くらやみの奥へ
イシュタルの安否の確認もほどほどに、フランは恐る恐るリビングへと足を運んだ。
キッチンカウンタの内側から引っ張り出されたあの男は、ネクタイで後手に縛りあげられ、ソファの前に転がされていた。垢と埃に包まれた土気色の肌と無精髭のせいで、顔を一目見ただけでは年齢を判別する事は難しい。大柄な体躯の割に腕や足は細く、たち枯れた朽木のような印象を受ける。
フランの姿を見つけるや否や男は翠の眼を血走らせ、水黽のように長い手足を縮ませながらぶるぶる震えはじめた。
「本当にすまない、すまなかった。許してくれ」
「だとさ」
銃口を男の頭部に向けたままソファに座るマグダが言う。
「イシュタルは無事です、この人は……あの子に何もしていません」
「果たして、本当に何もしてないんでしょうかね」
抑揚なく響くマグダの発言はどこまでも冷たい。哀れにも背を丸めてがたがたと服従を体現する男の誠意を、微塵も信用していないかのように見えた。
肩を下に横たわる男の傍らを見ると、コートの背が無残にも袈裟懸けに切り裂かれているのが見えた。その傷は背の肉にまで及んでいるらしく、薄汚れたベージュを赤黒く濡らしていた。出血が完全におさまっているわけでもないらしく、絨毯にも黒い血痕が広がっていた。
「怖がらないでおくれよ、フラン。撃っちゃいない、これから撃つかどうかはわからないけど」
硝煙のきな臭さもしないだろ、半ば男の悪臭を咎めるかのようにマグダは言った。
やがてその視線を足元の浮浪者へと移すと、やはり感情をこめず彼女は尋問をはじめた。
「名前は」
男はもごもご腔内で舌を這い回らせたかと思うと、べっと白い何かを絨毯の上に吐き出した。唾液に包まれたそれらは、圧し折れた前歯と犬歯だった。
グリップの一撃に続いての、マグダの蹴りによって腫れあがった唇を震わせて、あらためて男は返答した。
「ゲオルギイ=ラプチェフ」
「身分証は?」
「いまは、ない」
「そうかい」
「た、食べ物を失敬した事以外には、何も、ほんとうに何もしてないんだ。本当にすまなかった」
「それを決めるのは、あなたじゃなくて私とイシュタルなんですけど」
弁明の機会すらマグダは与える気がないらしい、一刀のもとに切り捨てた。
「奥の部屋に入った?」
ラプチェフ氏は濁った瞳をせわしなくしばたかせ、唇を噛んで懊悩した末に首を縦に振った。彼の行為と同時に、ソファから立ち上がったマグダが食いしばった白い歯を剥いて、ラプチェフ氏を睨みつけた。
「何もッ、何もしていないッ! 本当だ、ぼくはあのアダムには手も触れちゃあいない! 信じてくれ」
「アダムって何、あの子はイシュタル! それ以外の何者でもない!!」
「イシュタルも、この人の事については何も知らないようでした。だから……」
フランの言で幾分落ち着いたのか、マグダは息を吐いて再びソファへと腰かけた。
「顔が、顔が見たかっただけなんだ。いなくなったアダムがぼくの霊枝に引っかかる事なんてなかった、だけど何もしちゃいない」
今にも泣き出しそうな口調でたどたどしく語るラプチェフ氏は、もはやマグダが懸念していた妄想の中での無法者とは遠く乖離していた。
「イシュタルのことを知ってるんだったら話は早い。あなた、わけのわからない呪でもあの子にかけたでしょう」
「ま、呪……?」
「体をくねらせて踊る人影が自分の周りに何人も現れるんだってさ。気持ち悪い……」
「……」
唐突に、ラプチェフ氏は口をつぐんだ。マグダの嫌疑が真実のものだったのか、それとも何の縁もなかったのかは、フランには推し量りかねた。
「こちとらだってまっすぐ警察でも病院でもに突き出してやりたいところなんだけどね。そんな含みありげな顔されたら、そういうわけにもいかなくなるでしょうが?」
先のラプチェフ氏が口にした、アダムという単語に引っ掛かりを感じているのはマグダだけではなかった。イシュタルの存在を知っており、かつその因果関係についての問いただしには言いよどむ。フランもまた、彼に対しての不信を募らせていたのは確かだ。
「マグダさん」
「フラン。悪いんだけどさ……しばらくは、あの子と一緒にいてあげてくれないかな」
