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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
決別の兆
64/105

喧騒

「ただ今戻りましたよお」


 うだつの上がらない貧乏助教授、または平屋住まいの放蕩画家めいた声色を伴って玄関からのっそり現れたのは、やはり水素より軽くぷわぷわ浮遊しているような空気を纏ったヴァルター・ブフナーだった。


「お帰りなさい!」


 オクターブの上がったアガーテの鈴のような声に軽く会釈を返すと、ブフナーは続いて食卓のハインに目をやった。


「おはよう、ハインリッヒ君。アガーテの朝食に間に合うだなんて、よほど寮では規則正しく叩き込まれていると見えますね。それとも、枕が変わって眠れませんでしたか」


 金縁の丸眼鏡の下の両目を三日月のようににやつかせるその様は、初対面の時とさして変わらぬ一介の文官風。青みがかったワイシャツにベージュのスラックスと、どこを取っても特徴らしい特徴のない大卒の一般男性。小奇麗ながらもそこはかとなくズボラ。衣服はきちんとしているのに、なぜか何時まで経っても付き纏う垢抜けなさ。


同居人であるアガーテ以上に、人外の法理を以て異界に臨まんとする隠秘学結社の構成員には見えぬ風体であった。良家の淑女と、なんとなく大学を出てなんとなく受けてなんとなく受かった先の役所の窓口で品の無い阿呆から税金泥棒と罵られる田舎役人、というような組み合わせ。


 陰らしい陰もなく、絵図に描いたような娑婆の堅気を体現しており、また柔和さと報われなさをも併せ持っている。そんな二流公務員然としたブフナーを溌剌とした満面の笑みで迎えたアガーテはさながら愛娘か、はたまた新妻か。見ているこちらが赤面しそうなほど、アガーテの尻尾はビア樽のように巨大な彼女の臀部の上で、千切れんばかりに舞い踊っていた。


「ああ、アガーテ。そこまで気を回さなくて結構、支度は私がしますので」


 と、ブフナーは食卓で食器と珈琲を用意しようとするアガーテを制した。


「お客を放って、私なんぞにかかずらっているわけにはいかないでしょう。片付けも私がしますから、貴女はハインリッヒ君をおもてなしなさい」


 早朝の徘徊、もとい散歩とやらから帰宅したブフナーに食卓を譲ると、アガーテはハインをリビングの奥間へと誘った。若葉の萌える庭園を正面に備える大窓を正面に控え目な朝日が射し、緑の垣根を透かして室内を影が揺らした。


背の低い丸テーブルを挟んで互いに座布団をあて、更にまるいふかふかのクッションを肘置きにくつろぐようアガーテは促した。悪ふざけの末に膨れすぎた雪だるまの如く巨大なそれに尻をうずめたが最後、小柄なハインはずぶずぶ沈み込み、危うく手にしたカップを絨毯にぶちまけかけた。馬人に誂えられた雪だるまに、靴縫いの小鬼もいいところのハインがまっとうに受け入れられる是非などなく、あえなく資格なしとして生地の内へと埋没した。


 あらあらまあまあと慌てふためき泡を食うハインに手を差し伸べ、アガーテは見た目にそぐう馬力で危機一髪座布団へと立ち戻らせた。


 「歳の近い知り合いとこうしてお茶をするだなんて、初めてです」


 異性に向けて歳を訊くのは憚られたが、七十年前から存在する思想を信奉する組織の構成員がよもやそこまで若輩ではないだろう。そんなハインの先入観は、その一言でやすやす亀裂を加えられてしまった。


