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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
除幕
56/105

去りし日々への哀悼

17/04/1932

 生い茂る草木、植林されてから久しい並木が、過剰なまでに遊歩道をモスグリーンで装飾していた。深緑に覆われたこの天然の屋根のなか、耳に障る雑音はない。こげ茶のレンガで舗装された歩道を編み上げ靴のかかとがコツコツ叩く音、そしてカササギのさえずりだけが、まっ白な静謐さにわずかな彩りを与えてくれていた。


 意図したわけでもないのに、彼女がまとう衣服は上から下まで黒のビジネススーツだった。此度の参拝は、あくまで序での用件に過ぎない。しかし、このような喪服じみた風貌で参拝となると、未だに故人の影を引きずっている事を厭でも思い知る。彼女は誰に向けるわけでもなくはにかんだ。


 ホリゾントキュステの中央広場から徒歩でニ十分ほど、この聖マリアンヌ墓地は駅周辺から離れた若干の高台にあった。石造りのガーデンアーチをくぐれば、もう季節外れの喧騒と熱気は届かない。ぽつぽつと数人の参拝者とすれ違うだけで、祭りに浮かされた若者や泥酔者の姿は皆無だ。


 東西戦争の戦没者を弔う目的として建立されたこの霊園は、半世紀前に行われた大規模なホリゾントキュステ再開発事業の一環で用意されたものである。史上かつてない規模の世界大戦へと発展した東西戦争は、技術刷新と意識革命の萌芽を擁していた大陸社会に災厄と破壊をもたらした。


 1800年代中ごろより勃発したこの戦乱は、開戦から一年と数か月という非常に短い期間で終焉を迎える事となる。東方はオリエンス連合軍の電撃的進軍によって、対する帝国軍東部防衛線は瞬く間に瓦解。続く首都決戦においても大敗を喫し、陥落を許した。そして何より皇族の身柄を抑えられたのは、帝国が過去数百年保有していた覇権国としての威信を失墜させるに十二分な事由であった。完全に機能を喪失した帝国議会政府は、以後40年以上に渡って大陸政治から姿を消す事となる。


 連合側の速やかな大勝、そして局所的には飛竜騎兵(ドラグーン)の実戦投入に基づく塹壕戦の形骸化によって戦争の無用な長期化は避けられたとはいえ、二大大国同士の衝突による犠牲は、史上かつてない数にまで膨れ上がっていた。


 帝国側100万、連合側50万の兵士が前線で露と消え、また銃後の官民問わず負傷者は2000万人以上にも上った。大陸の人々を脅かしたのは、機関銃(MG)であり有毒ガス。こうまで犠牲者が膨れ上がったのは、ひとりひとり狙いを定める必要なく、有象無象を一挙に始末できる殺戮兵器が君臨していたからだ。のちに『殺しの見本市』と評されるほど、戦場では週またぎのペースで新兵器が兵の命をいたずらに食い散らかしていた。


 そこでは人も拝火――――『魔物』も区別はない。ただ同じように敵として見なされ、平等に死んでいく。人魔の争い、勧善懲悪というフォークロアがかけた魔法が解けたあとの世界で繰り広げられたのは、やはり戦争だった。真なる非戦の声は非戦を奥底で望む臆病風に握りつぶされ、ブレーキを失った抗戦気風は愛国という暗示となって銃後の民へも伝染する。


 その『流行り病』は近現代思想(ポストエピック)――――大陸文化圏と拝火との間に明確な差が存在しないという考えが主体とされる社会思想――――という啓蒙の光によって照らされたはずの民衆の中で膨れ上がり、ヒトと魔物、ひいては共同の社会参画が認められつつあった半人(ケンタウリ)との関係も悪化の一途を辿らせるまでに至っていた。


 形態の異なる者同士が形作る都市(ポリス)は、たった一言だけの扇動からにじみ出るわずかな毒素であっけなく滅び去ってしまう。そこで行われる虐殺と報復に悪こそなく、あるのは恐怖(ゼノフォビア)をねじ伏せる為に義憤を燃やす市民の正義感だけ。そこでは誰もがフォークロアの『勇者』であり、そして目に映るすべての異形が『魔物(フリークス)』なのだ。




「罪を犯した事のない者だけが彼らを非難せよ、か」


 若草色に萌える芝生は少し背が高いようで、まだ肌に冷たい春風のささやかなそよぎでざわざわ音を立てていた。


 不意に陽射しが途切れ、陰になった事が気になった彼女が視線を上へ移すと、そこには天を突く巨大な剣――――帝国ホリゾント型三号地盤隆起、通称アークソードが雲の切れ間目がけて雄々しく突き立っていた。正午を過ぎた事で、陽の位置がちょうどアークソードに遮られるかたちになったというわけだった。


「きみがいた頃には、あんなものはなかったな」


 戦没者の名を記す乳白色の石碑の前で、アミル・カルカヴァンは哀しげに笑った。


 黒曜のように艶めく漆黒の巻角、深い青の肌、黒の強膜の中央で輝く黄金の瞳。それぞれがアミルが拝火人だという証であり、彼女はその黄金色の双眼を以て、かつて行われた虐殺という名の疑似フォークロアを幾度となく焼き付けてきた。