「でも……!」
「警察沙汰にしたくない理由ってのは、わかってくれてるでしょう」
ぐっと息を呑む。イシュタルとの関係を続けている件は、不敵なマグダの有する唯一のアキレス腱と言えた。
「この人は私がどうにかする。いいよね、フラン」
薄壁一枚隔てた寝室に入ると、モニカ・マレブランシェから聞き及んだ学園でのマグダレーネ評が記憶から首をもたげた。あくまで一部の人間からの評価であれ、このような非日常的な出来事の連鎖に身を窶すフランが、ルームメイトであるマグダにまで疑義の目を向けるのは不自然なことだろうか。
「フランさん、マグダは……」
薄紅色の頬をしたイシュタルは、フランの淀んだ表情に慮るように、恐る恐る声をかけた。
「さっき、すごい音がしました。ひょっとして……泥棒、とか」
「ま、まあ……そんなところです。でも、安心してください。マグダが張り倒してくれましたよ」
「本当?」
「ええ、だから安静にして、しっかり体を治す事だけに専念してくださいね」
フランはベッドの傍らのテーブルに置かれた水差しでコップに冷水を注ぐと、イシュタルに手渡した。
「うん、でも……」
「でも?」
粉末の解熱剤の入った袋を弄びながら、イシュタルは言いづらそうにもじもじと体を揺らした。
「でも、でもね……あの……きょうは……ずっと、あの……一人だったから……お外にも、いけなかったし」
寝室にある小窓は、カアテンが締め切られていた。件の『ひょろひょろ』を見ずにすめばそれに越した事はなかろう、というマグダの案である。
だが、例え窓を塞いだところでホリゾントキュステを賑わす納魂祭の活気を完全に遮断する事は難しい。発熱して寝込んでいる中、姉妹同然のマグダのデートに気を遣えるほどの器量の持ち主とはいえ、イシュタルはやはりまだ幼い少女である。
「ちょっと、寂しかったの」
きゅっと小袋を握る姿がたまらなく痛々しく見えた。
「そっか……そう、ですよね」
フランは靴を脱ぐと、イシュタルの隣に並んでベッドに横たわった。
「私も……なんだか、疲れてしまいました。今日一日で、すごく疲れて……寂しかった」
「フランさんも?」
「ええ……眼鏡もだめにしてしまいましたし……ああ、もうほんと……」
今朝がたのモニカとの忌々しい出来事を反芻し、胃液が逆流しそうになる。
続いて憎らしい義理の姉としたくもない口げんかを交わし、そして……
「厄日だわ……」
あの、黒衣の魔人たちに蹂躙された記憶がずんと重くのしかかってくる。
胸の奥に秘めていたものを強引に引きずり出され、捏ねまわされたかのような感覚。凌辱とも言ってよい、それほどまでにあの連中に対する嫌悪は激しい。人間が到達し得る、一介の魔術師にも思えない。だとするなら本当に人の身とは異なる神魔の眷属とでもいうのだろうか。
――――荒唐無稽、あまりに軽薄で非論理的すぎたか。
しかし、魔人に付けられた爪痕はあまりにえげつなく、深い。自動車が街路を駆け、数万枚の分厚い鉄板と主砲で武装した軍艦が大海を渡り、有人飛行機械の開発が急ピッチで進められているこの現代の世にそんな未知を孕んだ人外の存在がいるものか。そんなものと邂逅を果たした人間が、そんなものと縁を結んだ人間が、果たして常識の内側へと帰還する事ができようか。
「ほんとに……疲れちゃった」
うつぶせになって視界を暗転させると、一気に眠気が意識へ雪崩れこんでくる。
「こんな暗くなってもお祭りが続くなんて、よっぽど楽しかったんですね」
清潔なシーツの肌触りと甘い香気に包まれて、聴覚をイシュタルの柔らかなウィスパーボイスが包み込む。この心地よい場所が自分にとっての日常で、本当によかった。フランは一層そう思った。
「明日は、一緒に駅前でもまわりましょうか。熱が下がったら、ですけど」
「フランさんも一緒に?」
「お付き合いしますよ、なんだかもう……難しい事、みんなバカバカしくなっちゃいましたから」
自嘲気味に口角を歪ませ、寝返りをうつとフランはイシュタルと顔を突き合わせた。わずかにフランより高めの体温を孕んだ吐息が鼻先にかかり、こそばゆくなる。
