トマトと筍の煮込みスープ オレガノ添え
ベッドの傍らに置かれた籠の中身に収められていた衣服一式、どれもハインの華奢で小柄な身体には大きすぎるようだった。靴下もブラウスも、用意されたものが男物だったのが幸いだったものの、袖から肩口まで布地がぶかぶか余ってしまう。
仕方なく素足でベッドから床に足をつくと、毛先の細かいカーペットが優しく敏感な足裏を受け止めた。シャワールーム以外で裸足になるのはわずかに抵抗があったが、これはこれで心地が良いとハインは思った。アガーテを始めとする馬人には、リノリウムもコルクもフローリングも必要ない。玄関で着脱可能なゴム蹄鉄を履き替えて生活するという家の作りは、猿人のハインには新鮮であった。
血まみれのワイシャツはと言えば、気を利かせたアガーテが部屋を訪れた際に回収し、既に洗濯機へと放り込まれていた。インナーなどの汚れ物も同様、血と汗でどろどろになったそれらはまとめて今は水の中、漂白剤にワシワシもまれている最中。
リビングへと向かうと、アガーテ手製の朝食が既に食卓へと並べられていた。マツの木のあしらわれた純白のテーブルクロスの上には、スライスされた白ごまパンのトーストとアセロラのジャム、副菜の皿にはパセリで装飾された鶏卵とハムの和え物。そしてトマトとオニオンのビネガーカルパチョ。輪切りのパンの断面からは、四角く切られたチーズがとろけていた。珈琲の注がれた陶器のカップからは、春先の肌寒さを忘れさせるように湯気が立ちのぼっていた。
卓にはパンの更に盛られているのと同じ鮮やかなアセロラ・ジャムのほか、黄金色のママレードやラズベリー、無花果のジャムが小瓶にたっぷり詰められて置いてあった。小瓶に貼られている手書きのラベルを見るに、すべてアガーテが拵えたものなのだろう。ラベルの筆記体の片隅には、ちいさく果物を象ったキャラクターが描かれていた。
そして目を見張るのがボウルいっぱい盛りに盛られた千切りのキャベツ。人参とピーマンも白い円錐に彩りを与えており、麓には輪切りのレモンがちょこんと添えられていた。
くくぅ、とハインの身体が空腹を進言した。もう待ちきれないよ。
「お先にどうぞ、召し上がってください」
クローズドキッチンの奥のアガーテが言った。キッチンからも香ばしい匂いがふわふわ漂ってきており、よりハインの鼻腔から胃までを撫で上げる。きっとシチューか何か、煮物だろうな。トマトとコンソメの良い香り。小食かつ食事にさほど強く思い入れのないハインだが、うすらまずい無味のマメ缶をスプーンで汁ごと啜るのとは訳が違う、比べるのもおこがましい、礼を失するどころではない。食物への冒涜であろう、昨今家畜の方がましな味のものを喰っている。
先日の昼ごろから飲まず食わずのハインは椅子に腰を下ろすと、かりかりに焼けたトーストの芳醇な自己主張がふうわり顔を包む。少々の焦げ目のついた白ごまの存在も大きい。舌の周りからじゅわ、と唾液が滲みだした。もう香りは十分堪能したよ、早く味わわせてくれよ。食道から胃までがきゅっと窄まるあの感覚、もはや自分が先ほどから口を半開きにしたままという事すら思考の埒外。唇の朱色から唾液の筋がわずかに垂れる。
――――いや、いや待て
忘れるな、いかにあのアガーテ・オレンブルクとて十三騎士団のうち一人。Ⅹ《ツェーン》の序列を冠する顛生具現使い、エミリアと協調を図る自分にとっては味方と断ずる事ができかねる人間であり、そんな相手の出した料理をここまで無防備に口にするなど――――
逡巡する。苦悩する。白いパンの表面にアセロラ・ジャムの紅を引き、バターの白粉で化粧を施しながら、ハインは口を引き結んで思考する。毒を盛る? 盛られる可能性はあるだろうが、しかしそもそもアガーテに盛る動機はあるのか?――――ああ、副菜の皿に敷かれたザウアークラウトの玉座に居座る目玉焼きのなんと美しい事!――――ベルンハルデならばいざ知らず、あのアガーテにはそこまで恨みを持たれるような事はしていない、それはエミリアとの協調がバレていなければではあるが――――
