マグダという少女
「おい、おたく。大丈夫かい、おうい」
ぺちぺち、ぴたぴた。平手で加減しながら頬を叩かれる音。
「生きてるンなら返事しておくれよ、おうい」
そして、榴弾の直撃で横殴りに圧潰させられたかのような惨状にあるシャワールームにおいてはあまりにも平然とした能天気な声色。
全面タイル敷き、それに横壁には大穴。日没が徐々に前倒しになってきている時期とはいえ、やはりこの時刻にもなると尻や背中がひんやり冷たい。力なくもたれかかっていたシャワールームの壁から身体をゆっくりと動かす。
フランはぶるっと身を震わせた。わずかに開いた瞼の前にあったのは、見知った顔の少年。ふんわりとボリュームあるボブカットが白く輝き、肌もまた瞳の碧を携えた乳白色。
「あら。おはようございまーす」
「あなた……クルト、クルト・バヴィエール……さん?」
「おや。覚えていておいででございましたか。これは光栄です」
先日、古書店の散策に繰り出した際に出会った二人の少年のうちの一人だった。
確か名前はそれぞれハインリッヒ、そして目の前のクルトといったはず。フランとの面識は、前者のハインリッヒ・シュヴェーグラーが街道裏手の路地で嘔吐していたところを軽く介抱してやった事を発端としている。目の前のクルトは、あの日と変わらぬ白のシャツと黒地のタイトパンツという出で立ちだった。
やわらかな黒髪に病的なまでに白い肌、いかにも線が細く顔かたちは清艶で、悪く言えば軟そうなハインリッヒ。彼と比較すると、変声を未だ迎えないソプラノでハキハキもの言うクルトは気勢に溢れ、またシニカルな印象がある。
がつがつと前に出、婦女子を欲のままねじ伏せんとする野獣を体現したような二次性徴期直後の予備役もどきどもと異なり、平時のハインリッヒとクルトは少女と見間違うような容姿以上に大人びて見えたものだった。前者は良家の子女のようにぴんと背筋を伸ばして優雅に、後者は偏屈だがまっとうに職分を果たすであろう軍人のように慇懃に。廊下や寮のエントランスにおけるすれ違いざまの挨拶ひとつとっても、彼らの育ちの良さを感じられたからだ。
ごく自然に差し出されたクルトの右手を掴むと、フランはすっくと立ち上がった。損傷著しかった右足にはもはや痛みはなく、身体的なコンディションにも不調はない。先ほどまでの酩酊感もすっかり晴れてはいたが、目の前の美男子の相貌はぼんやりと歪んで見えた。
「あ、メガネか? 残念だったな」
クルトが顎で指したのは、細かな瓦礫の破片や粉で白粉を吹いたような有様のタイル床。フランの愛用していたメタルフレームの眼鏡は、見るも無残な姿で転がっていた。フレームはひしゃげ、レンズは粉々に砕け散っていた。
裸眼での視力はお世辞にも良いとは言えないフランにとって眼鏡は必需品、ましてあのレンズ、そして赤縁フレームのモデルはベルリンの老舗メーカーに発注した代物。手にして四年で不燃ゴミと化すなど、悔やんでも悔やみきれない。涙を呑んで、とはなかなかいかない逸品だった。
「あいや、お高いメガネもお気の毒と言えばそうなんだが……まずはさ、一体どこのバカチンがこんな火遊びぶちかましたわけなんだ? 祭りだからってやりすぎだ、それに人気の少ない寮のこんな所で」
部外者のクルトからすれば当然の疑問であった。確かに羽目を外して大量の火薬や花火をせしめ、街道で暴発させてボヤを起こすバカ集団も毎年後を絶たないとはフランも多くの上級生から聞き及んでいた。しかし、このシャワールームの状況は――――
『大男と小娘がいきなりやってきて、アルベリヒ・シュヴァイツァーに私刑を加えた』
シャワールームの損壊はその余波によるもの。そして……
「それによお。入口で人が死んでるンだ。たまの休みや祝日ンなると管理人室に詰めてくるヨーゼフのじいさんだ」
「死んで……る……?」
「頭に銃で一発、部屋のデスクは真っ赤っか。そしてシャワールームには大穴が空いて、そこには一人優等生が茫然としておる。こいつぁ一体どういう事かね、物取りにしたって何がしたいのかわかんねえ。ライヘンバッハからホウムスでも引っ張り出してきてほしいもんだぜ」
