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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
決別の兆
61/105

ゲシュテルにて

 十月のアドヴェントを過ぎてからは、ハインの在籍する分校も、主にカーシャやハルヴァが中心となって彩り豊かに飾り付けられていた。


 寮を含む狭い校舎内、ささやかながらいたるところに手製のオーナメントやアドヴェント・クランツが据えられ、談話室の大窓には兵隊や聖ニコラウス、そして厚着の子供らを象ったシュヴィップボーゲン(アーチ状の蝋燭立て)が煌々と室内をやわらかく照らしていた。


 校内の少ない男手を駆り出し数週間かけて製作に着手したものの、結局は貴重な材木を可燃ゴミに転じさせるだけだと察したゼフィールが街の工房に発注し、不器用な男どもの苦労を文字通り無駄な努力へと帰させたのは記憶に新しい。窓際でご立派に鎮座する職人手製のしろものに追いやられるように、ハインたちがおぼつかない手つきでこしらえた可燃ゴミたちは端でこぎたなく丸まっている。


 学期末の試験を済ませれば、降誕祭はもう目と鼻の先である。二十四日イヴを目指してシュトゥットガルトのマーケットを堪能するのもいいし、プレゼント交換を嬉々として待ちながら一足早く自室で冬籠りの準備をするのも醍醐味だ。むろん、前者に関しては相応に懐が温まっていなければならないのだが。


 さて、部屋のデスクには既に街の図書館から見繕ってきた冒険小説がうずたかく積み上げられており、頁を開かれるのは今かとハインを待ち構えている。食堂でよく練ったココアと焼き菓子でも用意すれば、もはや他には何も要るまい。ストウブの温もりに当たりながら活字を追うのが、冬場のハインの最高の贅沢なのだ。


 そんな、年末最大の行事が間近に迫った、とある冬の夕暮れ時。

 自習室で原エルフ古語の書き取りノートに目を落としつつ、ハインは小一時間ばかりをぼんやりと過ごしていた。ノートに覆い隠すように置かれているのは、裁縫と編物に関するノウハウ本。ヴェルヌやルブラン、バローズに紛れ込ませるように、これらも図書館から借りてきたものだ。


 最高学府へ行ったとて、ただの一度も使わないであろうヘルヴェチアの定型文を暗唱するふりをして、ハインは別鎖編みの基礎を読み進めていく。


「何してんだあ」


「ひゃっ!」


 気配を悟られずに接近し、肩越しに顔を覗かせたのは兄、マルティン・シュヴェーグラーだった。髪の色も背の丈も、性格も百八十度異なる兄は、眠たげな顔でハインが咄嗟に隠そうとした手芸の本に視線をやった。


「い、い、いきなり、何だよう」


 意図せず無様にも短い悲鳴をあげてしまい、慌ててハインは自分の口をふさぐ。最前列の席でプレゼントのカタログを広げるハルヴァとサモアール(サミィ)が振り向き、くすくす笑った。


「もう授業もないのに何やってんだ、おまえは。年始まで遊びに狂ってもいいんだぞ? おまえも娘っ子と一緒に、欲しいプレゼントでも考えとけよ」


「生憎、そういう気分じゃあないんだよ」


「うむ、おかしなことを考えてるのだけはわかるぞ。カギ針さえ持ってないお前が、手芸の本なんぞをこそこそ読みふけっているだなんて。男ならもっと健全に女の裸でも眺めてろってんだよ、どういう風の吹き回しだ」


「どうして年末のおめでたい雰囲気の中でポルノなんか読まなきゃならないのさ」


「あー、ごもっともか。おまえの場合はそれをネタにいじくり倒されるだろうからな」


寝癖がついたままの赤毛をくしゃくしゃ掻きながら、マルティンはハインの隣の席に腰を下ろした。


「で、だ。完成する当てはあるのか?」


「な、何が?」


「何がって、なんか編むんだろ? さっさと着手しないと間に合わないぞ、降誕祭まで二週間切ってるんだぜ」


「努力は……する」


「しかし解せんな、ハインよ。なにゆえおまえは、この土壇場になってそんな悠長にイチから編物なんぞを始めようとしているのだ? 石橋を重機でぶちこわすおまえらしくもない、いったい何があった」