「貴方からすれば四つ上。まだ十九歳です」


 口元を隠しながらくすくす笑うアガーテを横目に、貧弱にしてか弱き十五歳のハインは照れ隠しにカップの珈琲を舐めた。



「ああ、でも良かったです。そうやって口にしてくれて。もしかすると、食べてくれないかと思っていたんです」


「えっ?」


「もしかしたら毒か何か入っているかも……だとか、そういった方向に疑われていないようで何よりです」


「それは……」


 角砂糖二個ぶんの甘みを味蕾で感じながら、ハインは口を引き結んではにかんだ。


「そんな事をするメリットはないでしょう……たぶん」


「まあ」


「話しによれば、元の(フュンフ)に到達する可能性を高めるために僕が採用されたわけですから。さすがに、もう貴女たちを悪の秘密結社のようには思っていませんし」


「それは良かった。ブフナー卿の努力が実を結んだという事ですね、きっとあの人も喜びますよ」


 アガーテの言う通り、ブフナーの庇護のもとでハインは今のホリゾント学園生の身にある。

彼らにしてみれば、我の強すぎる組織構成特有の身から出た錆、身内の尻拭いの一環としての意味合いもあるのだろうが、実際ハインは埋め合わせであるとしても、少なからずブフナーには恩義を感じていた。


 それは彼の持つ天性の親しみやすさ、言うなれば緩慢な草食獣のごとき雰囲気が影響しているのだろう。今現在顔と名前が判明している騎士団の面子の中でまともに、且つ穏便に会話が可能な人物はアガーテと彼くらいのものと言えよう。


「いまさらそこらの毒なんかじゃあ、びくともしませんでしょうね」


 そうアガーテは付け加えた。


「ちゃんと入寮してから、しっかりこうして朝ごはんは摂っていますか? 昼は? 夜は? お菓子やお酒だけで済ませてはいませんか? 不自由があれば、何でも言ってくださいね」


「いや……どうでしょう。あまり見える形でお金を使いたくないので」


「いけませんよ、きちんと三食食べないと。そうだ。今晩は何か食べたいもの、ありませんか? 言っていただければご用意しますよ」


「いえ」


 至れり尽くせりの提案に、生来何がしかの借りを作る事に関して大人しくしていられない質のハインは胸元がむずむずする思いがした。


「これ以上ご厚意に甘えるわけにはいきません、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」


「そんな事言わないで。迷惑だなんてとんでもありません、こちらこそ、ご迷惑でなければもう少し、世話を焼かせてはくれませんか」


 潤む黒目がちの双眼に見つめられ、意図せずハインの胸は高鳴った。


「お心遣い、感謝します」


 伏し目がちに口にした一言は、ともすれば憎まれ口、ある意味では正当な批難とも解釈ができるものだった。もちろんそうした考えは少なからず今でもハインの胸中にはあるし、自分を理不尽極まりない魔道に突き落とした原因を担った集団に怨嗟をぶちまけてやりたいという拙い癪気も奥底に根付いている。無論、それを眼前のアガーテに脈絡なくぶつけたところで何が解決するわけでもない。

かと言って、ここまで親身に扱ってくれる事に疑問を抱くのは、果たして不自然と言えるだろうか。一息おいて、ハインはその疑問をアガーテに打ち明けた。


「こうしない理由がないから、こうしているだけです」


そして、自分はこうせざるを得ないのである。災厄に見舞われたある少年に憐憫を抱いたアガーテ・オレンブルクは、これをただ黙認しておくわけにはいかない。心底ばつの悪そうな表情で、アガーテは云った。


「騎士団の不手際を詫びるという意味合いも、確かにあります。末席の構成員である私とて、儀式の詳細な概要を知らなかった、では済まされないでしょう。今回の件に関しては、本当に申し訳なく思っています。本当に――――ごめんなさい。何も知らないあなたの身も心も弄んで、あまつさえあなたには無関係な筈の儀式に巻き込んでしまった」


 それゆえの罪滅ぼしと言えば、聞こえが良すぎるだろう。しかし、その痛ましいほど沈痛な声色から、アガーテ本人も十二分にその思想の容喙ぶりを自覚しているのが見てとれた。曰くお節介、曰く偽善。被害者からすれば、組織ぐるみのマッチポンプで施しの快楽を得る賤者の自慰行為として捉えられても可笑しくはない。