言いながら、クルトは粉砕された壁面へ近づき周囲を見回す。ぽっかり空いた大穴からは、紺色になりつつある空でスピカが輝いて見えた。その下に並ぶ建造物の尖塔は、これより始まる夜会を予感させる煌々とした灯りで照らし出されていた。
「火薬の類じゃあない。実習室から硝石がどこぞのバカにパクられたって話は聞いてるが、そんなもんが破裂した感じでもないな。油の臭いもしない。となるとガス管か何かの不具合か、ってわけだが、そんなんでもない。こっちの壁面にゃ、そんな物騒な管が通ってるようにも見えん」
クルトはボトムスに付着した壁材の粉を掃うと、フランへ向き直ってわざとらしく咳払いした。
「なあ。何があったか、知ってるンなら教えてくれないか」
「何が、あったかだなんて……そんな、私は」
「怖がる必要なんかないぜ。別にあんたがここで何していようがオレには関係ないし、そもそもあんたのように頭のよろしい人が困るような事はオレだってしたくないんだ」
この期に及んで、フランの脳裏に低俗な保身じみた発想がわずかながら芽生えてくる。自身の身の潔白についてだ。果たしてこの件が表沙汰になったとして、自分はこの先何の不利益を被る事なく生活していく事ができるだろうか。要は、自分が変わりなく蛇を狩る剣の一振りとして研鑽を重ねていくことができるのか、という事である。
「私は……何も、何も知りません。気が付いたら、ここで目を覚まして」
そんなわけがねえだろう、パチこいてんじゃねぇよ。
クルト・バヴィエールの双眼がぴくりと反応し、ほんの一瞬ではあるが、そう物語ったような気がした。
オレが欲しいのはそんなクソつまらねえ、茶を濁すような一時凌ぎじゃあねえんだよ。
終始、表に出す感情は平静を抱く怜悧な美男子そのもの。しかし、鼻をふっと鳴らしただけでフランはクルトの反論の意をひしひしと感じとっていた。
目ざとく、飢えた野犬の如く、自身に欠けたものを埋め合わせるために感覚を駆使して獲物を嗅ぎまわる。実に平々凡々、閑寂にして慇懃。そんな、日常的に他者へ向ける『クルト・バヴィエール』の仮面の背後にあるのは、フランの隠したがる非日常に何としても足を踏み入れたいという貪欲さだろう。
「本当に何もなかったのかい」
「……」
「何もない、なんてことはないよな。革靴の片方は不自然にワチャクソ、その割には痛がったりもしてないしさ。そこらにばらけた仕切り板を見てみな。どう見ても火薬や榴弾による爆発じゃあり得ねえ銃創が残ってる。それに……」
クルトが屈んで手にしたのは、無造作にタイルへ放られていた大ナタ。普段は勝手口側の倉庫にしまわれている備品で、この場所に相応しい道具とは到底思えない。レンガやコンクリートの粉で白くコーティングされていた。
「いよいよもってわけがわかんねぇんだ。なあ、頼むよ」
2キロ弱はあるだろうナタの峯を掌で弄びながら、クルトは再度フランの顔を見据えた。
「やましい事があろうがなかろうが、チクったりなんかしねえよ。そればっかりは安心してくれ、オレだって人に言えねえ事や、言いふらされたくない事だってある。現に、オレも教戒師やルームメイトに隠してる事はあるしな」
冷や汗が頬を伝うのを感じ、フランは生唾を飲んだ。他の男子とは一線を画す、変わり者のクルト・バヴィエール。少なくとも、この状況をネタに強請るようには思えない。そう納得できるだけの声色と雰囲気を確かに醸していたし、現に精神的、また体力的にも消耗していたフランはそれに圧倒されていたのだった。
肉体の疲労はピークに達していたし、不可解な状況の連続にフラン自身も限界に達しかけていたと言ってもいい。誰かを相手に心を許し、己の抱えている不安を打ち明けて共有したかった。
「大男に、小柄なエルフの二人組……ねえ。年一のお祭りに中てられた変態野郎かな」
顎先に手をやり、擦る仕草をしながらクルトは嬉しげにつぶやいた。
「それで、黒服ってのは大昔の極右政党の制服。間違いないんだね」
「はい。私の記憶が確かなら……教科書にも載っている有名なあれです」
