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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
冥府を覗く
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傾慕

Dreams are often most profound when they seem the most crazy.

夢は最も狂っているように見える時にこそ、最も深い意味を示す。


Sigismund Schlomo Freud

 背を這い上がっていくのは慈しみにあふれた快楽の波。


 右肢を暖かく包み込み、その大きな両掌から放たれる金色の光の粒は彼女のこれまで目にしてきたどんな魔術現象とも異なる。現象に込められた意志を汲み取る事ができない、それはまるで異文化の言語を目の当たりにしているかのようだった。


 否、汲み取る事ができないのではない。むしろ意志のディティールは稀薄であり、より根源的な慈愛と癒しの念だけがフランの痛みと恐怖を中和してくる。柔らかで弾力のある、きめこまやかなものに包まれ、鼻腔には生後間もない赤子の肌の放つにおい。血錆と筋繊維がまとわりつく拷問機械は姿を消し、やがてフランは夢心地となる。レムからノンレムへと至る狭間、温かみある微睡を確かに感じながら、フランは徐々に意識のレベルを低下させていく。


 魔人エミリア・ハルトマンの同胞エドゥアルド・ブロッホの念は、彼らからすれば例えようもないほどにちっぽけなフランのもとに向けられていた。それは果たして信用に足る憐憫の情か、しかし朦朧としたフランの鈍った洞察では眼前の巨躯の擁している感情を察する事はままならなかった。


 未知なる体系の魔術を使う異能者たち。理解の範疇を越えた魔人。


――――死にたくなきゃ、生きたきゃ言う事聞け! 私は少なくとも、ここじゃ死にたくない!

 

 ひとつの反論も一片の反抗も功を為さず、無様にも痛みに屈してのた打ち回った。


――――だんまりはよせ! まだ死ぬなよ!!


 よりによって、自身が最も賤しめていたあの女の前で。


――――死ぬなら後で死ね!! 今死ぬんじゃない、少なくとも……あたしは死ぬのだけはいやだ!


 そして、今こうして魔人に対して畏怖と慈悲を抱き屈服せんとする事さえ、あの女の奸知に満ちた悪あがきなしでは許されなかった、だと?


 歯がゆい、情けない。くやしい。


 どうせあの女のした事――――攻性魔術へのタグ付与による攪乱戦法――――など、暇な院生が内職にでも飽きて考案した適当な咒式戦術をどこかから仕入れて試してみただけだ。単に運が良かっただけ、私が生き残ったのも私の行いが良かっただけ。あの女とは何の因果関係もない、奴の悪知恵が私の生死や因果を左右するなどあってたまるものか――――

 

 ああ、くやしい。


 そう全てを水に流すことができれば、どんなに楽であっただろうか。


 実力を伴うがゆえ、現実に優秀な人間としてレッテルを貼られてきた。フランはそんな傷のつきにくく強固な自尊心を持つがゆえに、致命的な矜持への一撃には脆かった。特に、嫉妬から強く意識し続けてきたあの義姉によってもたらされた痛打は尋常なものではない。くやしい。悔しい。くやしい。


 しかし、そんな想いもこの慈愛のなかで徐々に蕩けていくよう。


 追悔の念も、吹き荒れる恐慌の念も、エドゥアルド・ブロッホなる大男の両手から溢れる金の光がみるみる満たし、フランの分厚い暗雲に陽光の兆しを与えていく。


――――『抱かれている』


 地獄の責苦とも形容できる先の激痛から一転、エドゥアルド・ブロッホから与えられたヴィジョンは慈愛と叡智の抱擁であった。人間の深層心理には理性以前のプリミティブな思考の原型(アーキタイプ)理性あるもの(インテリジェント)心理に広く偏在し、意識の干渉の埒外に位置する最奥、ヒトの情動に対して無意識的領域から影響を与える原存在。


 もし、それが可視化する事ができたならば、皮膚や視覚、五感でその存在を確認できるのならば、恐らくはこう感じる事ができるのではないだろうか。


――――『激励をされている』


 大柄な男。痩身のフランの三倍はあろうかという広い背中、頑強さを物語る肩。


 老獪さの中に男性(アニムス)的な蛮勇を持ち、深く刻まれた皺で歪んだ相貌は、齢二十にも満たぬ婦女子など比較にならぬほどの知識と経験の量を感じさせる。ぞわぞわと全身を這うのは、先ほどまでの嫌悪感と身の危険から来る畏怖ではない。これは加護、慈悲による畏怖。