 そのたびに彼女は拝火を魔物と忌み苛む西方世界を疎み、嫌い、憎悪し、しかしどこにぶつける事なく嚥下し続けてきた。彼女の立場における西方への報復が何を意味しているのか、幼い時分から重々理解していたからである。


 大陸人の根底に存在する升天教のドグマにある悪鬼、サタンの手先の賤しき魔物。状況によってはどんなに差別感情が薄らいでいようが、ひとたびその爪を振ってしまえば、その時点で西方人にとっての「自分たち以外の何か」は魔物へと成り下がる。死というものが身近になるにつれ、人々は保守・国枠主義的な性格を有するノイエヘレニズムに傾倒していった。その思想が内包するのは、やはり恐怖(ゼノフォビア)を逆手に取っての民族政策。拝火にとっての最大の障壁であるといえた。


 一方で、彼女は刹那的な衝動に突き動かされての報復だけは絶対のタブーとして、宰相を始めとする自身の部下には厳格に周知させていた。


 そんなアミルが静かに嚥下した衝動を封じ、雌伏に耐える事ができたのは彼女の器量によるものだけではなかった。拝火民族の円滑な西方社会参画、そして大陸世界の恒久和平の実現という途方もない夢物語が支えになったのも大きかった。行く先々で小馬鹿にされ、時には口が達者な魔物風情が何事かと一蹴されたものだった。


 眼前の碑に帝国古語の筆記体で彫られているのは、アミルの肩を抱き、そしてアミルの願いの末に若い命を散らした夭折の英雄――――旧友であり戦友の名。


『ラウラ・ギデオン・フォン・ベルギエン』


 アミルは控え目な装飾の墓碑に向かい、暫し黙祷を捧げた。


 故人を想って浮かぶのは、かつて70年前に在りし激動の日々。イスタンブール、モルドヴァ、ロンドン、ベルリン、ミュンヘン、パリ――――戦火に蝕まれる大陸じゅうを駆けずり回り、故人とアミルは戦乱の早期終結を胸に東奔西走したのだった。


 ブリタニアに渡れば家畜以下の存在と罵られ、共和国(ガリア)で演説を行おうものなら、匿名の意見が二十グラムの鉛玉として額目がけて飛んでくる。


 確かに信じられる志だけを抱いて、少年少女だった彼女たちはその身に余る人外の血統と共に、戦争という現象と闘った。やがて、いつしか少年は混沌のうねりを産み出す元凶を見据え、その征伐こそが和平の礎だとして自ら軍を率い――――そして死んだ。


「思えば、なんのしがらみもない身でこうして逢うのは、初めてだな」


 70年前、ふたりはこう呼ばれていた。


 ひとりは拝火首長国連邦最高評議会議長イェヴレン6世エレシュキガル――――『魔王』アミル・カルカヴァン。


 そして、もうひとりは。


「わたしはまだここにいるよ、勇者様――――ラウラ。わたしは自分を潔白だとは思っていない、そして彼らの事も。だからこそ、わたしは石を投げるような真似はしたくない。これまでも、これからも」




「ずいぶんセンチな再会になってしまいましたな、閣下?」


 声に振り向いたアミルの視界に入ったのは、まばゆい金の長髪をたなびかせた少女。肌は透き通るように白く、纏う衣服の黒がより強く映えて見える。毛糸のポンポンを提げたケープも、木漏れ日を受けて輝くカシミヤのショールも、胸元で紺のタイが咲くダブルボタンのワンピースも、蝶を模したストライプリボンが施されたフェルトベレーも、そのすべてが黒一色でまとめられていた。


「どこにいるかと当たりをつけてみれば、一か所目でどんぴしゃか。あたしの勘も捨てたものではないな」


 背の丈はアミルの胸に頭頂が届くかどうか。外見だけで判断するならば十四、五か、しかし自己主張の強いふたつの大きな(まなこ)のせいでより歳若く見えるはず。純白の肌はさながら無地のキャンパスのよう、吊り上った口角を包む唇に引かれた紅は薔薇を思わせるほどに鮮やかだった。


「御無沙汰しております」


「ずいぶん他人行儀じゃないか。つれないな、もはや面と向かっていがみ合うような仲ではなかろう?」


「しかし」


「構うものか、あたしなんぞファーストネームでいい」


 アミルの畏まった物言いに、金髪の少女はなおも馴れ馴れしげに言葉を紡いでいく。


「あれから何十年経っていると思っている? 猿人の赤子が老衰で惚けるか死ぬかの長さだ、あたしとて物知らぬガキや愛国をこじらせた老人のように拝火がどうだと今更どうこう言うつもりはない。ナンセンス極まりないよ」


 芝生をファー付のヒールブーツで踏み分け、少女はアミルの前に歩み出た。手袋を外し、ごく自然に素手を突きだして見せる。


「だから、そちらもあたしを雷帝だ何だと恥ずかしい名で呼んでくれるなよ? こちとらもう九十近い化石じみたクソババアよ、魔術師ゴッコするのもいい加減どうかと思うわけさ」


 オリガ・ニコラエヴナ・ユスポヴァ。かつて東方の雷帝と恐れられた彼女は、外見相応にいたずらっぽく笑んでみせた。


「ふたたび逢えて光栄だ、アミル女史。70年ぶりだな」


 アークソードに遮られていた陽光が再び霊園を照らし、幼さが残るオリガの美貌がよりはっきりと浮かび上がった。

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