鴉の漆黒に褐色のシャツを合わせた瀟洒な礼服に身を包み、騎士道文化に準ずる帝国の精神を受け継ぐ党首――――『母』に忠誠を誓う黒の集団。貧困と二重帝国問題、そして前世紀より深刻化していた移民問題に対して過激ともいえる帝国民第一主義のもとで言論を展開し、新聞、ラジオ、歌劇果ては活動写真までもを利用した革新的な宣伝、広報活動によって瞬く間に支持者を大陸各地に増加させていった革命集団。
Free Central Alliance――――かつて大陸に存在し、オリエンスやブリタニアの帝国支配に最後まで抗い続けた国枠主義組織、それが自由大陸同盟である。
その実態は、独自に募った武力と癒着していた帝国陸海軍の戦力を振るって非帝国人種や拝火人の廃滅を画策した党幹部たちの穢れた理想郷を地上に顕現させる為の悪鬼の軍団。
『蛇狩り』のような左派に傾く組織に与するフランの知識によれば、こうした西側の帝国旧体制の思想を第一に打ち出していた集団など今であれば排斥すべき旧時代の遺物。指導者が独自に武装した私兵を有していた事実からも、例え政党と名乗っていたところで肥大化したテロ組織と評しても過言ではない危険思想の吹き溜まりに過ぎないのである。
ただ、未だFCAを信奉している大手の結社や政党が世論から許容されているのもまた事実であった。それだけ『母』には他者を惹きつける何かがあったのか、それとも国民国家へ変貌していく社会情勢がFCAの提示する帝国主義の美点を無意識に求めているのか。フランには、まだそれらを断ずるだけの社会経験はなかった。
だが、『蛇狩り』の最も忌むべき思想を抱く無二の存在であり、耳触りのよい甘言で庶民を扇動する様はまさしく蛇。それだけに、戦後七十年経った現在でもシンパが雨後の筍の如く湧き出でてくるのが現状であり、晴れの祭りの日に歪んだ愛国のアウトローさに目を付けたミーハーが似非右翼を騙ってはレプリカの党員服に身を包んで親衛隊を気取り、滑稽にも警官たちに連行されるというのが後を絶たない。しかし――――
「あの二人……あの二人が、単なる右翼シンパには思えなかったんです。浮かれて軍服に袖を通してみた、なんていう雰囲気じゃなかった。あの二人は……ただの人間じゃなかったんです」
「ただの人間じゃあない、とは?」
「攻性術も、私の生理操作術も、向こうには何ら影響を及ぼさなかった……それなのに、二人は何ら魔術を使わずに壁を破って、私の……私の足を踏み砕いてみせたんです」
そして魔人の一人であるエミリア・ハルトマンは、アルベリヒとの攻防を一人で楽しんだと思えば、上機嫌にそこの穴から連れの大男エドゥアルド・ブロッホと共に去っていった。もっとも、その頃には既に意識は途切れかけていたのではあるが。
「――――なるほどねえ。そりゃ、確かに信じ難い与太話だ。道理でねえ!」
「与太話なんかじゃ――――」
「あいや、あんたがそう言ってるんだったらばそうなんだろうよ。オレ個人としては、あんた本人が寮の学生やそこらのパンピーを巻き添えにバカなマネしようとはしてないって事がわかりゃいいんだ」
クルトはフランの語った内容に対して嫌疑を向けるような事はせず、また、さして突っ込みを入れるような事もしなかった。ただ、わずかに笑みを浮かべながら相槌を打つだけ。フランの必死さを値踏みしているかのようにも見えただろうか。
頃合いを見て、フランは意を決して今度は自分から切り出した。
「私からも聞いてよろしいですか」
「何かな」
「あなたは、どうして……この人気の少ない寮などに戻ってきたのですか。夜会が盛り上がるのはこれからでは」
「ああ、オレの場合はそんな……そうだな、大した事じゃあないよ。つっても、ここで濁すのはフェアじゃねえよな。そうだな……」
クルトは頭をかきながら、苦々しげに言った。
「ルームメイトを探してる。オレと同じ402号室のハインリッヒ・シュヴェーグラーだ」
「街ではぐれたので?」
「端的に言えばそうなんだがな。ただ……」
数秒口をつぐんだかと思うと、クルトは一層神妙な面持ちで言葉を続けた。
「何て言やいいんだろうな。別れる一瞬だけ……ほんの一瞬だけ、とんでもない顔になった。歯茎を剥き出して、両目を鬼のように見開いてさ。それが、笑ってんのに気づいたのは彼が曲がり角の遥か向こうに走って行った後だったんだが」
