表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
決別の兆
62/105

知覚と身体

ハインリッヒ・アルベルト・シュヴェーグラー 18/04/1932

 小窓の外のホリゾントの空は、鈍色のぶあつい雲の層が隙間なく覆い尽くしていた。


 早朝だというのに、遠くからは未だ酒宴の席のものと思しき喧騒がかすかに聞こえてくる。


 半刻ほど前に起床したハインは、真新しいオークのベッドに敷かれたふかふかのシーツに腰掛けて裁縫に没頭していた。他人の家のベッドにあれこれ注文をつけて文句を垂れるつもりなど毛頭ないが、やはりどうにも熟睡できずにいた。

 

 家主の好意に厚かましくも甘えているという心境もあった。また、つい数時間前には常人の業の埒外にある事象を目の当たりにしており、とてもじゃないが興奮を平時と同じように御するのは容易ではなかったのだ。

 


 祭りに浮かれるホリゾントの夜天より舞い降りたのは、その頭数は千にも上る飛竜の軍団。


 かのFCAと袂を同じくする、高等竜の共同体。彼らを統括するのは、聖ヘレネーの血族にある四人の戦乙女。人智の及ばぬ根源に近しい性質を持ち合わせる神竜、そして聖人の血を身に抱く彼女らは、まさしく生ける伝説と呼んでも差支えはなかった。


 やがて満天の星空に浮かび上がるのは、空想と虚構が大いに盛り込まれた冒険小説にのみ登場する、未知なる先進文明の一角。灰色の高層建造物が高度に整理された区画ごとに均一に建ち並ぶ未来都市。


 何もかもが青天の霹靂。予想の範疇を越えている――――



 そうして普段の起床時刻より早く覚醒してしまい、持て余しているところに眼に入ったのは先日まで着ていた白のワイシャツ。右の肩口が無残に裂け、露出した繊維が黒く染まっていたそれは、ベルンハルデの制裁によるものである。身体的な外傷は聖剣の加護によってほぼ完治していたものの、身に着けていた衣服はそうはいかない。当時羽織っていた一張羅の紺のベストも同じくばっくりと穴をあけられていた。


 時計を見ると未だ四時を少々過ぎた頃合い、家主もおそらく起き出しては来まい。それならば、といった具合に、ハインは自身の顛生具現を慎ましげに顕現させた。


 弦は、初めて発現させた時よりもはるかに安定した挙動を見せるようになった――――というより、より自分の四肢、末端の延長として機能させる事ができるようになった。手指の付け根に指輪のごとき光環が現れると、弦はそこから現出する。指の第一関節を曲げるのと酷似した感覚で力を込めると、先端は硬質化し縫い針の代用となる。初めのうちはその先端を保持して縫製をいそいそこなしていたが、手慣れる――――実際に弦を行使する――――につれて、今では僅かな関節部の微調整だけで、しなやかな弦を操作できるようになった。一本ずつ指が増えた、とは行かないまでも、意識の伴わない反射行動で動作しているわけでは断じてない。この弦には、間違いなく意識が乗っている。


 幻肢のようだとハインは思った。


 幻肢という現象は、主に患部の切断や事故などによって喪失した身体部位が、切断箇所から先があたかも依然として存在しているかのような錯覚を指す。


 一般に人間の把握する意志空間におけるもの、すなわち現存する五体満足な肉体はヒトの理性に先だって形成されるものであり、意識内に存在する形而上の肉体とは形而下の肉体の金型に沿って形作られる。ゆえに、ベースとなる現実の肉体が欠損すれば、意識内の肉体との齟齬が生じて幻肢が発生する。情報処理を担う脳と、実際の身体組織の間で発生する齟齬(テレスコーピング)である、


 ハインの場合はその部位を後天的に備え付けられたわけであるが、意識的な操作が可能になったのとほぼ同時に、意志の統括下へと徐々に同化し始めている。肉体に眠るエクスキャリバーなる聖剣は、ハインの精神へと受肉し始めている。


 ハインの内にある、意識が統括する空間範囲が拡大した。この拡大した範囲の面積こそがエクスキャリバーの神威であり、また弦に内包された、いわば筋肉、いわば神経でもあった。無論、ハインは弦の断面を確かめた事などはないので比喩であるが。