 実際、このマルティンがどこまで自分の事を悟っているかどうかをハインは測りきれずにいた。なるべくなら、察される事なくここはやり過ごしたいところだった。とはいえ、一人につき一室与えられる好待遇の寮生活とて、数年生活を共にしてきた兄であり、また数年分の史学の授業を受け持ってきた担任教諭でもある。いわばハインはマルティンにとっての体の良いお人形であり、知らない事の方が少ないのではとも思われた。


「イチからじゃない、道具そのものはあるし……その、得意な子にもちょっと習った」


「それでどうにかなるものか? 手芸なんぞは門外漢だが、そんな簡単なもんでもないだろ」


 兄の正論に対し、ハインは押し黙るほかなかった。


「はー。だいたい読めてきたぞ。やっぱりな」


 ばつが悪そうに唇を噛み、両の手指を所在なさげに動かす弟を見かねてか、マルティンはぼそりと言った。



「こつこつためてた額縁の貯金だけじゃ足らねえから、ケツに火が点いちまったわけだ」


「なっ……!」


 ヘルヴェチア地方の湖畔の描かれた絵画が収められたちいさな額縁が、ハインの自室に掛けてあった。入居した当時から既に掛かっていたものであり、ハインはこれをいわゆる隠し財産の保管場所として使用していた。もちろん、誰に明かすわけでもなく数年を過ごしてきたつもりだったわけだが。


「ばれてないとでも思ったのか? この辺は初秋でもちょっと吹雪けば膝下まで降り積もる、積もった雪は塀の端にかき集められて……即席の土台の完成だ。秋が深まってさっそく塀を乗り越えて遊びに行くバカが一人はいるとは先任から聞いていたが……今年はついにおまえがその一人になったわけだ」


「あれは……えっと、その……」


 言い訳すら口に出せず、しどろもどろになるハインを前に、しかしマルティンは厳しく諌める様子もなく穏やかに続けた。


「安心しろ、これで女子供や老人をぶん殴って財布くすねてたらその場で張り倒してたが、至極まっとうに稼ぎに出ていた奴にどうこうブツクサ言う気はない。俺や校長に何も告げずに行ったって事は、負い目引け目が少なからずあったんだろう」


「……」


 ハインは何も答えなかった。


「おまえにゃ公然と悪事を働けるほどの度胸はないからな。その点は遠目で見てて安心できた……しかしなあ、もうちょっといい待遇の雇い先は無かったのか? 二月近く働いてあれだけじゃしょうがないぜ」


 ハインが隠れて行った凌ぎというのは、街で数件の顧客を持つ家庭教師として小遣いを稼いでいる学生の下で書類を作成する事だった。書類業務と言っても、幼年学校の生徒に向けた簡単な算術や魔術史、ブリタニア語のテストの作問と採点作業である。


 分校での夕食が終わってからバスで街へ向かい、三時間弱を黴臭い下宿でペンを走らせながら過ごし、はした金の入った封筒を手に真夜中の分校へと戻ってくる。当のハインにしてみれば身を切るほどに必死だったのだが、全てを見通していたマルティンの口調からして、懸念の殆どは杞憂だったらしい。


「大方、夜中に窓の施錠を外すのはサミィか? 俺にも劣らぬ少ない賃金でご苦労な事だ」


「もう、しないよ……ごめんなさい」


 気まずそうに、そして実の身内に対して申し訳なさそうにハインは唇をかんだ。きめ細やかな肌に覆われた手指でブラウスの裾をぎゅっと握り、兄であり教師でもあるマルティンへの悔悟の念を無意識的に露わにしていた。元より色素の薄い素肌からみるみる血の気が引き、瞳は相手の首元と両目とを行ったり来たり。