「ハインリッヒ……くんが?」
「何て言やいいんだろうな。その……狂犬病の患者っておたく、見た事あるかい? 泡吹いて、白目剥いてさ。ノドの渇きが治まらないってんで、そのうち脱水で死ぬまでベッドに革のベルトでがんじがらめ……とにかく大げさかもしれないんだが、あの別嬪がする表情とは思えなかったんだ。路地裏で情けなくゲロゲロえずいてた虚弱体質にしちゃ元気すぎるかね?」
クルトの発言そのままではないが、フランもやはり憂いを含んだ微笑のハインリッヒの表情しか浮かべられないのは確かである。同じ部屋で過ごしていたルームメイトであるクルトにすれば、その異状はフランの比ではなかろう。
「駅前広場にも交番にも行ったが見つからない、そこで寮にでも戻ったのかと思って踵を返せばこの有様……ってわけだよ。オレにしたら、彼が無事であるに越した事はないんだが」
改めて大穴に目をやると、クルトはぼそりと付け足した。
「頭のおかしな連中に出くわしてないかって事が気がかりなわけだ」
そう、クルト・バヴィエールの口にした懸念は、市井に生きるいち市民として当たり前すぎる事だった。
正規の魔術師として一定の訓練を履修している経験のあるフランのような人間はともかく、簡易的な護身技術を二、三日の義務教育で齧った程度ではあの魔人二人に遭遇して只で済むとは思えない。運が良ければ一瞬で肉も骨も消し潰されるものの、呪術の媒介に体組織が用いられる事にでもなれば被害は当事者だけにはとどまらない。規格外に強大な地力を持ち合わせる存在とするなら、正体は土地そのものに霊的アイデンティティを有する魔神である可能性も浮上してくる。そうなれば、並大抵の魔術師程度ではまず事態の収束は不可能だ。
「いやはや、困ったもんだよ。放っておけない人種って、いるだろ。世の中にいくらでもさ。オレらみたいなお人よしを惹きつけるなんかがあるって言うの? そういうのに捕まるとほんと、暇しないんだよなあ。オレ、彼の事は好きだしさ」
未だ魔人たちの狙いは定かではない。彼らの戦力も、その規模すら明らかにはなっていない。政治的要求が目的ならば、わざわざ学校施設の寮敷地に押し入ってきたりはしないはずだ。目的もどうやらアルベリヒにあったようだし、当の本人ももはやこの場にはいない。哀れにも拉致されて殺されたか、それならばいくらか気分も晴れるというものなのだが。
だが、フランの曇った視界は自身の視力の低さに起因するだけではない。何か、胸騒ぎがする。
魔人たちの出現という異常に呼応して、何かがホリゾントで起こってはいまいか?
それとも、何かしらの異常に呼応して魔人たちが動き始めたのではあるまいか?
何か、普通でない事が起こってはいまいか?
何か、何か、何か……
――――『ひょろひょろ』した変質者に、心当たりってない?
不意に脳裏を奔るのはマグダの声。低い、同居人に心配を悟られぬよう殺した声だ。
――――その『ひょろひょろ』野郎……どうも、日をまたぐにつれて近づいてきているらしいのよ。
口の中が乾き、上手く呼吸ができなくなった。
舌はスポンジのように水分をうしない、口腔内で置物と化す。
――――質の悪い変態クソ野郎か、それともどこかしらで咒式でもかけられたか。何にせよ、イシュタルの目には得体のしれないバカタレの姿が見えてる。
吐息がまばらになるのを感じ、フランは自分が悪寒に震えているのがわかった。懸念がどこか遠く、フランのあずかり知らぬ場所で際限なく大きく膨張していっている。顎が、肩が、ぶるぶる痙攣する。
――――寮で一緒に暮らせればいいんだけど、外部からのセキュリティはこっちの方が上なんだ。
悪寒が足に辿り着く前に、そしてあわよくば恐怖を拭い去れればと思い、フランは歯を食い縛って駆けだした。縫製の崩れた右の革靴は脱ぎ捨てていた。
クルトの呼びかけにも応えず、フランは寮の外へと勢いよく転がり出でた。
(外部からのセキュリティ!? あんな連中にかかったら、どんな防性咒式も通用なんかしない!)
