀しみを好む人間などそうは居るまい、事実そうした感情と無縁になる事を望んだ連中こそが十三騎士団の魔人である。誰もが己の現実を憎み、誰もが夢を是とする集団なのだ。
新世界の扉を拓く、などという抽象的な表現を用いた言い回しを用いるのも、悲願達成の神秘性を装飾する為の表現に過ぎない――――アガーテはそう思っていた。一部で流行する厭世の念に、聖性という正当性を付与したいが為にこじつけられたものであろう。
「私も厭ですよ。白の大隊も怖いですし、ディートリヒもベルンハルデもエミリアも怖い。ブフナー卿から離れるのも寂しくて嫌です」
「何度も何度も死にたくなりました」
「死にたくなる人は、往々にして死にたくないものなんです。ほら、もう死ぬ『しか』ない……っていうのは、裏を返せば本当は生きたいって事じゃあないですか。少なくとも『死にたくない』わけじゃあないですか」
「そんなの詭弁です」.
「詭弁なんかじゃあありません。だって、あなたを死ぬしかない状況にまで追いかけていい人なんてどこにもいないんですから。知った事か、道を退けって。そう言ってやればいいんです」
そうせざるを得ない――――アガーテの行動原理は、そこに帰結する。
打ちひしがれ、痩せ細って泣きじゃくるハインリッヒを初めて目にしたあの時、アガーテは決意した。弱きを助け強きを挫く、そんな陳腐とも稚拙とも言える貴族的精神を目指す一人として、この少年を、この世のあらゆる残酷さから守護せんと堅く誓ったのである。
この儀式が――――この人災が終わったら、彼はいったいどうするのだろう? 家族を喪った彼の心を、仮初でもいい、埋め合わせるにはどうすればいいのだろうか。
「あなたは死なせない。あなたは贄にはなりませんよ。あなたが生きたいのであれば、私は全力でそれを応援したいと思っています。あなたのしたい事、なんでもお手伝いします」
共和国には、小さいが別荘がある。
数年前、ブリタニア国務省の定めた国際指名手配犯の身柄を確保《殺害》した際に手にした懸賞金で購入した物件で、余った金は受け取りの際に使った偽口座にそのままそっくりしまいこんであった。
それを彼に譲り渡そうと思っていた。否、アガーテの信念からすれば、譲り渡さざるをえないのであった。アガーテからすれば口座の金ははした金程度の額であったし、別荘にしても散財趣味のない彼女にはあまり必要のない代物である。ほんとうに住処を必要としている人間に住んでもらえるのであれば、それに越した事はない。
「あなたが生きたいと思うのを邪魔していい権利を持っている人なんていません。もしそんな人が目の前にいたら、迷う事はありません。ぶっとばしてしまいましょう」
胸に抱かれたままのハインリッヒは「くしゅん」と鼻を啜り、虫の音ほどの嗚咽を隠しきれずこぼした。アガーテは彼の滑らかな、思春期の少年にしては長めの黒髪を手櫛で梳かし、努めて柔らかく笑いかけた。