 圧倒的なまでに巨大な『父』のあたたかな手のひらが髪を撫ぜると、嬌声とともにフランの背がびくんと跳ねた。頭頂からうなじにかけて髪から頭皮にやさしく圧がかかるだけで、皮膚に直接指の腹が当たるだけで、小柄なフランの身体を電流が所狭しと駆け巡る。


――――もっと、もっと触れて。わたしに触れて、わたしを、なでて。


『フランは優しい子だね』


 張った喉仏の動きに合わせた、きびきびした発声。フランが感じている声は、男にして妖艶な甘露を言霊として発する、彼女にとって唯一の父性的存在によるもの。


『えらいぞ。フランは将来何になるんだい』


――――アル……アル兄様……


 アルトゥール・シュヴァイツァー。


 アルマ、そしてフランにとっての兄であり、彼女らにとっての目標。初めての魔術の師であり、初恋の相手。思春期をロンドンで過ごしたフランに芽生えた異性感情の根源だった。


――――アル兄様、アル兄様っ。


『アルマとなかよくするんだよ、いいね。けんかはご法度、あまり母様を困らせないように』


 誕生日には、いつも助手席一杯に二人の花束とお菓子を抱えて玄関で叫んでいた。アルマ、フラン。歯磨きして宿題して、いつもいい子でいられた子に先行投資だ。いい女に育っておくれよ、と余計なひと言を挟み、屋敷の侍従長にたしなめられる。本家の評価は放蕩者、長男に世継ぎを任せて自身はベルリンでの咒式設計士(プログラマ)業に精を出す自由人。さりとて家の財政が逼迫しているわけでもなし、分家や地方の縁ある老人からの評価を除けば目立つ欠点もない。きょうだい仲も悪くはなく、収入も並の職業軍人や木端役人とは比較にならない額をシュヴァイツァーに入れてくる。末子のアルマや養子のフランに対しても隔てなく笑いかけ、たびたびカイゼルスベルクの実家に顔を出してはたっぷりのベルリン土産を置いていく。


 遠くから徐々に近づいてくる幼子の声。


 それは果たして天使かクピドか、胴長なプロポーションの子らは鈴のように笑い、無邪気にフランの周囲を祝福するかのごとく輪を描いて舞い踊る。

 

 フランにとっての老賢者――――アルトゥール・シュヴァイツァーは、ここに再び彼女を愛をもって包み込む。


――――なんで、


――――どうして、わたしを置いていってしまわれたの。


――――わたしはこんなにも、アル兄様をお慕い申し上げておりますのに。


――――いつかはアル兄様のような、一人前の術士になるって……お約束……


『初恋に理由がいるのかい』


 そんなフレーズに心打たれ、より一層アルトゥールへの想いを募らせたのをよく覚えていた。


 遠く東方は皇国(ヤーパン)で綴られた恋愛譚、伊庭寧々子著の『黎明回帰』に記された一文。愛という情動には論理的な思考が果たして介在するのか、それとも識域下より要請される生物の衝動的、本能的奔流に突き動かされ現出する表層的現象なのか。


 主人公のふたりは恋に落ち、愛を育み、そして子の産声を聞く事なく両者は裂かれ死を迎える。そのたびふたりは生まれ変わり、そして恋に落ち、愛を育み、やがて同じく悲恋の末に壮絶な死へ辿り着く。時には異性愛、時には同性愛、しかし性別や人種が違おうとも二人は惹かれゆく。


 何度産まれて、何度生きて、何度死んでも、彼らは、彼女らは恋という情動のもと激しく生命の炎を燃やし続けて輪廻を繰り返す。しかし、あるとき片方の魂が記憶を保有したまま新たな生を迎えてしまう。当然ながら前世の自覚を持つ彼は、以前愛を誓い合った相手との再開を望む。祖国の列島を歩き、大陸に渡り、世界を巡り――――