「いただきます」
サクッ、サクサク、ふかッ。
前歯の感覚が柔らかなものへと変わり、二口分を奥歯へと運んで咀嚼する。舌中が喝采を挙げている。アセロラの爽やかな酸味がパンの甘みと邂逅し、白ごま生地の香ばしさが育んだ土壌をありったけの多幸感で浸していく。視界はいらない、この味覚で白雲のような純白と果実、そして乳のまろやかさを謳歌しよう。
もっちもっちもっちもっち
噛むべし。四口目、五口目とも変わらず咀嚼するべし。しみ出す唾液にすら味わいを求める程に、口内は際限なく貪欲になっていく。名残惜しげに飲み下すと、次にハインはカップへと手を伸ばす。きりりと締まった珈琲の苦味は、緩みきった今朝の神経を正す監督官的存在。豆の銘柄には詳しくないが、舌の付け根に感じる味は決してしつこくなく、気味の良い潤いを与えてくれる。暖かな珈琲が食道を下り、胸の奥がじんわりと温もりを持ち始める。
溜息じみた、声にならない声を吐きだす。
肩の無駄な力が抜け、数週間ぶりにリラックスと呼べる心地へと至れたような気すらもしてくる。
ナフキンで指先についた粉をふき取ると、次いでハインはフォークと取り皿を手にした。
フォークの矛先を色とりどりの面子に向けて、次なる獲物を吟味しているところに、予期せぬニューカマーが姿を現した。
「ごめんなさい、おまたせしました。どうぞ、こっちも召し上がれ」
キッチンから盆を手にしたアガーテが卓に置いたのは、深皿になみなみ盛られた煮込みスープ。ボイルしたトマトのペーストで赤く染まった中に、所狭しと芽キャベツだの蕪だのが詰まっていた――――いや、この白い根菜のようなものは、本当に蕪だろうか。蕪にしては妙な切れ込みが施されているし、何よりこんな平べったく三角になど調理すまい。
おそるおそるハインは根菜と思しきものにフォークを突き刺し、口に運んだ。
思っていたよりもそれなりに歯ごたえがあり、しゃくしゃくした音がする。かと思えば余分な繊維質は感じられず、甘みを含む風味と共にさっと融けてしまうような食感。この滑らかさは茸とも違う、何かもっと別の植物由来のものだ。こんなにも香りのよい、嗅覚をも蕩かす食材とは一体なんだろう。
「お口に合えば良いですけど」
エプロンを外し、卓の正面に馬体を下ろしたアガーテは、千切りキャベツとザウアークラウトをいっぱいに盛った皿を前ににっかり笑った。
「この、白い野菜は何ですか? 蕪でも大根でもない」
「筍の事ですか」
「タケノコ……?」
「育ちきる前の竹を収穫した食べ物なんです。こう、土の下から生えてきて……半月もしないうちに、あっという間に成長してしまうものだから、旬の時期でもあまり数は取れないんですよ」
竹そのものがどんな植物かは知識として持ち合わせているものの、その芽となると想像が及ばない。東洋を中心に植生している、まるで雨樋やパイプのような外見をした植物だ。樹木のように密集して立ち並ぶ中、藪から虎が這い出す様を切り取った図画などは書籍で目にした事がある。その他にも日常生活で建材などに用いられる事が多いとも聞き及んでいたが、まさか若芽を見つけ出して食べるなどは考えもしなかった。
「天に向かってどんどん伸びる、竹は縁起のいいものです。長寿、立身、成長……そんな願いを込めて、筍は食べられていたみたいなんです。その旬はわずか十日だけ、一期一会。これからの自分の未来の為、そして幼い子の将来を祈って……」
「すごく、貴重なものなんですね」
「とは言っても、今じゃ大きな街ならどこでも置いてあるみたいなんですけどね」
スープにたゆたう白い欠片を眺めて、アガーテは補足した。
「すごく、おいしいです。すごく……」
自然とゆるんだ頬でそう呟くと、ハインは引き続きこの一期一会の味覚を口へ放り込むのに専念し始めた。