一目散に薄暗がりを駆けていく。汗で下着が張り付き、冷たい夜風が肌を突き刺した。走り難さを覚えた頃には、既に左の革靴も放り投げていた。靴下を小石が裂き、しかし痛みが今のフランを留める事はない。
車道の真中で不意に立ち止まり、フランは徐々に明かりが灯り始めるホリゾントのビル群を眺めた。立ち並ぶ建築群の隙間、コンクリート造りの割かし小奇麗なビルディング――――目当ての建物は、すぐ正面に位置していた。
過去数日間の記憶を辿っていく。今、行くべき場所の位置を的確に記憶の中から手繰り寄せていく。
「地上五階……7号室……!」
――――必ず、窓際のスタンドライトは点けたまま寝るように言ってあるから、昨夜はそれほど気にかけなかったんだけど。
尖塔を持つ、年季の入ったビル群の間に挟まり込む長方形のアパートメント。その五階、最も奥まった一室のベランダが備え付けられた大窓。
ぼやけた視界で細部を確かめる事は叶わなかったが、窓の奥が暗闇に閉ざされている事だけは分かった。
「イシュタルさん!!」
再びフランは駆け出した。
懸念の主、『ひょろひょろ』した怪人物――――と同一のものかは定かではない。しかし、部屋の主であるイシュタルがマグダの言いつけを破って窓際のライトを消すような真似は絶対にしないはず。ただでさえ、ここ数日は体調が思わしくなかったのである。
やはり、何らかの呪術を継続的に施されているのだろうか。フランは次々膨らむ厭な妄想を懸命に否定しながら、喉の奥からの血の臭いを噛みしめた。幸いにも駅前や街道から離れた地域である為、フランの前を遮る障害物はゼロに等しかった。
アパートメント正面、重々しい両開きのガラス扉を開いて中に入ると、フランはエレベータのボタンを勢いよくタッチした。非常階段以外に居住フロアへ通じる途は管理人室から伸びる階段通路のみ、その管理人室も現在は閉ざされている。
再度、フランはエレベータの『5』のパネルを叩く。しかし、内部でワイヤと錘が可動する音が聞こえてくることはない、
「どうしてよ!!」
思わず地団太を踏み、パネルを何度も押し込むも反応は帰ってこない。居ても立ってもおられず、半ば癇癪を起こしながら握り拳で重厚なエレベータの扉を殴りつけた。
立ち尽くしていると、今になって足裏が痛んでくる。走ってきた距離はそう長くはないものの、途中で瓶の欠片でも踏み抜いたのか、両足の皮がべろんと剥けて赤く染まっていた。
悔しさと、その痛みからついにじわりと涙があふれてくる。
「どうしてよ……動いて! 動きなさいよ!」
このすぐ真上で、か弱いイシュタルが『ひょろひょろ』とやらに蹂躙されている。
エミリア・ハルトマンや、その同胞の手に落ちている。
厭な妄想が、ついに現実のものと化してしまうのか。『蛇狩り』の一員となる切符を手にしてなお、自分は何ができるわけでもないガキでしかないのか。
「フラン……? フランなの?」
澄んだ、聞き慣れた発声がフランの耳に届く。声の主が靴音と共に駆け寄ると、続いてチューベローズの香りがフランの急いた心情を和らげた。
「フランツィスカ!? 貴女、どうして……」
エレベータの前で頽れるフランの肩を抱いた赤毛の少女――――マグダは、燃えるような瞳で涙目のフランをしっかりと見つめた。
今朝がたから同じ学部の女子と『デート』に向かってそのままの格好――――紺のベストにワインレッドのネクタイ、そしてベストに合わせたプリーツスカート。そこから伸びる両脚は白のタイツに包まれていた。
「イシュタルさんが……大変だと思って……それで」
「それで……わざわざ裸足で?」
血まみれの足元を見やると、マグダはくすっと笑って「せっかちなのか、これわかんないわね」とつぶやき、続いてフランを強く抱き寄せた。甘い香りがより強くなり、いつまでも嗅いでいたくなる欲求にかられるほど。マグダの抱擁は、心情の深層へ穏やかに慈しみを与えてくれる。フランは思わずマグダを抱きかえしてしまう、
「何があったのか、必ずあとで聞く。イシュタルの為に来てくれて、ありがとう」
数秒ののち、マグダは『5』のパネルを叩いた。パネルはフランの時と異なり、当然の如くマグダの指示通りに点灯し、指令をシャフト側へと伝達する。
「貴女はここにいて」
片手で自身のポーチを物色した後、マグダが取り出したのは一丁の半自動拳銃。かつて帝国機密警察内で使用された小型拳銃を祖に持ち、西側諸国の私服警官に愛用されるそれは、一介の女学生の持ち物にしては似つかわしくない。また未成年のフラン達には所持する事すら難儀するその代物にマグダは手をやり、手慣れた様子で安全装置を外す。
「イシュタルの事は、私に任せて」
700グラムに満たないその小柄な銃身はマグダの白魚のような手にもしっくり収まるものの、その32口径の殺傷能力は人一人を死に至らしめるのには十分だと思われた。黒のカラーリングのスライドが淡い室内照明を受けて輝き、ルームメイトの掌に収まる非日常をフランは未だ頭で理解しきれずにいた。
「マグ……ダ……?」
「場合によっては……私、ここで人殺しになっちゃうかもね」
マグダにとってのイシュタルとは。
その答えは、未だフランの中には示されていない。