 まだ、結末は読み終えていなかった。


 性別も人種もはっきりと明確に提示されていない彼らの結末を――――モニカ・マレブランシェは執拗に読み終わった上での感想を求めてくるが――――フランは未だ知らないでいた。


 ふたり互いに前世の記憶があった方が良いに決まっている。愛して愛して愛しあって、そしてそれからもふたり一緒に、永劫にわたって幸福の時が続けばいい。


 フランは、悲恋が厭だった。バッドエンドが厭だった。


 アルトゥール・シュヴァイツァーへの恋慕が悲恋で終わるのも厭。


 彼が最後に実家へ姿を見せたのは、いつの事だっただろうか。彼と入れ替わりで屋敷へやってきたリーゼロッテと初めて会ったのは、いつの事だっただろうか。


 いやだ。


 アル兄様に、あいたい。


 悲恋は厭、厭、厭。


 願わくは、わたしは『永劫』の中で眠っていたい。『永劫』の中で、アル兄様の体温を感じていたいの。このままずっと、あの人と一緒にいたい。厚い胸板、逞しい双腕、鼓膜を穏やかに震わせるあの声色。わたしを見てくれる、わたしを愛してくれる、わたしの強さを認めてくれる、優しい世界で兄様と二人。


――――永劫。なんとここちのよい、永劫。




 ふっ。


 嘲笑の意か、それとも皮肉屋でつかみどころのない『彼女』特有の仕草か。


『父』に抱かれ、大いなる承認と許容から訪れる快感に溺れるフランの視界の隅に映った彼女は、にやりと嗤っていた。白い歯を覗かせ、不敵な表情をこちらに向けていた。


 フランにとってのトリックスター(マグダ)は、永劫に抱かれる彼女を前にして不敵に嗤っていた。


 外側は見慣れた女子制服姿のマグダ、しかし彼女本人の発する奔放さは感じられない。むしろ、『本物』のマグダよりかはその意は読み取りやすい。否、こちらがあえて汲み取れるように意識を向けているのか。


「永劫。何という甘露か。神との同一化による永久のエクスタシー。その顔を見るに――――まさしく、深淵と呼ぶに相応しいかね? そこを離れるには骨が折れるだろうよ」


 マグダではない。彼女はこんな含みをもった回りくどい口調を操る人間ではない。マグダの姿を借りただけのトリックスターだ。


「シャンバラに背を向け、停滞に甘んじるその身に私から手を差し伸べる事ができぬ事が、今日ほど歯がゆく思った事はないな。ああ、実に残念だ。今の私では、こうして姿を現す事が限界なのだよ」


 そう言い終えると、マグダらしき人物はするりと両の髪の結びを解いた。髪の束がはらりとこぼれ、手櫛で長い後ろ髪を掬い上げる。すると、手の触れた赤毛はみるみる黒へと変容していく。さほど時を要さぬうちに彼女の頭髪は艶めく黒一色に変じてしまった。髪の先端から頭皮に向かい、インクが滲みこんでいくかのように頭頂、そして顎先までもが黒く染まっていく。


 前髪の奥にマグダの貌はない。頭部、貌のあるはずの部分にはぽっかりと穴が空いているかのよう。目も、鼻も、口も、覆う皮膚もそこだけが存在しない。黒一色の無貌がそこに顕現していた。


「私の貌を覗けんか? しかし、私から言葉で語りかける事はできるようだ」


 貌なき貌で、マグダだった者はどこから声を発しているのか。だが、漆黒がぶちまけられた空洞がこちらへ言葉を紡いでいる事ははっきりと理解できた。


「縁浅い身ゆえ、君の名も本質も、今の私では汲み取る事はできないが……ともあれ、邂逅は理性と理性の縁を深め合う至要たる事象だ。『逢えて』嬉しいよ」


 表情の代わりに虚空をたたえた彼女は快楽に一筋のひびを突き立て、嘲笑のようにとれる微笑みを浮かべたまま爪先より霧消していく。


「私はカール。カール・クレヴィング。もし君が永劫でなく、探究に身を委ねる時が来たならば、その時は心からもてなそうではないか」


 ひらひらと手を振り、カールは最後に言った。


「Gute Reise!」

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