瘴気の刃
森林の如く並び立つアパートメントの間を縫って、細身で小柄な身体が壁面ぎりぎりを滑走する。白手袋に包まれた右手指の付け根からワイヤの特性をも有した『弦』を射出し、硬質化した先端部を壁材や樹木に打ち込んで、もしくは巻き付けて自身を引き寄せる。ワイヤの軌跡は白銀に輝き、放物を描いて薄暗がりを切り裂いてゆく。
むかし読んだ冒険小説に登場する野生児が、こうして木々の生い茂る密林を、木立から木立へ飛び移り、縦横無尽に駆け回っていた。時にかれは樹上から垂れさがる蔦をわし掴み、蔦から蔦、崖から崖にも軽々移動してみせた。そんな貴族の血を引く破天荒な野人と同じ、もしくははるか高次元な事を、今のハインはやってのけている。
羽織った黒のジャケットの表面をこすりながら、同年代の女子ですら潜り抜けるのが困難であろうすきまを、ハインは勢いを殺さずに滑りぬける。
精肉店と仕立て屋の看板が並ぶわずかな間を通過した際、鉄製の看板フレームに髪が触れた感覚が、未だぞわぞわと残っていた。突起物に接触でもすれば、衣服ごと肉がこそげ取られるほどの速度で、しかしハインは恐れを噛み殺して、その身を弦の先端へと引き寄せていく。
加速したその身の慣性を殺さず中空に躍り出ると、すかさず次の弦を左手から射出する。先端は視線の先にある、建設中のビルの鉄骨に結びついた。右手の弦を任意で切断すると、続いて左手から伸びる弦を利用して身体を鉄骨へと引き寄せる。
その様はさながら、ヒトに相対したトビネズミによる決死の逃走。その身に秘める闘志だけでは、恐らく正面から追跡者を撃退する事は不可能といえた。
斜陽をまばゆく反射する窓ガラス、薄暮に染まるコンクリートのビル壁、街道を人工的に彩る街路樹、石畳のモザイク。瞳に流れ込むありとあらゆるすべてが、視界の端に駆け抜けていく。風を切る音だけが、ハインの聴覚に届いていた。
作業用のブルーシートの隙間を縫い、鉄骨組みのビルの狭い足場に降り立つと、がくりと腰から力が抜けた。膝をつくほどではないものの、不快な疲労感が腸に重々しくのしかかっているようだった。
高さは少なく見積もっても六階建て相当、強風の吹きぬける音がごうごう響いている。仮に転落したとて、死ぬほど痛いだけで死にはしないんだろうな。ぺしゃんこのばらばらになっても。そんな戯言が浮かび、しかし無為に痛い目に遭うのはもうごめんだと、ハインは数本の弦で足元の鉄骨と自分の腰を支える事にした。単なる糸くず風情とはもはや呼ばせまい、出自に関してハインが望もうと望むまいと、『弦の能力』に精通しない限りは、明日の日の出は拝めない。
支柱となっている一際太い柱に背を預け、深呼吸をする。能力の使用によって消耗した魔力がこの程度の小休止で十分に担保できるわけではないが、絶え間ない連続使用が小さくない負担を身体に強いるであろう事は、異能の源泉たる聖剣を身に宿して数ヶ月のハインとて理解していた。
後戻りは、もうできない。闘らなきゃ、殺られる。
追跡者――――ベルンハルデ・ヘンシェル。ブルネットの長髪を腰まで伸ばした、ホリゾントの優等生。紺の指定制服に袖を通し、控え目に優雅な微笑みを野次馬に返すその様は、文句の付けようのない無欠の美少女。マグダレーネ・ヴィトゲンシュタインと並んで、彼女は入学早々学園の名花としての地位を確かなものとしていた。
そんな愛嬢の、生徒や大学部の人間からの好奇を一身に受ける彼女の美貌の裏側、白鳥のような聡明さを盾にしたおぞましい嗜虐性に、ハインは立ち向かう事を決断した。彼女のペルソナの奥に潜む、鋭利な突剣の如き悪意との対峙を選択したのだ。
宣戦布告、と言っても差し閊えはない。
ハインの決意とは、正面切ってベルンハルデ、ひいては十三騎士団のほぼ全員を敵に回したとも同義であった。組織の悲願成就を真っ向から否定し、その意義さえも喪わせかねないほどの行為。
ベルンハルデはその報復の念にかられ、また同胞であるハインへ制裁を加える名目を得た事で、歓喜と憎悪が入り混じった激情を発露させていた。
かねてよりベルンハルデは新参者を疎ましく思っていたようだし、ハイン本人も先日の私刑から彼女を善く思ってはいなかった。しこたま殴りつけられた挙句に後頭部を大刀の峯で殴打され、次は錆びた剣で肩を貫かれた。加虐による優位のもたらす甘露を、さぞかし美味そうに奥歯で磨り潰して味わうベルンハルデの表情は、昨日の事のように思い出せた。
その下卑た表情に、笑みで細まる両の眼に、刃を叩き込んでやる。