 思い返せば、ハインが表立っておいたをやらかす事などそう多くはない、むしろ今回の一件をマルティンは称賛にも似た感情で歓迎していただろう、その表情に弟の所業を厳格に追及していくような気勢は皆無だった。


 要は、この線の細い少年は『叱られ慣れていない』のである。どこか臆病で、どこか儚げで、誰より懇篤な性格の持ち主。マルティンがそんな弟に向けたのは、彼の行為への讃頌だった。


「別に、引っ立てて説教くらわすつもりはないんだぜ。お前はほかに手段がないから、思考を巡らせて、あらゆる方法を考えて、考えた末にいちばん最善に近いところに着地できうる可能性を選んだ。それだけだ」


 いかにして分校、それも田舎の奥まった山間にぽつんと建つ中等教育機関住まいの身で、気鋭のジュエリー・デザイナーの手がけるメタルチェーンのネックレスを手に入れるか。古帝国言語が彫り込まれ、クローバーや水滴を象った造型のシルバーアクセを買い求めるまでに、どう自分は行動するべきか。


 授業や進学校ギムナジウム受験のために必要な経費でもなく、完全に私用。ほぼ男手ひとつで時分を育ててくれた兄に駄々をこねるわけにはいかないし、そもそも絶望的にみっともない。十五の時分でそんな事が許されるほど甘やかされて育ってきてはいない。


 とはいえ、談話室に置かれている分厚いクリスマスプレゼントのカタログ誌から得た情報によると、目標の品物を購入するにはハインの雀の涙、蚯蚓の小便、ノミの汗にも劣る財力では到底届かない。クラスメイトの少女たちに金を借りるという手もあったものの、没であった。基本的に彼女たちには身寄りがなく、財政的にはハイン以上に困窮していると言ってよい。衣食住に逼迫しているようには見えないものの、きっと奨学金の額などたかが知れている、何より見栄を優先したかたちで購入したところで、あまりにもカッコ悪すぎる。どこの世界に借金してクリスマスプレゼントを用意する愚か者がいるのか。それも、自分が恋慕する女子に対してである。


 となれば、残る策はただ一つ。寄宿生活の合間を縫って、街に働きに出るほかはない。


 そう決めてから半日もしないうちに、どこからハインの心情を嗅ぎつけたのか、サモアールが眼鏡の奥の瞳をきらきらさせながら仕事場を紹介しにくる始末。消灯後のごまかしは全部任せろ、との根拠のない口先三寸をアンカーに、ハインは意を決して未知なる航海へと漕ぎ出したのである。もっとも、そのいかれた羅針盤頼りの船出も、実のところマルティンにはお見通し。


 そして、何より堪えたのは目標金額到達ならず、という事。


 原因はハインの雇い主である学生の側にあった。事あるごとに給与の入った封筒を渡す前に「雇用保険で差し引いてある」だの「最終日には全部戻ってくるから」などとのたまい、ハインは結局それらの差額にありつけなかったのだ。要するにしゃらくさいピンハネをくらってしまったわけである。


 背伸び気味の目論見は哀れ水泡に帰し、歯噛みしながら安価に事を済ます事が可能な手芸へと計画を移行した。無論、これもサモアールたちの入れ知恵によるものである。


「いいようにオモチャにされてんな、お前な」


 マルティンは苦笑しながら言った。


「とは言っても、試験通れば来年には進学課程行き。今年が最後の、分校でのクリスマスだもんな」


 頬杖をつきながら、マルティンはデスクの筆記ノートをどけ、『てづくりハンドクラフト』『黒い森の魔人カーディガンおばさん』『毛糸玉8526分隊独立奮戦記』をぱらぱらとめくった。 


「転学、卒業、んで就職したら定年退職……で、そしたら最後に誰でも死んでおしまい。人間の人生……いや、時間っていうのはな、その連続なんだよな。映画のネガフィルムみてーにカシャコンカシャコン、ほとんど継ぎ目もなく継続する連続体」


