表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
決別の兆
65/105

嫉妬

Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.

君の格律がいつ、何時なんどきにおいても普遍的な徳性の原理として妥当しうるよう行動せよ。


Immanuel Kant


 白い建材で精緻に組み上げられた内装は、経年によっていくらか表面がくすんでいた。とは言え床の隅に埃が溜まっているわけでもなく、むしろ長年に渡って人の出入りを受け入れてきた素朴さというべき雰囲気があった。


 築四十年以上を数えるこのデパートメントストアは、ホリゾントきっての老舗。開店当初の高級志向から大衆向けへと徐々に変遷していき、それに伴い店内の客層もまたぐるりと入れ替わる。アークソードと並んで街のシンボルとも言える学園キャンパスの開発、そして拡張。これに比例して、萌芽の如く姿を見せる学生寮と安アパートには揃いも揃って金のない貧乏学生が蜂の巣の如く潜り込む。日がな一日腹を減らして街をぶらぶら徘徊する彼らが、新たな金づるにならないわけがない。物質主義全盛、大量生産万歳のこの西側の時勢において、顧客一人当たりの単価でなく頭数を増やそうというヘルヴェチア人オーナーの目論見が見事に的中。


 チリも積もれば何とやら、大胆にも成金や親の小金を携えた大学生を駅前の洒落た新興店にくれてやり、客層から外すというこの策は大当たり。独り暮らしのボンクラ学生や中流家庭御用達の店として、そして開発中期の趣を抱くランドマークとして、ホリゾントという街にしっくり溶け込んでいた。


 そんな背景を持つ店だけに、連れのハインがここを選んだのはいわば必然だったのだろうか。趣味に合わないショッピングに付き合わせてしまったのではなかろうか。いかにあの容姿、少女を思わせるソプラノとて、内面は十五の男子である。年上におせっかいを押し付けられる事ほど鬱陶しいものはないだろう。


 そう思案したアガーテは、買い物が済むまでエレベーターホールで待つ事にした。ホールの端で、サンセべリアの鉢と並んで設置されていた自販機より買い求めた瓶コーラ片手に、一日の出来事をのんびり反芻する。半人(ケンタウリ)用に誂えられた背の低いマット付椅子に腰かけ、彼女はぐっとコーラをあおった。


「合衆国の飲み物でしょう、それ」


 床のタイル数枚分の距離を開けて備え付けられた猿人向けの椅子から、訝しげな声がした。


「連中あまりに新天地が何もないから、石油までそのままそうやって加工せず飲むようになったらしいですわ。お味はいかがですか? 美味しい?」


「ええ、わりと」


 文庫本の頁から目を動かさずして、才女ベルンハルデは気安くアガーテに話しかけた。


 丁寧に梳き流された艶やかなブルネットは深紅のリボンでハーフアップに纏め上げられ、前髪はカジュアルに、簡易にピンで留められたワンレングス。パフスリーブの純白のブラウスに袖を通し、黒のストッキングに包まれた両の脚をきちんと揃え、切れ長の大きな目で活字を追う様は、逼迫する家計に喘ぐ哀れな学生や独り身連中が本来ひしめくこの場に相応しくない高嶺の女精ニンフであった。


「ずいぶん(フュンフ)には懐かれているみたいで羨ましい限り。どうでしょう、貴女から見て彼は?」


「普通の男の子。それ以外に、貴方こそ何か思うところでもおありで?」


「特に何も? このまま何事もなく儀式の遂行に一役買ってもらえればそれで十分。フルークとその取り巻きの人形ども居場所まで私達を導いてくれれば、それだけで構わない。その為に貴重な聖剣を使ったのですから」


「命を救ってやった恩義のぶんだけは働いて返せと」


「貴女も同意見ではなくて? 顛生具現……顛現術に適正があるという事は、同時に巨大な渇望を元とする精神世界が広がっているのと同義。並のちんぴらやガキ大将じゃ、ヴォーパル鋼に骨身も臓物もシチューみたいに蕩かされておしまい――――混ざりものだらけのヘロインなんかよりずっと良い心地らしいです、それがずっとずっと続く。身体が腐って床や壁のシミになるまで――――彼は違った。聖剣の祝福、燭台メノラーの儀を終えて覚醒した彼は、もうそれなりに出来あがっている。ああ、素晴らしいですわ。さすが元(フュンフ)とクレヴィングお墨付きの人材という事かしら? 既に正規の面子として相応しい力を駆る才をお持ちのようで」


