不純物
ふっと、マグダの顔から色味が喪われた。
駆動音だけが単調に響くエレベータ内部で、フランの見たマグダの横顔。そこには、先ほどまでこちらの身を、おそらく本心から案じてくれていたであろうはずの果敢な少女の微笑みはすでになかった。
拳銃を片手で包んでなお安堵すら与える事の出来る、彼女の凛とした雰囲気。家族同然に愛を注いでいた少女が危険に晒されていていながら、その大らかさはフランの緊張を解きほぐした。
しかし、今のマグダは。
静かに閉じられたエレベータの扉を向いた彼女の顔は、生気なき灰色。きめ細やかな赤毛に包まれたマグダの双眼に光はない。口角は下がり、その眼球は虚ろなまま、何かを捉えようともしていない。振動で前髪が揺れるのに対し、いまのマグダは呼吸すら忘れているのではないだろうか。首を僅かに傾け、俯きがちで不動のまま、自室のある階層に到達するのを待っていた。
あの快活で朗らかな日常のマグダは、その見てくれが偽りのものだとでも言うかのように取り去られてしまっていた。そして、『ここで待っていろ』という警告を振り切ってまで随伴していながら、このような些細なことで――彼女のあんな貌を目にする羽目になるなんて、という――身勝手な後悔をくゆらせる自身の低俗な思考構造に嫌気がさす。
直接声をかける事も出来ず、顔を覗き込む勇気もなく、フランはその横で悪寒を抱えながら、居心地の悪さに加えて再び襲い来る緊張に身を強張らせた。
レンズ越しでなくとも、無貌に錯覚するほどに平らな彼女の表情を直視する事など、今のフランにはできなかった。
それは果たして、先ほどの幻覚で出会った――――実在する人物かどうかすら定かではないが――――カール・クレヴィングなる怪人の影響によるものなのか。マグダの姿を借り、カールは由ありげな問答を投げかけてきた。皮肉げに、それはそれは嬉しそうに頬を緩ませてカールは嗤っていた。真夜中の海原を覆い尽くす深い黒色をぶちまけたかのような闇を貌に張り付けていてもなお、相手を嘲笑するあの口調は、フランの記憶におぞましく刻み込まれていた。
――――シャンバラに背を向け、停滞に甘んじるその身に私から手を差し伸べる事ができぬ事が、今日ほど歯がゆく思った事はないな。ああ、実に残念だ。
どのような意図があるにせよ、少なくとも怪人はこちらを快く思っているわけではなさそうだった。敬愛する義兄への愛を嗤われ、彼のいるあたたかな世界での暮らしを嗤われ、『永劫』へ向けた甘美なる願いを嗤われた。停滞に甘んじる哀れな痴れ者とこちらを断じてきている以上、またフラン自身もカールを受け入れようとは思わない。ただただ不愉快なだけ、手など差し伸べてくれなくても結構。そのざらざらした舌で神経を舐り回すような口調をやめてくれるだけでいい。目の前から、耳元から、この記憶から消えてくれ。
『わたしのマグダ』の貌を借りて、二度と語りかけないでくれ。
言い知れぬ不安による震えをおさえるべく、フランは噛みしめていた歯により一層強く顎の力を込めた。
七号室のドアの施錠を解き、マグダはなおも虚ろなままの面持ちでゆっくりとドアを開けた。極力音を立てぬよう、フランもそれに続く。
ドアに靴の爪先を突っ込み、目を合わせぬままマグダは口元に人差し指を立てるジェスチャーを行った。
『しずかにしろ』
たったそれだけの行為で、フランの感情のざわめきはだいぶ静まった。よかった、本当にがらんどうになったわけじゃない。この静かさも、さっきまでの表情も、彼女の仮面に過ぎなかっただけなんだ。ほんとうによかった。仮面の引き出しが他人より多いだけなんだ。そう、フランは納得した。
続いてマグダは同じく声を出さず、左手を振って寝室へ向かうようジェスチャーで示した。闖入者を抑えるから、寝室にいるはずのイシュタルを真っ先に安心させてやってくれ。その意を汲みとったフランは、正直にそれに従う事にした。生理術式に関してマグダに比肩する者はこのホリゾントキュステ広しと言えども、そう何人もいるはずがない。帝国はベルリン、そしてブリタニアで多くの優れた術士を目にしてきたフランでさえそう認める程の使い手。飛行する黒竜を素手で叩き伏せるマグダに意見する事が、ここではどれだけ無為な事かはわかっていた。
室内は消灯されており、光源は窓から射すわずかな月光のみ。日没前後の紫色じみた闇の中を、フランはマグダの背を見ながらゆっくりと歩を進める。絨毯敷きの床は靴音を隠し、幸いにも『イシュタル以外の存在』に感づかれる事はなかった。寝室の位置は玄関から入った右手奥、リビングのソファの裏手側。以前訪問した際に目にした間取りを思い浮かべると、フランは生唾をのんだ。
リビングに足を踏み入れると、左手側から暖色系の灯りがフランたちの目に入った。ソファの正面側、フランから見て左手にあるのは、イシュタルやマグダが和気あいあいとティータイムの支度をしていた記憶のある、最新のシステムキッチンである。