「うれしい。わたし、マグダ以外のお姉さんと遊ぶの、初めてかも」
ぷにぷにでみずみずしい唇がふわりと柔らかく動き、フランもまた思わず口元をほころばせた。幼いながらもどこか蠱惑的な魅力があり、内耳を細かにくすぐる高いウィスパーボイスが庇護欲に拍車をかける。コランダムの淡い蒼を思わせる一対の瞳の輝きに射抜かれれば、途端に首を動かせなくなってしまう。
ああ、これが一種のカリスマってやつなのかな。
まどろみに包まれゆく中で思ったのは、イシュタルの持つ他者を引き寄せる天性の才。相貌だけでなく、その身が纏う雰囲気すら、凡夫がどれほど研鑽を重ねてもその位階に至れる事が叶わぬほどの稀少な逸物。孤高の女傑マグダと慕い慕われる間柄にある少女もまた、只ならぬ威光を確かに有していたのだ。
劣等感にちくちくと刺激を受けながらも、少女の与える安堵がそれを和らげる。その奇妙な痛痒は、やがてフランの思考を昏く穏やかな眠りの淵へと誘い込んでいった。
ずきん
「ぐっ……うぅ……」
どたん、ばたん。背筋を勢いよく反らせた拍子に、フランはベッドから落下した。
じゃり じゃり じゃり がさ がさ がさ
「痛……痛あああああああっ……あっ……うう……」
偏頭痛にも似た、強烈な吐き気を併発させる鋭い痛みがフランの頭部を貫いた。目の奥目がけて氷柱が打ちこまれたかの如き激痛が断続的に奔り、また一際大きな波が鼓膜を震わせぬ雑音と共に襲い来る。
がさ がさがさ がさがさがさごそがさがさがさがさがさがさ
薄い藁半紙が丸められるような音が、耳の奥でこびりついて離れない。途切れることなく思考を苛み、視界すらモノクロの砂嵐に塗り潰されていくようだった。
自身の呻きもまた、壊れたラジオから垂れ流される吐瀉物のようなホワイトノイズにかき消されてしまう。視覚、そして聴覚も徐々に雑音に覆い尽くされていく。両の手でこめかみをきつく押さえようと、眉間を圧迫しようと、何ら効果をもたらさない。ぎりぎり歯を食い縛り、フランは紅く曇る視界のなかでもがき続ける。
絨毯敷きの床を背に身悶えているうち、フランの眼はおぼろげながら寝室の小窓の外の光景を捉えた。カアテンの隙間からのぞくのは、日没を数時間過ぎた、紺色の帳に包まれたホリゾントキュステ。中世期建築を意識した集合住宅の尖塔や瓦屋根が蒼い月光に装飾され、濃密な闇に閉ざされている部分は多くない。
ともすれば白銀に輝いても見える屋根に、コントラストを自ら体現するかの如き影がそこにあった。不自然に頭が小さく、体幹と手足は枝のように長く細いヒトの影。それは果たして影なのか、それとも実のある生物なのかはフランには判断しかねた。ただ、その異形が手足をしなやかにくねらせ、躍るように全身を振り乱すのを見て確信した。
ひょろひょろ。マグダの言にあった――――イシュタルを苛む元凶だ。
「イシュ……タルっ……!?」
息絶え絶えで膝立になると、フランは震える指と指の隙間からベッドの上を見やる。しかし、大きな掛け布団が寂しげに鎮座しているのみ。フランの探すイシュタルの小さな躰は、巨大なダブルベッドのどこにも見当たらない。
「イシュタル、どこ……どこに……」
産毛が総毛立ち、全身の神経が悪寒に震え上がる。何をしたわけでもないのに、『こうして今ここにいる事そのものに』嫌悪感を覚える。
辞めたい、辞めたい、辞めたい、辞めたい、辞めたい。
何を? 何もかも。呼吸、辞めたい。動くこと、辞めたい。見ること、辞めたい。聞くこと、辞めたい。さわること、辞めたい。生きるの、辞めたい。ここにいたくない、何もしたくないんだ。誰か代わりにやってくれ。いやだ、もういやだ、たすけてくれ。ふざけんな。だれか、だれかいないのか。だれか、だれかいてくれよ。いないのか。いるのか? いるなら、いるのなら、そこで、しね。
否定の念。世にある自分以外のすべての他己の存在を認めていてなお、否定の対象としてしか認識し得ない異形。そんな情念を孕んだ影が、フランのありとあらゆる器官をねっとりと腔内でねぶるように視姦する。
イシュタルは、あの白くか細い躰の美少女は、こんな視線を毎夜浴びせかけられていたというのか?