 だが、それでもなおの事、捨ておけるだけの理由などどこにあるだろうか。


 先日の行為からの一連を目の当たりにしてきたハインには、彼女が施しという快楽に浸るために自分を救ったのではない、彼女の言葉や行為には、安っぽい嘘や含みは感じ取れなかった。


「私には儀式を止めるだけの発言力も、顛生具現の秀でた才もない。しかし、あなたを傷つけたり、これ以上悲しませたりは絶対にしません。ハルトマンの意向など知った事ですか。あなたの命を脅かす権利は、我々騎士団の誰にもないのですから」


 アガーテがどれほど自分の事を理解しているのか、ハインリッヒ・シュヴェーグラーなる個人をいかほどに識っているのか。そのような合切はこの際どうだって良かった。単的な、実に飾り気のないアガーテの言葉は、ガムシロップの甘味のようにとろとろと染み渡った。


「残念ですが、現状において貴方のおかれた立場は……率直に言うと、あまり芳しくはない。お恥ずかしい限りですが、我々騎士団は――――」


「一枚岩どころか、あわよくば他人を蹴落として神様に好かれようとする連中ばかりなのですよ」


 奥歯で磨り潰した苦蟲の後味に眉をひそめるアガーテの説明に、トースト片手に新聞記事に目を落とすブフナーが割って入った。


「ブフナー卿」


「ここでああだこうだ取り繕っても仕方ないでしょう、アガーテ。元より我々は一蓮托生という言葉とは最も無縁な集団です、きっと彼も先日のいきさつを目にして重々理解している筈とは思いますが」


 歯に衣着せぬブフナーの物言いに、アガーテは口をつぐんだ。


「私たちはどうしようもない、平たく言えば人間の屑です。性犯罪者や殺人者、傷害殺人詐称に強姦致死傷、彼らのありとあらゆる業を融かしあわせた煮凝り以上に下劣で情けない性根を持ち合わせた塵です。昨今の世論にしてみれば、前期FCAの思想をバカ正直に信奉してその身を捧げるなど、よほど支持者でなければ眉をひそめるでしょう」


 運悪くそんな狂人の集団の施設に取り入れられ、そして後から家族だと思っていた人々を取り上げられた憐れな被害者。今のハインは、それ以上でもなければ以下でもない。このまま行動を起こさねば、殻の中で腐っていく雛でしかない。羽化を前に朽ちるどろどろの幼虫でしかないのである。


「五人ぶん生贄を募って天国に昇りたいだなんて、確かにまともじゃないです」


「その様子だと……いろいろエミリアから入れ知恵を仕込まれたようですね。それともヘンシェルのお嬢さん(ベルンハルデ)かな?」


 その二人の名がブフナーの口から挙がるや否や、アガーテは唇を噛んで不快さを露わにした。それについては肯定のつもりで、ハインは黙ったままでいた。


「彼女らに事を急ぎ過ぎるきらいがあるのは確かです。特にあの妹君に関してはね」


「……存じています」


「先日、以前の君への私刑……顛生具現の尺度を測る名目での暴行について少々咎めはしたんですが、にべもなく一蹴されてしまいましたよ。貴方が椅子を尻で磨いている間に雑務に出向いた真摯なお兄様に足を向けて寝ないよう注意しろ、ですって。わがままお姫様ですよ、あれは。顔はいいのになあ、ははは」


「エミリア・ハルトマンについても同様に」


 からから笑うブフナーの態度とは裏腹に、アガーテは変わらず真剣なまなざしでハインを見据えた。


「人形の欠番が出たと知れた今、儀式完遂に向けて手段は恐らく択ばない。ゆえに、抵抗する力を持ちえないハインリッヒ君を付け狙う可能性が極めて高い……と言わざるを得ないのです」