「片脚飛ばされた事を、まだ根に持っておいでですか」


「とんでもない、そこまで私は狭量ではありません」


 くっと片脚を持ち上げ、ぶらぶらと振ってみせる。


「心配なのは、その力を正確に行使してくれるかどうかだけ。儀の完遂、ハシラの神の調伏に協力してくれれば、私に異論は何もない」


「では、いったい何が気に入らないというのです」


「彼が本当に何の混じりけもない、ただのお勉強だけは得意な痩せっぽちの男の子ならば、余計な心配をしなくても済むのに。顛生具現の使い手として覚醒した。それだけで、十二分に彼の思考を疑うに足りる。まともな堅気が聖剣に気に入られる筈なんてないんだから」


「憶測でひとりの少年を型に嵌めて貶める事ができるほど、私たちは高尚な存在ではありません」


「まるで自分だけは蚊帳の外にいる他人かのような物言いをする」


 鼻を鳴らして厭味たらしく嗤い、ベルンハルデはアネモネの栞を頁の間に挟み込み、


「御託を並べたところで、貴女も必要に迫られれば同胞だって手にかけられる人種でしょう? 別に私はそれを非難するつもりはないし、むしろ騎士団に在籍している以上はそうでなければ困ってしまう。お兄様や、そうですね。ブフナー卿も同じ意見のはずですが」


 そこで初めて瞳がアガーテの顔を認めた。


「こうやってぶらついていられるのも、案外とお互いに運が強いだけなのかもしれないなあ。焦れた白の大隊(ヴァイス・バタリオン)の連中が痺れを切らして都市区画ごと消し炭にしかねないこの状況で、まさかまだハシラの代替になりうる人形があれば、だなんて思っているのではなくて?」


「そう願う事のどこに問題がありますか。メンバー同士の衝突を忌避するのが臆病とでも仰りたいので? 死に急ぐつもりはありませんよ」


「貴女がやけに逢って間もない子に入れ込むものだから、心配になってしまっただけですわ。しかし自宅に招き入れて泊めてあげるだなんて、ブフナー卿が居ながらなかなか大胆な事をするものですね」


 大して年も変わらないだろうに、自身も騎士団においては新参のベルンハルデは、彼女なりにハインリッヒに向けて拙い対抗意識じみたものを燻らせているようだった。

 一目でそれと判断できる表情は億尾にも出さず、ただ会話の端々に不愉快さを煙のようにまとわりつかせていた。


「それで、本題は何です。手短にお願いいたします」


 これ以上いけ好かないブラコン女の戯言に付き合っていても、心にくすんだ灰汁と群青色のヘドロが沈殿するだけで得はない。こういう手合いはいくら恨み節を吐きださせても周囲の空気を汚染するだけで何の旨味もない。開口一番皮肉ったらしい批評、二言目にはお兄様、である。これでよく学園の才女という座に君臨していられるものだと、アガーテは辟易した。苛立ちだけが募っていく。


自粛も自制もなくお兄様お兄様、口にするたび情念というものは陳腐になっていく事に気づかないわけだ。飽きもせず、ああそうよ、きっとこの女は愛される自分を自覚した上でも悦に入っている。雄性にこうべを撫ぜられる女の権利を誇っているのだ。雌性である事の勲章を見せつけている。


ああ、さぞ幸せであろうよ、手近に愛する者がいて、そして何の憚りも感じる事もなく内に秘める恋慕を褥で囁く事ができる環境にあるというのは。


大らかで、開放的で、羞恥という貞操帯を放り出し、斯くあるべしというシンボルから脱却した新たな女性性。性の平等を、そして社会的階級の撤廃を経験した戦後大陸文化における、自由恋愛を是としたごく一般的なポストモダン・フェミニズムの申し子たち。ああ嫌だ、厭になる。


「アンデルセンがフルークの縁者――――眷属の反応を広域霊視で察知しました。恐らくは、連れ去った人形のうち一体かと」


「フルーク本人である可能性は?」


「お兄様が言うには、限りなく低いとの事です。しかし不確定要素はできる限り排除されたいとの意向で、儀の遂行は(フュンフ)立会いのもとで執り行うのが好ましいと。まあ、現状その為に彼がいるようなものですし、ね?」