胸くその悪くなる微笑みを、この手で歪ませてやるんだ。
肺に留まっていた淀んだ空気を入れ替えると、幾分かぼやけた視界がましになったような気がした。次にハインが目にしたのは、ホリゾントの黄昏時を煌々と照らす納魂祭の灯りだった。都市中央を貫く五本の基幹街道と、その周囲を結ぶ環状街道は、日没に伴って老若男女の酒盛りの場と化す。高所からだと、紺に染まりゆく街に円形の灯りが浮かび上がるのがはっきり見えた。
真下――――骨組みのビルのふもとでも、酒瓶だのジョッキだのを手にした連中が品なくげらげら笑って盛っていた。揃いも揃って赤ら顔をして、家内のご機嫌取りが面倒だの、得意先の取締役の相手に気が滅入るだの――――息子が晴れてホリゾントで博士号をとっただの、娘の縁談がようやく上手くいきそうだ、だの――――
ここまで駆けてくるなかで、同じクラスで見知った顔もちらほら目にしていた。
幼いころからの親友と、新たな環境で出会ったクラスメイトと、偶然趣味のあった異性と。
アークソードの見下ろすホリゾントの地で、彼らは思い思いの時を過ごしていた。
そんな情熱と喧騒の中に、なぜ僕は入っていけない? 納魂祭のさ中で、どうして僕は――――誰かを殺す事ばかりを考えているんだ? 僕だってお酒を飲んで、肉を味わって、祭りに酔ってしまいたいのに。
押し込めたはずの不快感が、再び鎌首をもたげ始める。今度は、純然たる戦意ではなかった。胸元までせりあがってきた感情の正体は純粋な羨望であり、また嫉妬でもあった。本来ならば、こんな見知らぬ街まで来て殺し殺されに興じるはずがないのに。
どうして。なぜ。なぜ僕なんだ。
どの店を覗いても、どの街角を見ても、どの建物のどの窓を見ても、誰一人として血腥い惨状にはいない。誰もが繁栄と豊作を願う祭りの中で沸き立つように歓楽を享受し、色めきだっていた。誰もが、ハインの世界に背を向けているようだった。
否。ハインただ一人が、総体から非日常に引きずり込まれただけだ。そして、十三騎士団の悲願に弓引いたという事実が、ハインをより深い泥濘への埋没へと誘っていく。そこにわずかな後悔の念があったのは、ハインの決断が一人の女性の情に深い爪痕を刻んでしまったのかもしれなかったからだ。
同胞となったハインを、唯一物腰柔らかく受け入れたアガーテ・オレンブルクの存在が、何より疎ましかった。思えば、これまでの態度が彼女の本心からだと断定できるわけではない。しかし、そうして彼女を跳ね除けられるほど、ハインは孤独に慣れていなかった。
――――もう、哀しい事はこれっきりにしましょう。あなたには、できるだけ辛い思いはさせたくない。私とブフナー卿が、必ずあなたを守りますから。
だが、跳ね除けざるを得なかった。
差しのべられた手を払いのけ、ハインは決別を宣言してみせたのだ。
家族だったものを贄として殺めるのではなく、生身の十三騎士団の首を差し出す事で『儀式』を完遂させる、と。
もしかしたら、アガーテは本当にハインを想っていてくれたのかもしれない。本当に共和国に小さな家を用意してくれていたのかもしれないし、本当に十三騎士団の方針には反対だったのかもしれない。
しかし、一切は既に別離の壁を伝って流れ去るのみ。真偽を確かめるすべなどはもはやなく、ハインにもその気はなかった。一刻も早く、彼女を殺すべき敵として見なす事で、尾を引く後悔から解放されたかった。
目の奥が痛み、まばたきをすれば潤む両の眼から瞳の色を宿した涙の玉が浮かび上がる。ハインは手の甲でそれを拭うと、奥歯を噛み締めてふたたび『弦』の支点となるべき地点へと目を向ける。当たりをつけたビルの突起目がけて弦を射出しようとした、その時。
O Haupt voll Blut und Wunden,
垂れた頭は朱に濡れて
Voll Schmerz und voller Hohn,
蛇の罪は茨冠となりて、穢れを負いしみかしらを、紅き血潮に染め上げる
O Haupt, zum Spott gebunden Mit einer Dornenkron',
骨軋ませるのは獄鬼の責苦。皮を裂くのは家畜の責苦。身を縛るのは六道罪科
O Haupt, sonst schön gezieret Mit höchster Ehr' und Zier,
我が抱くは堕天の証、かりそめの叡智を賜り神を謳った驕りの償い。我が懺悔は他ならぬ神の子らの為に
Jetzt aber höchst schimpfieret: Gegrüßet sei'st du mir!