 曰く、七十余年前より老若男女問わず屍の山の頂で血汁を啜り続けてきた吸血鬼ノーライフキング。西部戦線で人の、女としての魂を騎上からドーバー海へ取り落した戦争狂マニア。そして、世の万物を己の供物として疑わない救い難いエゴイスト。なぜ、どうしてあんな女が(ズィーベン)の席に名を連ねているのか。なぜ、この騎士とはほど遠い感性を持つやくざ者が除名されずにいるのか。潔癖とも言えるアガーテによるエミリア評とは、およそ彼女はヒトとは捉えられない化外を指しているも同然であった。


「貴方は人形じゃない、代わりは利かない、血の通った人間です。彼女たちには、およそそれがわかっていない。だから」


「まあ、こう言っている事ですし。何かあったらアガーテを頼ってやりなさい、ハインリッヒ君。勿論私も、言われればできる限りの対応はしますがね」


 ブフナーの同意にアガーテの表情はぱっと明るくなった。


「貴方を護ります、私も私のできる範囲で。私たちを、味方を頼ってください、ハインリッヒ君」


 力強く決意を表すアガーテを目前に、ハインはつとめて穏やかに微笑んだ。


「ありがとう、アガーテさん」


 たった一言の為に数秒の逡巡を要し、そしてふたたびハインは口元を緩めた。




 大通りから数十区画離れたアガーテの私邸から出て数十分ほど、大きな出し物の日程と被っていなかった事が幸いし、路上は人混みでごった返しているというわけでもなく、しかしホリゾントの大通りは酒の入った老若が救世主メサイアの加護のもと昇天した魂を大いに敬いながら「God damn!」だの「Scheisse!」だのを吐き散らかしていた。


「少し表通りに出てみればこれだ」と言わんばかりに、アガーテは呑兵衛連中を見ると唇を引き結んだ。


 確かにアガーテとブフナーが暮らす区画は、ハインの通う学園キャンパスと比較しても非常に閑静な住宅ブロックに位置していた。高台が多く点在する土壌は地すべりや土砂崩れのリスクを懸念する裕福層にはあまり人気が無く、色街じみた区画が存在しないのもそこに理由があった。深い森林を開拓されたホリゾントの最奥であり、聖マリアンヌの名を冠する共同墓地を擁するその地域は、住民もまた納魂祭に際してはせいぜい近所の酒屋が慎ましく賑わう程度の大人しさであった。


「貴方の行きたいところに行きましょう」


 とのアガーテの提案で、気分転換がてら散歩にでも、という体だったのだが、どうにもアガーテの様子を見るに心中穏やかではないらしい。異性不信の傾向でもあるのか、「でけえケツしてんなあ姉ちゃん」などという野次には茶色の耳を逆立てて不快の意を農薬の如く散布した。


 ワインレッドのリブセーターに包まれた豊満な双丘が野郎どもの劣情を掻きたてるのか、スカート下の見えざるヒップに惹かれるのか、それとも単純にその混血ならではのエキゾチックな美貌が誘引の原因となっているのか。アガーテが鬱陶しがるのと反比例して、野次やナンパは増えていく。


 自慢の健脚で一気に目的地まで飛ばしたかっただろうが、生憎とホリゾントの主要街道で半人(ケンタウリ)が走行可能なスペースは車道と同じくほとんどが封鎖されている。仕方なく歩道をぱかぱか歩く羽目になっている。猿人のハインと馬人のアガーテではあえて論じるまでもなく歩幅が違いすぎ、それがハインには彼女が焦れているように見えて仕方が無かった。気を抜けば遥か遠くに取り残される。


「お先に行ってていいですよ。僕といっしょだと、かえって疲れるでしょうし」


「いえ……あっ、えと……すみません、お気を遣わせてしまって」


 はっとしたようにハインの気遣いに応じると、アガーテは自己の堪えの無さを恥じたのか、軽く謝罪した。すると、アガーテは少し屈むとハインの手をとり、指と指を絡ませて握りしめた。