ベルンハルデは他人事のように言い放った。


「彼に熱を入れているのは貴女だけではなく、ハルトマン中尉もどうやら同様のようですよ」


「それが、何か?」


人形アダムカドモンは、その身に抱く『知恵の実の智慧』を顛現術で砕かれる事によってハシラの神を現界させる。しかし、逆も然り。顛現術を使わずに、ただ普通に破壊したのならば話は別。安くない資金と人材を投じたものは、お高い粗大ごみと化す」


 ちょうど胸の中心部、心臓の辺りを中指で撫ぜ、ベルンハルデは言った。


「何も、そう、彼が何も吹き込まれていなければいいですね。できれば、みんなでアガルタに昇りたいですわよね、アガーテさん? 誰も殺したり、殺されたりされる事なく……ねえ?」




 かつての家長中心、男根優位主義が東西戦争の終焉と各地における民族格差の是正と共に陰りを見せ、『魔物』なる差別用語とともに、既婚女性を指す『家内』という符牒は暗黙の了解の内にタブーとして仕舞い込まれた。アガーテもこの風潮を悪しきものとは思っておらず、むしろ帝政全盛期より半ば放置されていた参画問題の決着としても評価できる。進歩と言えよう。


 男尊女卑の風潮を払拭するのに一役買ったものに、FCAが提唱したノイエヘレニズムに内包されるパクス・ヘルヴェチカ思想がある。


 西部帝国部、並びに永世中立国ヘルヴェチアによる恒久平和を謳い、帝国に併合されていた多様な民族国家を新たな枠組みへと統合させ、相互に承認を経た加盟国間における人道に関する共通認識を育む事、すなわち新規により大規模な安全保障体制の構築を目的とした構想である。また西側諸国の結束を確認した上で『蛇狩り』の大部分を掌握する東側オリエンスに対する牽制、そして経済的有利を得るための試験的な共同体計画としての意味合いもあった。


 安保体制、経済体制と並び、各国の政治的機構、根本的な社会体制にも整備が行われた。拝火民族統一の英雄アミル・カルカヴァン、そしてFCAの首魁として君臨し、類を見ぬカリスマを背負い民衆の支持を集めたヘレネ・ヴィッテルスバッハ。この両名の女性の偉業が高らかに叫ばれる中で、参政権に対してメスが入れられないはずがない。東側から独立した国家も含め、西側安保理統合諸国には瞬く間に民主化のセンセイションが巻き起こった。


 統合諸国群共通の財である基本的人権の確立、形態別平等、生存権――――これまで王権神授の名目で玉座にあった皇族、そして榴弾と化学兵器で犯し尽くされた大陸の大地のごとく歪んだ社会順列に胡坐をかいていた貴族は改憲に際し、私財の大部分を公に明け渡さざるを余儀なくされた。


 一部FCAと懇ろになっていた為に資産の徴収を免れた家系の傍流を例外とすれば、事実上西側における貴族制は消滅したも同然であった。無論、現在でも帝国の名が残っている事から分かる通り、立憲君主制に留まった国家も少なくはない。あくまで前時代的な独裁制が排斥されただけにすぎず、政策の中心的立場にあったヘルヴェチア(エルフ)としても各国の皇帝派と改革派の両案を折衷した上でこれを認めていた。


 男も女も、老いも若きも、猿人も半人も、大陸人も拝火人も――――目下東西の対立は未だ継続してはいるものの、それでも鉄条網と塹壕を挟んで、血で血を洗う消耗戦を互いに繰り広げていた時代――――諸民族の恒久和平を願った聖ラウラ存命の時代――――からすれば、少なくとも大規模な戦争が勃発するような火薬庫は、減少の傾向を見せていた。


 世界的な運命共同体の上、相互に平等を享受して愛を確かめ合う事の出来る世界の第一歩。


 だが、果たして解放がもたらすものは甘露なる恩恵だけだろうか。


 多様性と差異あってこその人間であり生物である。半人猿人と一言に纏めたところで、根本的な衣食住は異なってくる。脚の数だけで建築基準や医療制度も万別であり、それこそ雌雄ほどに差が存在する民族も当然ながらいる。そして、人々がその身に秘める思想もまた、平らに均すには骨が折れる代物であろう。