 怪訝な顔で見返すハインに、マルティンは普段の放蕩男然としたふざけた笑顔をみせた。


「妙な顔すんなよな、おかしな宗教の教義を喋ってるわけじゃあねーんだ。むしろ逆だよ」


「逆?」


「ああ、そうだ」


 そのおかしな宗教に捕まらない為のちょっとしたコツだよ。マルティンはいつも通りの飄々とした口調だった。


「さっきも言ったように、オレは今のお前を罰するような気はない……が、調子こいて同じことしようとしやがるつもりなら話は別だ。言う事聞けない守れないってんなら、やる事ぁひとつだけ、かわいい弟と二十四日(イヴ)を同じ部屋で過ごす事だぜ。たった一日の外出禁止で済ますなんて、おれァなんて寛大なんだろうな」


「滅相もない!」


 小動物のように縮み上がり、青褪めるハインを横目にマルティンはケラケラ笑った。


「あー……そうだな。なあ、ハイン。お前は何で生きてる?」


「はあ?」


「難しく考える必要なんてない、何で生きてるか、だ。根拠はあるのか?」


「いきなりそんな事言われても」


「それじゃ神様はなんて仰ったか。人はどこからきてどこへ向かうのか? カインがアベルを手にかけ、アダムとエヴァは蛇の奸計で楽園を追われ、生きながら罪深いオレたちは救世主(メサイア)や勇者の自己犠牲を経て、升天のさまを心に刻みながら毎日をつつましく暮らせ。で、ハインは実際神様って見た事あるか?」


「ない」


「当然オレもない。大昔のエライ人が天国だと思ってた雲の上には真っ暗い宇宙が広がってるし、シナイの山は単なる岩山。神様や救世主(メサイア)の仰る通りの事を律儀に守っているような奴が、この帝国じゅうに何人いる? 口先だけじゃあだめだ。心から。自分は信心深いから、もし世界が疫病とイナゴ飛び交う滅びに瀕したとしても、暗い宇宙でふわふわたゆたう白髭のじじいに救けていただく事ができるだなんて、今の時勢にどれだけいる? 今じゃパンも葡萄酒もその辺のガキが買えちまうし作れちまう。人間は火の次に財と、それに知恵を広く得たんだよ、ハイン」


「人が神様から離れたって事?」


「知恵を持った人間が神を殺したのさ」


 曰く神とは全知にして全能、あまねく宇宙に君臨する絶対的存在。


 七つの層の織りなす天界、その至高の座にて地上を見下ろす究極概念。


 だが、それは人間の想像から派生した創作の概念に過ぎない。事あるごとに流浪の民に無慈悲とも思える試練を与えるのも、我慾で穢れた地上を洪水で浄め流すのも、そして天より自身の化身とも言うべき勇者――――救世主(メサイア)を遣わすのも神なる上位の人格であり、また人間が組み上げた精緻な土細工。長きにわたる拝火との諍いに終止符を打った東西大陸人は、中世期とは比較にならぬ速度で技術刷新、いわゆる産業の大革命を経験し、世に蔓延る虚飾を啓蒙の業火で焼き払っていった。


 神によって暗幕で隠されていた世界の構造は、科学という現代の刃の一振りによって衆目に晒される事となった。幾万幾億にも及ぶトライアンドエラーとその集積。そして証明によって、先人たちがこぞって作り上げてきた機械仕掛けの神を解体しにかかったわけだ。


 炎を起こす御手は指ごとに分解され、製鉄を司るトバルカインの御魂は数百数千等分された。人々が死後に裁かれ、そして昇るという天界なる異世界は、天文学と占星術によって二束三文の土地に成り果てた。恐らく今は低級の悪魔が雑魚寝する空き地になっているだろう、いかに物好きとてそんなところを終の棲家にしたくはあるまい。