マグダは取り乱す事無く、指先で左側面の壁をつついた。それが指し示す意味とは、『照明を点けろ』である。薄暗がりの玄関付近の壁に手を這わせると、確かに天井に備え付けられた照明のスイッチがあった。ひとつうん百マルクするダウンライトを点灯させる為のそれに指を添えたまま、フランはマグダの指示を仰ぐべく視線をやる。
やがて頃合いを見計らうと、マグダは勢いよくリビングへと躍り出た。それと同時に、フランは一斉に全室のスイッチをオンに切り替えた。
暗がりの七号室が煌々と白熱電球に照らしあげられると、キッチンの側から絨毯に重量ある何かが落ちる音が響いた。慣れきらぬままの視界で早足にフランもまたリビングからキッチンへ向かうと、そこには見知らぬ男がいた。激痛に顔をゆがめ、床に倒れ伏していた。身に着けている衣服は、ところどころ裂けたファーコートと襤褸切れ同然のドレスシャツのみ。下半身にいたっては、目をやりたくもなかったが何も着用していない。公衆便所のアンモニア臭が鼻腔を刺激し、フランは軽い眩暈を催した。
「だ……れ……?」
「フラン、イシュタルを」
マグダの構える銃のグリップの底面には、僅かに男のものであろう血が付着していた。
「フラン」
すでに横たわる男に銃口を真っ直ぐ向けていたマグダの一言すら、どこか上滑って聞こえた。あの穏やかな茶会の舞台が、けがれと病を身に貯め込んだ闖入者によって一瞬にして非日常の側へとシフトしてしまった衝撃。その変貌と日常の儚さに、意識がついていかなかった。
灰色のちいさな冷蔵庫は全開になり、淡く弱々しい照明だけを頼りに内部を漁っていたであろうその男は、左のこめかみを両手で押さえながら床の上で呻いていた。ふけと脂でべっとり覆われている巻いた長髪を振り乱し、のた打ち回っていた。気管に潜り込んだ咀嚼物に噎せかえり、げぼげぼとえずいて絨毯を汚していた。
頬までぼうぼうに広がった無精ひげ。落ち窪んだ両目と扱けた頬は、男が久々にまともな食事にありつけた事を意味していた。口の周りや衣服の袖と襟は、冷蔵庫で保管されていたプディングだの、鰯や鰊の缶詰からこぼれ出した汁だの、パンくずだのレバーペーストだのがぐちゃぐちゃにこびりついていた。
思い切り口に食物を詰め込んでいた所を問答無用で殴打されたらしく、絨毯の上は咀嚼されたそれらが吐瀉物じみた姿となって飛び散っていた。
「フランツィスカ!」
再度の檄に、フランはびくりとした。足の震える理由は、闖入者の男に対する生理的嫌悪に基づくものだけではなかった。頼りなさげな足取りで寝室に向かったフランには、マグダの孕んでいる未知なる部分に向けての恐怖もまたあった。
イシュタルの為であるならば、他者を殺める事すら厭わない。
その意思を汲み取ったフランは、指先がみるみる冷え込んでいくのを感じていた。寝室へ続くドアノブを握った手指がかじかんでいたのは、明らかに寒気によるものだけではなかった。
ダブルベッドの真中で横たわるイシュタルの林檎のような顔を目にすると、フランの緊張は一気に氷解した。近寄ってその頬を撫でると、依然として高熱に浮かされている感はぬぐえない。しかし、
「よかっ……たあ……」
それまで予想していた最悪の事態が杞憂だっただけに、フランはそう呟かずにはいられなかった。
イシュタルの紅い頬は、凍てついたフランの手指を暖かに包み込んでくれる。やがて安堵の涙に咽ぶフランの感嘆とため息に応じ、イシュタルはゆっくりと大きな瞳を開いた。
「つめたい」
「あっ、ご、ごめんなさい」
ごしごし涙を乱暴に袖で拭い取り、改めてフランはイシュタルの真横に座り込んで抱きしめた。
小枝のようにか細いイシュタルの四肢は確かにフランの体温よりも熱く火照っていた。皮膚からの熱気と呼気に混じったチューベローズの香りは、マグダの用いている香料と同じもの。香気とイシュタルの幼い艶気に中てられたフランは、無意識にその香りをたっぷりと肺に吸い込んでいた。それは、知らずのうちにフラン自身がチューベローズをまとう二人の虜となっている表れだったのか。安堵に縋る羽虫のように、フランはイシュタルの痩身を抱く腕の力を強めた。
「いいんです、今は。それより、身体は大丈夫ですか」
「何も、何もされていませんか」
「なにも……? 何をされるんです?」
質問の趣旨が理解できていない所を見るに、男は寝室に踏み入るような事はしなかったらしい。怪訝そうな表情で、イシュタルは銀に煌めく睫毛をぱちぱちさせた。
「フランさん……大丈夫ですか。なにか、辛い事でもあったんですか」
「そんな……そんな事ないです。いまは、いまは……大丈夫だから……」
やわらかな頬と頬を擦り合わせて、フランは呟いた。イシュタルに向けてのものだったのかどうかは定かではない。