もたざるもの
学生寮の庭園がオレンジの陽に照らされ、納魂祭のもたらす高揚がアルコールによる享楽へうつろいゆくころ。
未だ嚥下しきれぬ不快感を胃の内襞に絡みつかせながら、フランはしかし表情を凍らせたまま、鈍く輝く真鍮のドアベルの施された両開き扉、その真横の壁にもたれかかっていた。両の腕を組み、ときおり利き手の人差し指を持て余し気味にいらいら動かすのは無意識によるもの。
これから顔を突き合わせて対面する相手の事を考えると、午前のうちに味わった理不尽で悪趣味な体験も、あの女に対する怨嗟の放つ黒焔にはいとも容易く塗り潰される。第一声としてかけてやる言葉を吟味しているうちに、正義感――無論、フラン自身の有する二元的なものである―――の要請を受けた制裁ともいえるワードが次々に浮かび上がってくる。
あの女が愚かにも後生大事に胸の奥にしまい込んである矮小なプライドは、フランからすればこの世で最も低俗で卑劣極まりない、万人が秩序を委ねた先に存在する絶対的正義による矯正が不可欠なもの。
縁者すら顧みず、自身のフィルタだけで周囲を一方的に値踏みし、自身だけが畜群の中で輝きを有するに値する存在だと主張する、あまりに身の程を知らない自己正当化の為の道具だ。腐敗し、醜く変形し、羽虫の卵を植え付けられ、おぞましく変色した南瓜がいくら木箱の中で己の品質を主張したところで、それを手に取る者はまずいない。ひび割れた皮からは蛆が見え隠れし、液状に腐敗した果肉は悪臭をもって裂け目から広く飛び散る。
自らが敗者である事を知らぬ敗者の、なんと惨めで哀れな事か。
腐った果肉を恩師に向けてぶちまける事すら厭わぬ様などは、教育を受けた一般的な人間から途方もなく離れた極北で、無造作に撒き散らされたプライドらしきがらくたに縋って自慰に耽る知恵おくれの浮浪者に過ぎない。
アルベリヒ・シュヴァイツァーとは、そういういきものだ。
拝火人指導者アミル・カルカヴァンの提言する理性あるものの定義は未だ定まってはいないものの、要は『品性を変質させうる能力を有する存在』であるとフランは理解していた。品性なき生物は豚であり牛であり羊であり、腐肉を食らう野獣であり人を食らう魔物なのだ。升天教の啓蒙の光によって、大陸の人々は紆余曲折あれどイデオロギーを限りなく同質化させることに成功させた。
先の大戦における拝火とブリタニア、ローマ間で結ばれた対東方路線の融和もそうであるし、勇者信仰というヒロイックな偶像の提示によって、『魔物』という忌名を与えられ蔑まれてきた人々は啓蒙という炎の灯されたカンテラを手に諸外国と足並みをそろえる事ができた。数世紀の隔たりはあったにせよ、そこに品性を変質させるだけの柔軟さを持ち合わせた優秀な思考が拝火の側にはあったのだ。
かつて原初の勇者が魔物に理性をもたらしたという至宝『叡智の教義』が何であれ、例えそれが口伝の際に発生したフィクションであったとしても、大陸に革命を巻き起こしたマクガフィンである事は揺るぎない事実なのである。
「ごきげんよう、お久しぶり。直接お会いしに参りました」
抑揚のない冷たい声色でフランが呼び止めたその女は、先人たちの品性に尻を向ける家畜だ。己を畜群であると気づいていない畜群なのだ。
ああ、目を合わせるのもおっくうだ。無駄飯食らいのごくつぶし、この女の吐いた息がわずかでも自分の呼気と混ざり合い、あまつさえこの肺に入り込む事などを考えると怖気が走る。肺胞から何まで黒く焦げるように腐っていくのではなかろうか。
髪は川辺に打ち上げられた水死体に巻きつく水草のよう、シャーレでコロニーを形成する菌類を思わせるブルネットの模様はフケである。キューティクルの保全を放棄された襤褸を頭頂からすっぽり被りこんだこの不衛生極まりないシラミ女こそが、フランの義姉のアルベリヒであった。
「アルベリヒ・シュヴァイツァー。用もなしに貴女をこう待ち構えるようなまねはしません」
会話を交わす事そのものが不毛だ。
「手短にしてくれませんかね……フラン・オルブリヒトさん?」
おまえが物わかりよく聞いてくれるお利口な豚だったらば楽なのだよ、アルベリヒ・シュヴァイツァー。
「甲斐性ナシのロクデナシに何の御用でしょうか」
「あれはヴィルケ先生宛てにあれは送ったはずですが。知己の仲とはいえ、他人のポストを漁るのはよくないかと思いますが」
「なにぶん、貴女のように才も何も持ち合わせない哀れなヒトデナシですのでね」
心の中で舌打ちをする。そうだ、こういう性分なのだ。
性根から品性を放棄し、腐敗に歯止めをかける事なく怠惰のまま無為に生きているだけの『甲斐性ナシのロクデナシ』だ。
その評価を最初に下したのは、リ―ゼロッテ・ヴィルケに宛てた手紙の中での事。入学に際しての挨拶のつもりで、敬愛する自身の家庭教師の在籍する学府への憧憬と意気込みもほどほどに、フランはアルベリヒ・シュヴァイツァーに対する私見をつらつらと記していた。
魔術の名門における恥部、落伍者。