 だが、このエクスキャリバーが異物であるという実感は、徐々に感じなくなりつつあった。肉体が同化していく過程で敏感に拒否反応が発生した事は、エクスキャリバーを受け入れてからの数週間を蛹のように過ごしたのを反芻すれば明白である。身体機能をあそこまで著しく低迷させるほどの反応を起こさせた点を考えれば、裏返せばそれがいかにヒトとはかけ離れた存在であるかを察する事ができよう。


「ブフナーさんは……身体は鞘、だとか言ってたな」


 顛生具現なる刃を納めるのは、他ならぬ術者の肉体。突けば血を噴く肉の袋の組成を強制的に組み換え、人外のものへと変貌させるのもまた、魔術を越える魔術たる顛生具現の源――――聖剣の為せる業というわけか。


 絶望の沼の淵の茂みに足を取られ、死にゆく身体を生き永らえさせた曰くつきのしろもの。ハインにとっては忌むべきか、それとも崇めるべきか、未だ結論が出ない神の持ち物。


『これは自分の手足じゃない』という意識的な違和感と、それをねじ伏せ統括する『これは自分の刃である』という肉体的な形而上の自覚。二者が混在する奇妙なアンチノミーの上に、この能力は立脚している。


 当然、僅かながらの拒否感や生理的な悪感情はもちろん残留している。しかし、本来のエクスキャリバーの持つ性格とも言うべき――――アガーテやエミリア曰く、治癒に秀でた――――性質は、まるで宿主の身体そのものを控え目にも労わっているかのよう。少なくとも、直ぐにでも表皮を切開して取り出してやろうなどとは思わない。そんな事をして生きていられるかは定かではないのだが、そうした程度にはハインはエクスキャリバーを受け入れているのだった。


 無論、騎士団を屠る為の武器としても。




 簡単なかがり縫いで肩口を縫い終えると、ハインは親指の爪で弦を切断した。頭髪一本を抜くような僅かな、痛みとも言えない刺激が奔ると、切断された弦は光を喪い、やがてシャツの繊維と同化した。裏返して表面を確認すると、およそ錆びた刀剣で傷つけられたものとは思えない程、綺麗に縫い合わさっていた。


 血液の滲みだけは洗剤で洗うほかなさそうかな……落ちるといいな、学校指定だし……ああ、リボンタイもちょっと滲みちゃってる……


 などと神経質に衣服を確認し始めるハインのもとに、遠慮がちなノックが響いた。


「ハインリッヒ君、おはようございます」


「えっ……あっ、は、はい! おはようございます、アガーテさん。ちょっと待っ……」


 最後の一言だけは生憎と届かなかったらしく、大きな馬人(ケンタウリ)向け住宅特有の、ハインの背丈の倍はあろうドアはゆっくりと開かれた。


「おはようございます、ハインリッヒ君。今朝はお早いですね、もしかして、眠れませんでしたか」


「あ、あのっ……まあ、そ、そうですね……」


 着の身着のまま、儀式の舞台となった学園内聖堂から直接アガーテの私邸にお邪魔したハインに着替えなどない。かと言って血塗れのまま余所の家のベッドに潜りこむわけにもいかぬ。ゆえの半裸であった。


 生娘のようにワイシャツを上半身に抱え、素肌を見られる事に抵抗のあるハインは赤面したまま、暫く何もできなかった。


「昨日は、怖い思いをさせて本当にごめんなさい。朝ごはんの支度、できてますよ」


 普段の礼服ではない、フリルのついたベージュのワンピースにエプロン姿のアガーテは、実にはつらつとした微笑みを伴って言った。たっぷりした胸囲から腰は美しい曲線を描き、張り詰めた筋肉を包む馬体の茶褐色と連続している様は、模範的な馬人女性の体格と比較すると若干――――否、充分にセンシュアルな魅力を携えていた。双丘の盛り上がりによる陰影がくっきりした純白のエプロンは、ハインのワイシャツとは対照的に、染み一つないようだった。


 東洋人との混血だという彼女は、平均的な帝国民族よりも鼻は低く、まるみのある輪郭を持つ。ハインよりかは肌の色素はほんの少し濃く、しかし帝国においてはごく稀な漆黒の頭髪とのコントラストによって実際よりも鮮やかな美白、静謐な粉雪のごとく輝いて見えた。穏やかな乳色だった。


「ふふ。お待ちしてますね」


 こめかみより上の位置で、機嫌良さげに馬体と同じ毛艶を持つ耳を一度跳ねさせるアガーテ。


 朗らかな、言うなれば牧歌的、そして紛れもない美人と形容するほかないアガーテを前に、ハインはますます紅潮した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