我らは罪の子、嘲弄にまみれし痴愚なる血は、今なお砂漠の白を淀みで覆う
歌唱だ。
顛生具現の理を周囲に、そして術者自身にも広め、妄想の具現化を現実のものだと曲解させる暗示としてエンコードがなされた詠唱だ。術者の練度に基づく有効範囲内に限り、相対する者の鼓膜を通してではなく、思考に直接歌声を流し込む。聖遺物たる聖剣の包括する圧倒的な密度と覇によって仇なす存在を制圧せしめる軍歌であり、賛歌とも言える。
数千、数万、数億分の一秒。意図して観測する事の叶わぬ、模糊なる一瞬のうちにハインの聴いた詠唱の歌い手は女。逃げ惑うトビネズミを追い回し、怜悧な鉄面皮で覆われたサディズムを隠そうともしない、あのベルンハルデのものに間違いない。
表情をさらに険しいものとしたハインは警戒を強め、周囲の建造物に弦を走らせる。入り組んだ鉄骨、隣接するビル、蜘蛛の巣の如く放射状に張り巡らせるが、一目で弦の形作る不規則な紋を確認する事はおよそ不可能に思えた。移動に用いた弦よりも更に細く、そして剛性を増して展開したものだ。感覚の延長でもある弦の結界は即席の探知機であり、また鋭利な刃の代用にもなりうるトラップでもあった。
風向き程度であるならば察知できる程度には、ハインの能力の練度は向上していた。より正確に、よりしなやかに、より精密に――――わずかな大気のぶれさえも逃さず、精神を集中させていく。
しかし、仮にベルンハルデの攻撃を予知できたとしても、手数と経験の差はそんな吹けば飛ぶアドバンテージを容易く粉砕してくるはずだった。となれば、まだ直接闘りあうには早い。『手筈通り』、ここを離れて迎撃の用意を改めて整えるべきか――――
「まだ鬼ゴッコを続ける気なの?」
ぞぷりっ
ねばつく水音が身体の内側から響いたのは、嘲笑するかのような問いかけと同時だった。
「――――――――!!」
直後、弦を操っていた左手に灼けた鉄を当てられたような激痛が奔った。痛みは脈動に合わせて並の如く迫り、手首から肩にかけてまでがぶるぶる引き攣った。
左の掌には、三十センチほどの細身の銃剣が突き刺さっていた。第三、第四中手骨のすきまに詰まった皮や筋肉を割り開き、黒光りする鋭利な刀身は無骨に、そして無遠慮にハインの華奢な手を貫いていた。白手袋の生地はみるみるうちに赤黒く染まり、五芒の方陣も、白銀の『弦』もかき消えていく。
ハインはすぐさま迷いなく銃剣を抜きぬき、無事なままの右手からの『弦』でその場を離れた。傷痕からこぼれる鮮血は勢いを増し、先ほどまで立っていた箇所に大粒の血痕が飛び散った。
「まだ逃げるわけ? いい加減うんざりなの、そっちからふっかけておいてどういうつもりなのかしらね」
詠唱ではない、ベルンハルデの肉声が確かに耳に入った。
あの拙い弦の結界を展開しようと思った時点で、彼女は既に自身の能力の有効攻撃射程に相手を捉えていた。しかも、幾重にも巡らされた硬質の弦の守りをすり抜けて――――
否。ベルンハルデの放った刃は、決して罠を掻い潜るなどという芸当は見せなかった。それは絶対的な強者の威圧を以て、格下であるハインに畏怖を与える為か。
肉を腐らせ、骨を溶かし、大地を殺す瘴気を宿した霊呪の剣。いかに異能の力によって生み出された『硬質の弦』とて例外ではなく、文字通り刃は罠ごとハインの手を突き破った。
瘴気の与える損害は、例え『弦』が能力の産物であろうともおかまいなしにハインの身体を蝕んだ。直接的な手の傷に加えて、弦の損傷もまた無視できない被害をもたらしていた。身体の延長である弦は自切、もしくは単純に切断されたとしても、髪の一本を犠牲にするのと同じ程度の刺激とほんのわずかな魔力損失が発生するのみ。しかし、それとは異なりベルンハルデの瘴気は鉤爪の如くハインの傷口を犯し、痛覚をいたずらに捏ねくり回す。髪一本を抜く程度の痛みではなく、錆びついた包丁で生皮を削ぎ取られていくような苦痛だ。
刃が肉に触れている限り、毒が傷口に残る限り、腐敗と滅失、生物にとっての毒のもたらすイメージを恒久的に与え続ける。罪科という呪いを課す、鏖殺の刃。
それがベルンハルデの顛生具現の一端、『帯刀』であった。
「さあ、ハインリッヒ君? だるまさんになる覚悟はできたかしら。二度と喋ったり聴いたりできないようにしてあげる」