 生産の巨大化と大陸思想の合理化によって、神なるものは断頭台へと送られた。


 痛みと貧困を強い、子羊と称して民衆を愚弄し、搾取の対象に貶めた神なるものを作り上げた先人たちの法もまた放棄された。


 近代から現代にいたるまでの歴史において、その背景にあった東西戦争、そしてキャメロット事変が人々に大きな心理的影響を与えたであろう事は想像に難くない。史上類を見ない範囲にまで拡大し、数十万人規模の死者を出した世界大戦、そしてこれを発端とする経済恐慌。神の不在のまま地上は冥府と化し、人々は救いを見いだせぬまま血と糞の発酵した沼のごとき惨状に何の準備もなく投げ込まれた。


 皇帝は恥辱にまみれながら死に至り、装甲車両はケンタウリを轢殺し、機関銃は武器持たぬ拝火の列を血煙へと変え、兵士たちは塹壕の中で朽ち、飛竜がその死肉をついばみ喰らう。やがて帝都シュティレンヒューゲルは巨大隕石の落着により焦土と化し――――最後の審判(ハルマゲドン)もかくやと言うべき災禍が幾度となく帝国を包み込んだのだ。


「縋るモノのなくなったオレたちは、それからどうすればいい? 今の今まで居もしない神や救世主に従って生きて来たのに、明日からどこの誰にお祈りすればいい――――人間ってのは、こういうものなんだ」


 縋る相手が欲しい。なぜか? 怖いからだ。何が? 戦争が、疫病が、災厄が。殺し殺され死に死なれが怖いからだ。


 だからこそ恐怖を畏れ、死を極力タブー化し、人々は従来神と呼ばれたシステムを構築し、これを広く伝えた。清貧であれ、禁欲を是とせよ、エトセトラ、エトセトラ。高度に、そして綿密に入り組んだ、いわば機械じみた教義ドグマの塊はやがて半ば必然的に、社会体系と同化を果たす。高次化した社会構造に自己の安寧を求めた人々は暴力を委任し、相互に社会構造におけるプロトコルを了承した相互を承認する。新たに国家集合体として地上に君臨する。ごく自然に、偶発的に。まるで、あたかも人々の内々に埋め込まれていた種子が太陽を目指して芽吹くように。


 行われるのは、崇敬と畏怖を集めていた天界という虚構の代替わりだ。恐怖を背負った人々の拠り所が、神の愛ではなくなっただけだ。


 世界観、そして常識的観念、価値観を共有した人々は、相互に同じ仮面ペルソナをかぶせあう。構造を成り立たせるために相応しい役者として、相互の恒久的平和の実現の為、人々は互いに『斯く在れ』と命じ、暗示を与える。総員が天界をかたちづくる、模範的な住人であるがために。


 人々は常より神なるもの、天界なるものを求めてやまないのだ。


「でもな。それは別におかしくもなんともない事なんだよ。怖いの何て当たり前だし、色んな人間が安心して暮らせる世の中……社会の中で生きる、それをおかしいと思わないなんてのも当然だ。それが普通なんだ、すこしもおかしくなんかない。みんながみんな、仮面(ペルソナ)をかぶって生活してる。オレはマルティン・シュヴェーグラー、この分校の職員としての仮面をかぶってる。ハルヴァもカーシャもゼフィールも、それぞれオレ達の前に姿を現す時には、自分の立場にふさわしい仮面をかぶってる。ハイン、お前もきっとそうだ。ハインリッヒ・シュヴェーグラーを、お前は役者として演じてる」


「ちょっと……よくわからない、ペルソナってどういう事なの」


「お前、ゼフィールの目の前で下半身マッパにはならんだろ?」


「どんなに頭がふやけてもしない」


「極端な例だが、そいつがペルソナだよ。社会的構成因子の一つとして、また合理性を追求した上で個人個人をリソースとして捉える為に必要な共通事項。自分の部屋から一歩外に出たら、例えばものを買うのには金がいる。これは経済に参加する為のペルソナ。職場について、上司と目があったら元気よく挨拶。これは円滑に職務を遂行するためのペルソナ……」