「あのっ、ちょっと、アガーテさん?」


「それでは、参りましょうか。最初は服で、次は市に出て珍しい食べ物でも買いに行きましょう」


 大胆な行為に慌てるハインに悪戯っぽく言い、少々気を善くしたアガーテは彼の手を引いて歩きはじめた。




 最初に立ち寄ったブティックにも――――スーツ売場、服飾売場、更衣室にも。


 次に軽食に立ち寄ったカフェにも――――通されたテーブルにも、トイレの個室にも。


 そして、いま物色しているこの区画――――デパートの在庫処分スペースにも。


 いずれにも、非日常の面影はない。自分は今、日常の中を生きている。ワゴンの中に無造作に突っ込まれた皺だらけのカッターシャツを手に取り、タグに記載されているサイズを読み取ると、偶然にも自分のサイズとぴったり合致。こりゃあいいやと買い物カゴに突っ込むと、腋の部分が虫に食われていた。なんだよマジかよふざけんなと、再び不毛な物色を始める。


 あまり容姿に頓着はなく、そして人をたらしこむ自信もない自分は、そこまで着飾る必要もないだろうし。何せ一日のうち一番長く顔を突き合わせるのは同性のクルトだ、何をそんな見栄を張る事があるんだ。


 朝起きて、二日酔いで半ば昏睡の最中にあるクルトのかけ布団を剥ぎ取り、昨夜きちんとアイロンがけしていなかった為に雑巾のように丸まったままの制服に袖を通し、食堂で五十ペニヒのうすらまずいペーストサンドを咥えて午前の講義にのっそり顔を出し、単位を取りこぼさない程度に板書しながら賭け蹴球についてのクルトの詭弁に耳を傾けて時間を潰す。のんべんだらりとモラトリアムが過ぎていく。


 これでいい、他に何を望む必要がある?


 これでいいじゃあないか、何に過不足があるというのだ。


 こうやって人見知り特有の笑みを浮かべて、安穏と時を歩んでいく事以上に幸福な事があるのか?


 ほら向こうの、エレベーターホールに立ってる、あの美人のアガーテ・オレンブルクと目が合った。たまにはこういう事があったっていいだろ?


 彼女といれば良いことずくめだろう、お高いブティックで用立てたシャツにベルベットのネクタイを締めて、意識低い阿呆学生など敷居すらまたげないカフェで上等な蜂蜜酒を舐めて、見識高いアガーテの庇護のもとで儀式の終わりを待てばいい。そうするのが自然であり、そうしない理由などどこにもない。


 万事彼女に任せておけばいい、何せ自分は被害者だ。降ってわいた天災に見舞われた弱者だ。ゆえに僕は、ベルンハルデ(いけすかないバカ)フルーク(変態のイカレ野郎)とこれ以上かかわったってしょうがないだろ。


 頭がおかしいんだ、あの連中は。あの十三騎士団とかいう集団は。そんなのにかかずらっていたら、僕の方までおかしくなってしまう――――


 結局、買い物カゴの中身はカラのまま。ハインは雑多な衣類の詰め込まれたワゴンに囲まれて立ち尽くしていた。先ほどアガーテが立っていたエレベーターホールには誰もいなかった。伽藍と化したそのスペースには、買い物客など人っ子一人いなかった。七階建てデパートの最上階だ、わざわざ服飾に頓着のない貧乏学生くらいしか集客が見込めない不毛な催しに、どれほどの求心力があるだろう。考えてみれば普通だ、日常ではよくある出来事だ。


 大丈夫、僕はおかしくないぞ。


 無為な自問自答を強制的に終わらせて、ハインはその場から離れようとした。


 すると、がさりと爪先で紙袋を蹴とばした。先ほどアガーテが買い与えてくれた、『阿呆な男子学生には縁のないであろうお高いカッターシャツとベルベットのネクタイ』が収まっていた。二、三度まばたきをして、ハインは紙袋を手に取ってエレベーターホールへと向かった。