 人間には、本分というものがある。先人が示してきた人道、徳、善性。それらから逸脱しないよう節制していく修身の意。特にアガーテは、人だけが享受出来うる自由の要請――――外圧に向けた手段に縋る欲求からの解放――――によって培われる良心こそが、善性を育むのであると信じていた。


 曰く、心の内より湧き出ずる意志の格律の普遍化。


 曰く、学問に依らぬ徳育の普及。


 共和国ガリアにおいて市民階級シトワイヤンが帝政を倒し革命を成し遂げたのは、人道と倫理を欠いた国政への憎悪による。民草の生命を共有の財として見なさず、無為に脅かし消費するような体制が、この地上で永く続いた試しはない。先の帝国がオリエンスに敗れ東西に分かたれた事からも、火を見るより明らかであろう。


 今後も救世主たらん事を《Noblesse oblige》――――貴き身に産まれし者は、拝命した位に見合った社会的責任と義務を負わねばならず、またはそう振る舞わねばならない。升天教と合わせて大陸文化圏に広く知られる騎士道の概念である。


 だが、この高潔な理念はどれだけ現実に遵守されたのだろう。貴族社会を維持する為に標榜され、現に帝国では大陸のシロアリとも揶揄された国教騎士団が身に余りすぎる権力を笠に国内を跋扈していた。


 矜持では腹は膨れない。これが諦観の源泉足り得る失望である。万人にとって普遍的な善事とは欲求の対極の結果しかもたらされず、そして貴族同士の強制力だけがそこに残る。幸徳は常に表裏一体であり、物質的に顕現する事はもちろん無く、成立する事すら稀と言えよう。


 ゆえに人は物的欲求に墜落する。目標として掲げるべき徳性に敷居を設け、私腹をどう肥し刹那的快楽に浸るかを追求し始める。平坦となった国土の上で相互に権利を掲げ、資本という盛り土で新たな格差が生まれ始める。何も、足元に敷く材料はそれだけではない。均された階級をどう盛ってやろうか、いかにして他者よりも高く昇ってやろうか、人々は思案するようになる。神殺しを果たした地上には、個我と他我が作り上げた圧力――――虚像の新たな神もどきが君臨したのだった。


 そんなの――――


 ベルンハルデ・ヘンシェルと対面して感じたのは、まさしく虚像の法理を甘んじて受け入れ、うず高くなった盛り土の上で王族を気取っている、極度に独り善がりな陶酔。


 ――――気持ちが悪い。苛々する。嫌いだ、この娘。


 色街の看板やポン引きが都市の目立つ繁華街から消えたと思えば、検閲がなされたのかどうかも疑わしい淫猥な図画が掲載された雑誌が軒先に並び始める。ブリタニアや合衆国からの輸入品だといい、中には女児と性交渉を行う様を描いたポルノ図画が蔓延する。隠されていたはずの情欲が現実を侵犯し、雄性の劣情を煽る文句が視覚、聴覚問わずして拡大していく。性欲のみならず射幸欲、名誉欲――――盛り土の材料が、どこからともなく土砂の如く運ばれてくる。盛り土を得るために、人々は文字通り身を削る。肉であったり、骨であったり、皮であったり。それは時間であったり、均されたはずの権利であったり――――操であったりした。


 どうして、そんな真似ができるの?


 神が死んだとて、何が変わったわけでもない。男は依然として女を求め、女は依然として男を求める。子を生す目的ではなく、盛り土の為にである。糞も同然の不衛生な汚泥で体中をどろどろにして、なおも行為に耽るのだ。


 俺の女を見ろよ。この胸見ろよ、俺が育ててやったのさ。この尻を見ろよ、きっと後ろからやる為だけにこんなデカく膨れたんだぜ。このツラ見ろよ、女優のあれに似てんだろ。誰かって? 覚えてねえや。でもよ、羨ましいだろ。俺の嫁だぜ。俺の言う事何でも聞くんだ。この前だって奥歯一本で素直にガキ堕ろしに行ったしよ。


 見てよ、私の捕まえた男。恰好良いでしょう? 私が景気づけてやったのよ。彼って素敵じゃない? ダヴィデ像だって彼には敵わないわ、彼ってばいつも本当に私の事だけを想ってくれるの。それにね、そこらの小金持ったちんぴらなんかよりずっとお金持ちなんだから。ヘルヴェチアの会社と取引してるんですって。どこかって? 知らないし興味ない。でも、羨ましいでしょう? ちょっと言いなりになってあげれば何でも買ってくれるのよ。