「……悪いんだけど、ちっとも頭に入ってこない」


「いいんだよ、聞き流しとけ。今夜はお前を褒めてやってるんだ、意味はわからんでも喜んどきゃいい」


 とは言ったものの、まるきりの五里霧中、暗中模索の暗い海に放り出されたような気分でもない。曰く、マルティンの言うペルソナ――――日常の生活を送っている際に出くわす場面スケーネに応じて、役者たる自分たち人間が付け替える感情の仮面という概念。均一化されたモデルに沿った人間像であり、金型のようなものと言ってもいい。


「でもな。残念ながら人間は悲しい事にイキモノなんだよ。肉のみならず酒を喰らい、糞撒き散らすわそこらで寝るわ……金型通りに随時いつもそうしていられるわけじゃあない。ままならない事があったり、理不尽に出くわしたりしたら――――ペルソナに亀裂が入る。白い能面にバックリとクレヴァスが奔るんだ」


 言って、人差し指であかんべえ、マルティンはおどけるような仕草をした。


「その時初めて、人間は仮面の奥の生身で自分を取り巻く世界を見る。役者が役から降りて素面しらふになる。ままならない四面楚歌は、人間を構造的な世界から可能性の次元へと引き上げてくれる。打ち当たった困難へ立ち向かう為の可能性を提示してくれる。否、いやがおうにも分岐に視線を向けさせられる。今、たった今、この刹那で、ここにいるハイン(オレ)はどうするべきなのかと」


ハイン(ぼく)が、どうするべきだったか……?」


「結果、お前はペルソナ(校則)なんぞクソッ喰らえとブチ割って、男の体面取り繕うのにインチキ内職に必死こく事になったと」


 ああ、やはりばつが悪い。そう並べ立てられると余計に情けなくなるというものだ。


「いやいやいや、だがなあハイン。オレが嬉しいのはそこなんだぜ? 取り立ててなーんにも面白みのないヘタレのハナタレってわけじゃねえって事がわかったんだ。それだけでオレは満足だよ」


 唇をにやにやさせながら、やがてマルティンはズボンのポケットから革の長財布を手に取った。金具を外し、数枚の1000マルク紙幣と一枚の紙をハインに差し出した。


「当面はこれで足りるはずだ、適当に洒落たアクセでも見繕ってこい。で、こっちは……」


「ちょ、ちょっと待って……!」


「何だよ。足りねえってのか」


「そうじゃなくって……う、受け取れないって言ってるの」


「野暮な事言ってんじゃねえよ、餞別くらい黙って持ってけや」


 マルティンは紙幣と共に差し出した紙を広げて、その文面をハインに見せつけた。銀行の口座開設の案内書と、その承諾書だった。


「お前の頭だったらベルリンだろうがどこだろうが、進学先は選び放題だ、そこは保証する。で、これはその生活費もろもろだ。ヘルヴェチア銀行のプライベートバンクだ、たとえ第二次東西大戦が起きようがびくともしねえ。贅沢しなけりゃ大学出てからもそれなりに暮らしていける」


 マルティンは、いい機会だからなと付け加えた。


「目の前で自分の弟が女の前で立てた目標相手に潰れるのを見るのは忍びないからな」


「でも……」


「こまけえ事気にしてんじゃないだろうな、本来だったら目標の額に届いてたんだろ? だったら気に病む事はねえ、ピンハネされて逃げられて、血管ブチキレそうになりながら道歩いてたらドブにカネが挟まってた。周りにおまわりもいないんでくすねた。それでいいじゃねえか。お前は『可能性に勝った』んだよ」