 規則的に並ぶショーケースやワゴンをかき分けかき分け、ハインは歩を進めた。喧騒とは無縁の静寂の中、靴音だけが高く鳴り響く。ばかに広々とした、やけに閑散としたデパートだ。これじゃあ日を待たずして潰れちまうぞ。かわいそうに――――


 そんな無味乾燥な思考でそのまま歩き続けると、ひとり女性とすれ違った。


 黒い喪服のような、裾の長いドレス姿の女性だった。頭部は黒のヴェールに覆われて、鼻先より上は確かめる事ができない。黒い斑点に覆われた花弁を持つ、百合と思しき花の飾りがあしらわれていた。


 女は枯れ木のように痩せていて、開いた肩や胸元から露出した肌は白く淡く、新雪のように輝きながら、脂肪のあまりの少なさから骨ばっていた。身体には凹凸はなく、胸骨がうっすら透けて見えた。背丈はハイヒールである事を差し引いてもハインより若干高く、手足もほっそり長い。黒の長手袋に覆われた腕、ドレスから伸びるトレーン、そして砂時計じみたハイウエストの出で立ちは、元来ならば見目麗しく祝福に包まれるはずの花嫁を思わせる風貌だった。



『おまえを救ってやれるのは、あたしだけだ』



 すれ違いざまに女が言い放ったのは、そんな一言であった。


 ヴェールからこぼれる髪は緋色に滾る業火、死肉から滴る血のように赤黒い。髪の束がたなびく様もまた、蜘蛛が脚を伸ばした光景を想起させる。腐り、黒く変色した林檎の色だった。


「あなた……は……」



莫迦バカは死なずば治らぬもの、ならばこそ、せめてあたしが等しく喉を食い破ってやろう、せめて終末の喇叭として喘げるだけの装置にしてやろう。莫迦バカの言葉は遍く真理を腐らせる。唾棄すべき槃特の所業にして反義に他ならない』



 聞き覚えのある、しかし別人とも思える程に重く冷たい声色だった。自分の知る者とは一線を画す、まるでこれまでの姿が仮初の虚像であったかのような錯覚。記憶の中に在る声の主と眼前の女が果たして同一のものか、未だハインには判断しかねた。ちんぴら然とした口調は今や、女傑じみた確かな重圧を孕んで顕現していた。頷きひとつで有象無象の灯を吹き消せる、魔力めいた密度がそこにはあった。


「エミリア……エミリア・ハルトマン」


 混乱の泥濘に足を取られつつ、ハインはようやくその名を口にした。


 背格好も、声色も、出で立ちも異なるその女は歩みを止めなかった。


 ハインにとっては、ただ露出した死人のような肌を細かに震わせ、くつくつ嗤っているのが背後からわかるだけだった。



莫迦バカはもしもに縋りたがる。莫迦バカほど人生辞めたがる。だからだよ、あたしだけがお前を救い――――莫迦バカを殺し尽くせるのだ。あたしだけが衝立を打ち壊し、流れのままに莫迦バカを刈り取れる。しるべを持つ者に莫迦バカは敵わん、人任せ神頼みには何も、何も生せんわ』



 女の姿が視界から霧消しても尚、ハインの臓腑はどくどくと激しく脈打ち、痙攣していた。肺が震え、ひゅうひゅうと隙間風のような心もとない呼吸しかできなかった。立ち眩みにも似た酩酊感に苛まれ、硬いタイルに膝をついた。


 不意にコツンと床で音がした。コツン、コロコロとそれは転がって、床に敷かれた安物のタイルの隙間に挟まり込んだ。酩酊がだいぶ軽くなってから視線をそちらに向けると、音の正体がようやく判明した。


 白い薬包紙に覆われた飴玉が、無機質にそこに嵌りこんでいた。

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