そんな胸の内に産まれた微かな義憤を糧に、ずるずると床を這ってフランは寝室からようやく抜け出した。壁にかけられていた時計が指していた時刻は午後十一時半、マグダに寝室へ追いやられてから、あのダブルベッドで不覚にも数時間眠ってしまったという事か。煌々とダウンライトに照らされるリビングにはイシュタルはおろかマグダ、そしてラプチェフと名乗った闖入者の姿もなかった。幾分か痛みの引いた頭を抱えながら正面玄関へ向かうと、マグダの靴は残されたまま。続いてフランはリビングの側にあるベランダへと踵を返す。
リビングの絨毯に足を踏み入れると、フランははたと足を止めた。痛みが軽くなったとはいえ、今もなお『影』の胸くそ悪くなるような視線は感じていた。小窓から見えた影は、ちょうど今いるマグダのアパートメントのちょうど正面に建つビルディングの屋上にいた。あの影の正体がまったくもって予測できない以上、現状表に出るのはあまりに不利。
しかし、今はイシュタルやマグダの安否を確かめるのが最優先だ。彼女たちが、友達があの影に脅かされる事などあってはならないのだ――――そう言い聞かせでもしないと、フランは立っていられなかった。すぐにでも裸足で正面玄関から逃げ出し、寮の自室で小便漬けの布団にくるまって朝を待ちたかった。
荒い呼吸のまま、フランはゆっくりと開け放たれていたベランダへと歩み寄る。
同時に、攻性術式『紅の弾丸』のスタンバイを行いながら――――
《なァんだそりゃあめずらしいもん持ってんなァなんだそりゃァまずそうきったねぇな弱ぇ弱ぇ弱ぇくっさおまえほんっときンもちわりィィよなァ》
「ひっ!?」
意図せず怯えを含んだ感嘆を漏らし、術の思考を中断してしまう。濁流のようにフランの頭に雪崩れこんでくるのは、先ほどと同じ否定と中傷の濁った念。日常生活ではまず用いないような侮蔑を矢継ぎ早に投げかけられ、完膚なきまでに貶し尽くされる。再度攻性術の為に指向を集中しても変わらず、また生理操作術でも同じこと。どんな魔術を使おうと試行しても、『影』どもの陰惨な横やりがそれを赦さない。
《×××××××××××》
「何……もう、もう何よ、何だっていうのよ!! いや、いや、厭!!」
不快感、倦怠感、嫌悪感の堂々巡り。身震いがおさまらず、フランはベランダから離れ玄関側から飛び出してしまった。
一刻も早くここから離れたい。もう嫌、厭、いやだ。なんでそんな事言われなきゃいけないの。私が何かしたって言うの。
その一心、保身の意がこれまでになく強く首をもたげ、フランを支配していた。
おぞましき未知への恐怖に心身ともに侵犯され、ふらふらよろめきながら非常階段を下っていく。二、三度段差を踏み外して強か体を打ちつけ、青あざを作りながらフランは走り続けた。怖気が止まない、悪寒が引かない。半ば千鳥足のようになり、五里霧中のまま市街を駆ける。転がっていたワインの瓶を踏み抜き、足裏を血で汚した。その激痛も、あのままあの場にいるよりかはマシだ。あんなところに一分一秒といたくない――――マグダとイシュタルの部屋には、いたくない。
「マグダ……イシュタル……」
ひたひたと石畳を血で汚しながら、ようやくフランは立ち止まった。気づけば、アパートからずいぶん離れてしまっていた。以前、体調不良に見舞われたハインリッヒ少年を介抱した路地を更に奥に入った、硝子製品を扱う工房の集まる入り組んだ地区に入り込んでいた。
「思ってない!!」
フランは地団太を踏んだ。
「出会わなきゃ良かったなんて……思ってない、思ってない! た、助けようとも思ったし、でも……」
《つまんねつまんねつまんねなんだそれ糞でも投げつけてンのかきたねえきたねえくせえくせえ猿かおまえは猿か猿め猿だ笑えんなおまえ》
やはり、だめだ。『紅の弾丸』を展開するに至るプロセスに、影どもは介入してくる。
彼らは家畜を嗤っていた。檻の家畜が自身の排泄したものを弄んでいるさまを眺め、ああなんと滑稽なのかと嗤っていた。かれらにとっては、まさしく魔術という糞を捏ねるフランは汚らわしい家畜であり、それ以下ではあれそれ以上であることはまずなかった。