 わしわしマルティンはハインの髪をかきまわし、紙幣と承諾書を彼のベストの内へ強引に押し込んだ。


「ここまで膳立てして、だせえヘマして嫌われるんじゃねえぞ? ハイン。やるからには勝て」


 兄は席を立ち上がった。ふたたび雪の勢いが強まってきた窓の外を見ながら、


「オレがお前くらいの時だって似たようなもんだったよ。女相手にぞっこんになってな。頭がそりゃあもう鳥目になっちまって」


「なんか、意外かも」


「そうか? お前自分と相手の苗字組み合わせて遊んだり、自分の子供に付ける名前を探して辞書めくったりしないのか」


「しないよ」


 と一蹴したものの、実のところは嘘である。どうせその拙い強がりも看破できているはずなのに、マルティンは相変わらずハインの仏頂面を見てにやついていた。


「どうせなら強い英雄みたいな子供がいいとかでさ、アルベリヒとかジークフリートとか。考えたりするだろ、図星だろ?」


「大体兄さん、誰とそんな事話してたんだよ? まさか、その女の人相手じゃあないだろうね」


「……」


「……ウッソでしょ」


 マルティンは、何も応えなかった。




 さて。資金の工面はこれにて解決し、その後無事に目標のプレゼントは用意する事ができた。


 しかし、ハインは手芸そのものは続けてみようと思った。


 もとより細かい作業は嫌いではなかったし、こうして編み棒を手に毛玉と格闘するのは存外面白い。時間を忘れて没頭できる。それに、明確な着地点がみるみるかたちとなって表れてくるのはわくわくする。最初は目の粗い、終いには真中までほつれてしまったこげ茶のストール。今は、それなりの慣れをもって空色のマフラーの作成に着手していた。


 本心としては、ゼフィールに身に着けてもらえる何かが自分の手から、この創作意欲から産まれるのなら、それ以上のものはないという、下心がなかったわけではないのだが。事実、ストイックに作業に没頭しようとしたところで、柔肌とゆるやかな双丘を包むライトブルーのブラウスがつい脳裏をよぎる。ともすれば冷ややかな、しかし表情豊かに感情を表すゼフィールの快活な容姿が、明滅する星座のごとく浮上する。


 ああ。そうだ。そうだった。


 あんなにも好きだったんだ、ゼフィールの事を。一時のちっぽけな、吹けば飛ぶような疑似恋愛感情に過ぎなかったのだとしても。あの時、あの刻一刻にあったハインの魂は、きっと今とは比べるべくもなく明朗に燃え上がり、マルティンの言うように視野狭窄へ陥っていたはずだ。


 ゼフィールの記憶は、今では既に彼女の向けた鈍く輝く鉛色に覆い尽くされていた。



「ういういうー、シャワー空いたぞ」


 指摘をしたとて相も変わらず、ホリゾント学徒寮での同居人クルト・バヴィエールは脱衣所でバスローブを羽織るという事を覚えない。腰にバスタオルを巻いたままふらふらとスリッパ履きでリビングへやってくる。片手にはガラスのコップ、もう片手には深い緑に透けるビール瓶。


 産まれてこの方泥酔した経験がないなどとふざけた事をのたまっていたが、どうやらあながちウソでもないらしいのが実に珍妙である。きんきんに冷えたビールを駆けつけ一杯とでも言いたげに、ぐびりと喉を鳴らしてコップの中身をあっという間にカラにしてみせた。


「何やってんの」


 ダイニング前のテーブルに腰を落ち着かせ、ようやく飲酒のペースを落とし始めたクルトはようやくソファで作業に勤しむハインへと視線をやった。


「編み物」


「見りゃわかる。そこまでアルコール漬けになっちゃいねえ。なにゆえ編み物なんだい」


 道具一式を詰めたバスケットと、せわしなく動くハインの指先を交互に見て、怪訝そうにクルトは尋ねた。


「オレの知らない課題でも出てたとか? 勘弁してほしいぜ」


「趣味なんだ。読書と同じくらい集中できて、お金もほとんどかからない」


 ここらで小休止かな。ハインは編み棒を止めると、目と目の間をおさえた。


「四月だとは言っても、まだ冷え込む日はあるしね。マフラーでもあったらいいかと思って」


 バスケットの毛玉を覆うように載せてあった水色のマフラーを、ハインはクルトに投げてよこした。いくつもの犠牲を経、数々の屍の山を踏み越えてついに至った、目立つミスのない完成品だ。