 ベルンハルデから感じたものは、それらの顕示欲と酷似していた。


 存在しないはずの神の法理を信じ込み、その中で閉じている。他の価値観の声など聴く耳持たぬ、秘めるべき獣の本能と理性からなる欲望の頓着を喪っている。ベルンハルデの放つ他者を隔絶するような鋼鉄のカーテンを思わせる雰囲気は、かつて理性と暴性の合致と揶揄された半人ケンタウリたる自分よりも人獣じみていた。


――――ベルはお兄様を信じておりますゆえ。お兄様がいかに高みへ昇られても、ベルはどこへなりともお供する所存ですわ。例えそこがアガルタであっても。


 おぞましい盲愛に、アガーテは身を掻き毟りたくなった。兄と称される男と手指を絡ませ、腰を愛撫させる。ディートリヒが下唇を指で制してもなお餌をねだる雌犬の如くまとわりつき、上気した頬でにんまりと微笑む。

いつ、どこで目にした光景かはもはや覚えていない。いつも二人は一緒にいるし、いつ見てもベルンハルデの行動は変わらない。兄を褒めそやし、兄を讃え、アガルタに想いを馳せる。


 そして、アガーテを盛り土の最上段から見下ろすのだ。


 何のつもりだ、何が言いたい? 私も貴女は嫌いだし、私のように感情が顔に出る女と一緒にいても面白くはなかろうに? なぜそんな目を向けるのか、私には理解に苦しむ。


 やめろ、見るな。私を誑かすんじゃあない。節操のない性倒錯者のくせに、どうして私を見下せる? 貴女に私がどう見えていると言うんだ、私が貴女より劣っているとでも? なぜ、なぜだ? どうして――――貴女はそれを見透かせるんだ?


 女である事に意味がある、女として徳を抱く事こそが修身と信じる私が、どうして貴女ごときに――――貴女ごときに嫉妬しているのか。


 肌を、髪束を掻き毟るほどに妬ましい。ベルンハルデが妬ましい。


 女である私が、なぜ人獣にこんなにも嫉みを募らせているんだ。道理が通らない。不条理だ。


 あんな、愛する男に欲望のまま愛されるあんな獣が、愛を愛で交わすだけの不毛な間柄が妬ましい。


 軽蔑という感情で、辛うじてアガーテは自尊を保っていた。ベルンハルデのまなこを覗き込むたび、また覗きこまれるたび、アガーテは彼女を取るに足らない雌犬であると見做していた。雌犬の嬌声に意味などないし、また耳をそばだてる価値もない。ゆえにそれは騒音と変わらぬ。


 軽蔑しなければ、私の方がイカれてしまう。認めたはずの自分の業を憎んでしまう。この身に産まれた事さえも恨んでしまう。どっちつかずの人獣に成り下がってしまう。


 嫉妬に狂う。報われないと癇癪を起す。徳などクソ喰らえ、愛を求めて駄々を捏ねるだろう。


 蔑みの意を纏ったアガーテの内面に渦巻くのは、平時の彼女からは似つかぬ愛憎――――自分を育てた一人の男への、決して報われぬであろう恋慕であった。


 アガーテと彼は、父娘と呼んでも差支えはない間柄にあった。年はいくつ離れているかわからない、生年月日も知らないし、聞いても教えてはくれない。ただ、好きな食べ物は知っている。よく聴く音楽も、贔屓にしているブティックのブランドも、最近手を出し始めたSF小説のシリーズも知っている。意図せず覚える事ができた。


 立ち戻る事を知らない、自由落下の如き恋であった。


 功利と利他、善性に基づく人であれと、アガーテは自身を型に嵌めてきた。徳福の狭間で常に研鑽を重ね、しかし彼女の気性は息苦しく感じる程に愚直であり、どうしても個人の幸福を軽視するきらいがあった。アガーテは恋を知らぬ、自身の嵌った鋳型を焦がすどころか灼き融かすほどに燃え盛る思慕の正体を、ミームの羅列である不毛な知識でしか知りえない。


 ゆえに彼女もまた盲目となる。獣性の底知れぬ熱に浮かされる。


 一本気に、鐘のように高鳴る臓腑の脈動さえ快感に感じるほど身体が火照り、少女のように純朴に男――――父なるもの、ヴァルター・ブフナーを敬っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