「うる、うるさい、うるさい!! だまれ、うるさいんだよ!! あたし、あたしはそんなんじゃない、あたしは違う!! あたしは動物じゃない、家畜じゃない、お前らみたいな訳のわかんない連中に笑われる筋合いなんかないんだ!!」
露わにした矜持もしかし、かれらにとっては皮膚から剥き出しになった脆弱な神経に過ぎないのだ。
「あたしを、アルベリヒと一緒にすんな……やめろ……!! 見捨ててない、あたしは、二人を見捨てたわけじゃない……ちがう!!」
頭を抱え、姿なきかれらに目を剥いて怒鳴りつける。なおもかれらの中傷から逃れるため、フランは更に奥まった路地へと歩を進めていった。何度目かの工場と工場の突き当りを曲がると、ついにフランは行き止まりにぶちあたった。そこで根を張ったかのように両の脚が動かなくなったのは、逃げる先がなくなったからではなかった。
ゲオルギイ・ラプチェフ氏がいた。のっぽな身体を壁際に丸めて蹲っているようだった。
行き止まりの、灰色にくすんだレンガの壁を背にして、その体におさまっていた中身の一切合財を撒き散らして、赤や褐色の画を周囲の壁面や石畳いっぱいに描いていた。むっと饐えた、恐らくはラプチェフ氏の体臭以外の悪臭が路地じゅうに充満していた。
外れた顎部からは巨大な蛭のように舌がはみだし、落ち窪んでいた双眼は限界まで見開かれていた。眼孔から目玉がこぼれ落ちそうだった。
絵画の具材を抱えていた胸骨は、力任せに左右に割り開かれていた。裂けた上半身から伸びた灰色の骨はてらてら月明かりを反射し、軟骨が真珠のようにきらきら光っていた。
フランの脳裏にあったのは、モニカ・マレブランシェの口にした根も葉もない風評――――今となっては、それがデマゴギーと断じられるものではなくなっていた。
これはいわゆる――――精神的に異常を有した――――マグダによる行き過ぎた制裁行為?
マグダが、あのマグダが殺した? マグダが、イシュタルが姉のように慕うマグダが――――?
じりりりりりりりん。じぃりりりりりりん。
今朝ごろ耳にした黒電話の音が、路地の壁を反響して着信を知らせる。フランはラプチェフ氏の手前に置かれていた黒電話へととぼとぼ近寄った。素足で柔らかな臓腑を踏み分けると、ほのかな暖かさが皮膚に伝わった。ぶるぶる食道が痙攣するが、いくらえずいても吐くものは残っていない。ひくひくしゃっくりを繰り返し、フランはしゃがみこんで受話器を取った。
「もし……もし」
『ぼくたちは、死に続けなければならない。ぼくたちは、ここで生きてはならない。ぼくたちは、この輪廻からはとうとう抜け出せなかった。あれから何百年、何千年と経ったけど、とうとうだめだった』
唾を呑もうと思ったが、うまく舌が動いてくれなかった。
『永劫がぼくの相をむしばんでいく。顛生具現を使うたび、ぼくではないぼくの相が体中に広がっていくんだ。手の甲でぼくがぼくを嗤っていた。手のひらでぼくがぼくを嗤っていたんだよ。皮膚が鏡張りになったようなんだよ。なあ、ヴァルター・ブフナー。きみは、こんな経験なかったのかい? 誰より永劫に立ち向かう気概を見せていたきみなら、こんな事にはならずに済むのかもしれないね』
受話器の先、ブリタニア訛りの帝国語でぼそぼそ喋るのはゲオルギイ・ラプチェフ氏。眼前で果てている死体から発されているかのように錯覚するほどに生気のない、若干の吃音混じりの喋りだった。
『相がずっと嗤っているんだよ。みんなを、ぼくを、ずっと嗤っている……怖いよ、ぼくはこんな事は望んじゃあいない……ぼくは……ぼくは、アンデルセンのようにはなりたくない、ぼくはハインを……エミリアやきみがいてくれれば……もっと違った結果になったかもしれない……ああ……ああ、ハイン……やめてくれ……ハイン、ハインにだけは……近寄らないでくれ……頼む、頼むよ……』
受話器を耳からわずかに離すと、絞り出すように電話先の人物は言った。
『死にたくない、死ぬのはいやだ……もう死にたくない』