モーテルの跡地かどこかで
ハインリッヒ・アルベルト・シュヴェーグラー 22/03/1932
次に目が覚めた時には、既に上半身を起こす事ができる程に身体が回復していた。
不調を引きずるような寝起きではなく、それでいて眠気を残さぬすっきりとした覚醒。
あれほど重荷にしか感じなかった四肢も思った通りに動かせ、今迄寝たきりだった事による運動不足からの、筋肉のじれったさのようなものすら感じる。とにかく、身体を動かしたい。運動がしたい。
数日ぶりに自分の足で床を踏みしめんとベッドを立とうとするが、はらりとかけられていた薄手の毛布が落ちると、ハインは驚愕してそれを拾い上げた。今の自分は下着すら穿かされておらず、一糸纏わぬ裸体だったからだ。周囲を見回すも、部屋にクローゼットや脱衣カゴにあたるものはない。電灯の乗った引出し付の小机がベッドの傍らにあるのみで、体を覆えそうなものはベッドシーツか毛布のみ。
仕方なく下半身だけを毛布で覆ったまま、ベッドに腰掛けたハインは改めて状況を反芻する。
カール・クレヴィングはいない。
幼馴染のゼフィールに銃撃された際の傷は、わずかな皮膚の張りを感じるのみでほぼ塞がっていた。身体のどこにも目立つような傷はなく、コンディションはいたって健全そのものだった。
胸部の中心よりやや左に、痛みこそ感じないものの、小指大の傷跡があるのに気付いた。手術の経験などはないし、あの時ゼフィールに撃ちぬかれた覚えもない。
控え目なノックの後に、ゆっくりと部屋のドアが開かれた。
はっとしたハインの視線の先には、かれと同い年ほどの少女。小柄なハインよりかは少し彼女の方が背の丈は高いか。彼女もハインがすでに覚醒していた事は予想外だったらしく、目を二、三度瞬かせた。切れ長の双眼から覗く深い蒼の瞳が、長い黒の睫毛から見え隠れした。
おそらく清拭の為であろう白いタオルと湯の注がれたボウルを載せた盆、そして黒い革の張られたトランクを片手に、彼女はハインに一瞥をくれ、つかつかと歩み寄ってきた。
「おはよう。もう、私があれこれする必要はないわね」
事もなげに、彼女は無表情のまま盆を傍らのテーブルの上に置くと、足早に部屋から出ていこうとした。
「ちょっと……ちょっと待ってください、あなたは……」
狼狽ぎみのハインの声に対し、少女は眉ひとつ動かさず気だるげに言った。
「『Ⅲ』、ベルンハルデ。ベルンハルデ・ヘンシェル」
簡潔に序列と名を述べると、ベルンハルデは背中まで伸ばした黒髪を翻し、そそくさと退室していった。
無論、ハインとて聞きたい事は山ほどあった。ここはどこか、自分はいまどんな状況に置かれているのか、そもそもあのベルンハルデは何者なのか。疑問符が浮かんでは消えを繰り返し、半ば混乱しつつあったハインの耳に、再びのノックの音が届くのはそう時間を置いてからではなかった。
「おや、これはこれは。ちょうどいい、お目覚めですね」
「おはようございます、『Ⅴ』」
続いて入室してきたのは、優男風のにこやかな表情をたたえた金髪の若い男。そして、黒髪の先端をうなじ辺りの位置で切りそろえた馬人の女性。両名ともに、各々の身体に合わせた意匠が施された黒衣をまとっていた。ブラウスに黒のネクタイといった根本的な構成こそ共通だが、女性の方は四本の肢に伸縮性のある素材からなるボトムスを穿いた上での着こなしだった。
「これは……いけませんね、ベルンハルデに着替えを用意するよう指示したはずなのですが」
男の言から、ハインは自信が上半身とはいえ裸体を来客に晒している事に頬を染めた。
「おお、こんな所に放り出して。いけませんね、彼はまだ病み上がりだというのに」
男はベルンハルデが盆を置いたテーブルの真下にそのまま放置されていた革トランクを手に取った。
「失礼、Ⅴ。お召しになられるまで部屋の外でお待ちしております」
ぺこりと頭を下げると、女性は静かに一時退室していった。
ドアが静かに閉まるのを見届けると、やがて男はハインに向けて金具をはずしたトランクを開いた。
「あなたに誂えられたものです。当面は、この礼服と普段着で我慢してください。ホリゾントの大きな街に移動すれば、いろいろ用意もできましょうが……何分ここは田舎です、申し訳ありませんが、これで」
トランクの中に納まっていたのは、平時の見栄えを考慮され、余計な皺の付かぬようきちんと折りたたまれた、彼らの纏うものと同じ黒衣。一見して、見る者の深層に威圧と畏敬を根付かせる、睥睨の意をも覚える軍装。ハインはそれに取り立てて見覚えもなかったが、確かにそうした思想を感じ取った上で、自分が少々萎縮しているのを覚えた。
「あなた達……帝国軍の人、なんですか? 僕を……助けてくれたんですよね」
「少なくとも、正規の部隊ではありませんねえ」
逸る気を抑えつつ用意された衣服に袖を通していくハイン。
「FCAという組織があった事はご存知ですか? ああいや、今の若い人は……もう知らないかな」
「すみません、昔そういう人たちがいたっていう事しか」
「『Befreien Sie Reichsbündnis』、それをブリタニア語圏の言語に合わせて読んだものが『Free Central Alliance』(自由帝国同盟)です。確かに発足して長らく帝国国防軍とも連携して活動をしていましたが……今の世の中では、それも難しくてですね……専らヘルヴェチアに引きこもっている事の方が多いのですよ」
「じゃあ、みなさんはヘルヴェチアの人……エルフ、なんですか」
「私は半分だけ。あとのほとんどは生粋の帝国人ですよ」
元来、東西戦争の折に帝国を中心とする西側への支援組織として成り立ったのが自由帝国同盟である。卓越したカリスマ性を有したとある指導者の指揮のもと、一説にはその私設戦力で正規国防軍を凌ぐほどの戦果を周囲に誇示したとも言われているが、共和国やブリタニアからの経済援助を現在でも受けている今の西帝国においては、最右翼の象徴と認識している人々も少なくない。
「私はヴァルター・ブフナー。よろしく、ハインリッヒ君」
ブラウスを着、ズボンを穿き終えたハインの目の前に右手が差し出された。反射的に握手のため自らも手を差出、かたく握り合った。
「募る話もあるでしょう。部屋を用意しておきますので、待っていますよ。トランクの中はすべて君の私物だと思って受け取ってください。準備ができたら、部屋の外のアガーテに声をかけて。いいですね」
そう言ってブフナーは微笑むと踵をかえし、途中で振り向いてふたたび和やかに一礼すると退室していった。
ベルンハルデと目が合った際には心臓を素手で握られた気分で、生きた心地がしなかったものの、今のブフナーや馬人の女性――――アガーテと対面したおかげで、いささか平静を取り戻す事ができた。
大きく安堵からのため息をつき、あらためてトランクの中身を物色すると、その安堵も仮初のものに過ぎなかった事にハインは慄く事となった。
揃いの上衣に制帽、黒の鉄十字、腕章――――
そして、黒々と輝くトグルアクション式自動拳銃。
『Ⅴ』と冠された序列で呼称された事に、今更ながら戦慄する。
少なからず信頼が芽生えようとしていたブフナーやアガーテに向けても、ぞわぞわと警戒の念が首をもたげてくる。
――――彼らは僕に何をさせようとしている?