「よくできてるもんだなあ。フカフカだ」


「使ってくれるなら、あげるよ」


「いいのかい? もらえるもんは病気と借金と喧嘩以外全部もらうぞ」


「そんな大層なものでもないでしょ」


 ハインがくすくす笑う一方で、当のクルトは半裸にバスタオルとマフラーというイカれた出で立ちと化し、その上で下唇を噛みながら何やら思案していた。


「ふむ。そうだな」


 何やら思い立った様子で、クルトは二杯目のビールを飲み干すと自身の勉強机に向かった。迷いなく引き出しを開け、中から何やら取り出すと、今度は彼からハインに向けて品物を投げてよこした。


「ほら、やるよ」


 顔面の正中目がけて飛来してきたそれを、ハインは掌でぱしりと受け取った。


「これ……ロザリオ?」


「くれてやれそうな面白いもん、持ってなくてよう。しばらくはそいつを担保って事にしといてくれや」


 手の中の十字のメダイの材質は金属でも鉱物でもない、蜂蜜に近い色をしており、粘液が硬化したような質感だった。そうだ、固まった樹脂に近いのか。しかしゴム質とも違う……室内灯に透かしてあれこれ観察するハインに、クルトはそれが琥珀でできたタリスマンだと告げた。


「義姉さんが土産だってんでくれたんだよ、大昔に固まった樹脂が化石になって、宝石みたいになったんだと」


「そ、そんなの貰えないよ。担保だって、冗談じゃない! 釣り合ってさえいないじゃないか」


 以前にもこんなやり取りをした記憶がわずかに呼び起こされ、ハインは少しおかしみを覚えた。


「構いやしねえよ、オレがいいって言ってるんだからいいのさ。君のこれは実に具合がいい、手触りも香りもオレの好みなんだ。市販の毛玉使ってるとは思えないくらいだ」


「編み棒も毛玉も、寮出てすぐの街道沿いのお店で買ったの。普通のマフラーだよ」


「普通だろうが何だろうが、オレはこれが気に入ったんだよ……何だよ、そんな妙なツラしないでくれよな。いいじゃねェか、あの物好きな義姉さんの眼鏡にかなうような代物だ、きっとご利益がある」


「あのさぁ……」


 やれやれ、と。


 心底このヒネた同居人に呆れ、よしきた自分も呑んでやる、といった仕草をさりげなく見せた。


 ソファから立ち上がる瞬間、ハインはクルトに感づかれぬよう、マフラーから伸びるほつれた糸――――ハインのほかには見えぬ不可視の弦――――を、親指の爪で切断した。


 わずかに切断時に痛みが手指から前腕部に伝わるも、髪の毛一本を抜くほどのものに過ぎない。


 この行為によって、異能の弦を用いて編まれたこの水色のマフラーは、正真正銘市販の毛玉で編まれた、ごく平凡な装飾品へと回帰した。


 顛生具現、その能力の一端たる『弦』。精密性、そして基礎能力をより研磨するべく、エミリアからの提案でハインは暇を見つけてはこうした訓練に耽っていた。ベルンハルデに手ひどく痛めつけられた経験は、今なお苦々しく新鮮な痛みの記憶として身体に刻み込まれている。それを糧とし、やがては騎士団全員を打倒する為。一日も早く『抜刀』なる高みへ至る為の鍛錬であり、またハインの自我と(ペルソナ)の関係を安定させる『日常』でもあった。



ハインは再度異なるペルソナを張り付けてから、『日常』なる社会構造へとまたも埋没していった。

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