古くは中世期、シュヴァイツァーは拝火文化圏との大規模な宗教対立の鎮静化、および聖地の奪還を目的としたユーロ・テンプル騎士団にも名を連ね、人魔の戦乱と東西関係の悪化を中心とした激動の時代を帝国皇帝の下で戦い続けてきた。聖騎士親衛隊の家系にあたる高位の貴族であり、七十年前の帝政期には帝国東部と一部ヘルヴェチアまでもを手中に収める最有力大貴族であるヴィッテルスバッハ家と名を連ねるほどの名門であった。
帝国の敗戦によって大きく権力を削がれたシュヴァイツァー家ではあるが、東西戦争早期に当時の警察官僚であった当主フランク・シュヴァイツァーの手腕もあり、終戦後の右翼扇動行為の危険性を説いたロビー活動によって東方との太いパイプを構築する事に成功していた。
戦後まもなく、皇帝の退位から間を置かず勃発したブリタニアにおけるキャメロット事変もあり、厭戦気運が高まっていた共和国をはじめとする諸外国、そして升天教総本山であるヴァチカンからの信任を得たシュヴァイツァーは西側暫定政府および各種省庁の中枢にポストを確保した。同時に東方オリエンスの下へ割譲された帝国東側領ではフランク・シュヴァイツァー自身のキャリアから国家保安省、いわゆる警察官僚組織『蛇狩り』の設立、その総責任者として任命されるといった待遇で、シュヴァイツァーは東側へも迎えられた。
『蛇狩り』の前身は拝火と共和国が合同で試験的に設立された統合軍事組織である対テロ特殊作戦軍、その実働を担う特殊作戦部隊、通称『ネルガル』である。キャメロット事変の直接的な終結に関与した前歴を有し、また戦後ブリタニア諸島はエリン島で発生した大規模なジェノサイドであるタルティーン大虐殺の直接介入を行うなどの人道的活動を旨とした方針は、真なる国民国家の成立を願う世論のニーズにマッチしていた為、比較的スムーズに東西に受け入れられたと言っていい。
だが、旧貴族筋からは根なし草の売国奴として誹謗を受ける事も少なくなく、分家であるオルブリヒトの家に産まれたフランもまた社交の場における息苦しさをまざまざと感じていた。
とはいえシュヴァイツァーが西側で重用される根拠を認めている派閥が存在しているのも確かであり、 旧ヴィッテルスバッハ家系にあった政治家や官僚の庇護下で地位を確立している。隣国ヘルヴェチアやモントインゼルからの信が厚い事もあり、現にアルベリヒの兄たちは為替取引機関の重役としてヘルヴェチアはチューリッヒ、大陸の十字路においてエルフと共にプライベートバンクを司っており、世論からの評価は賛否分かれるというのが現状である。
大陸の経済と倫理の提示、そして財政各界には今もなおシュヴァイツァーという貴族の力は強く及んでいるのだ。
「私、今月よりホリゾントの法学部に入学いたしました。寮はあなたやヴィルケ先生と同じこちらの5号棟」
「そう……」
「それで、お加減はいかがですか? 魔術のお勉強は? 芽は出そうですか?」
「生憎、私が受け持つ分の才能や財はフラン・オルブリヒト。貴女にかすめ取られてしまったようです。にしても妙ですね、前途有望な貴女が……私のような搾りカスに何の御用ですか? ヒマなんですか? どれだけヒマなんですか? 時間の無駄じゃあないんですか?」
よくもまあ、似たような憎まれ口をたたくものだ。かすめ取られた、と抜かす。
養子である自分には純粋なシュヴァイツァーの血など流れていない、そんな事は重々承知の上だ。
確かに私が『蛇狩り』の内定を賜る事ができたのは、私一人のみの能力によるものでは決してない、そこまで自惚れるつもりもなければ卑屈にもならない。機会を与えてくださった叔父様や義母様、そしてヴィルケ先生の後押しあってのもの。おまえのように周囲を妬むだけの腐った南瓜とは違う。
私は人間なんだ。
私こそが理性ある人間なんだ。
品性のない愚かな家畜のくせに、他人をいらつかせる目でこっちを見るな。
「率直に申し上げます、アルベリヒ・シュヴァイツァー。故郷にお帰りになられてはいかがでしょうか?」
「貴女が……貴女がそれを決める権利なんて」
「ですから、『帰られてはいかがか』と聞いたのです。他人の話をしっかり噛み砕いて聞いてくださいませ。卑屈なりにも、頭に脳ミソは詰まっておられるのでしょうが?」
「何様のつもり……ですかね?」
私こそが人間サマだよ、魔物野郎が。
この女は文明社会で生きる事を赦されぬ、唾棄すべき醜悪な存在である。ありもしない己の才にしがみつき、富める者にへばりついてもろとも腐敗させていくガン細胞。二元のうちの闇であり、啓蒙の光によって切り捨てられるべき悪。
シュヴァイツァーから産まれいづる筈のない劣等因子。しかし、そんな塵ですら持ち合わせているものがある。どうあがいたところで叶わない、血統という忌まわしい運命である。
「アルトゥール兄さんもこれでは浮かばれませんね」
血統。
この恨むべき肉親同士の絆さえなければ、この塵にはあまりに不釣り合いなシュヴァイツァーという名がフランツィスカ・オルブリヒトのものであったのなら、こうまでフランが自身の心のささくれを掻き毟る事はなかっただろう。いくら皮をちぎり爪をめくろうが、溢れる血潮は正統なシュヴァイツァーのものではないのだ。
『蛇狩り』のメンバーになろうが、学業で優秀な成績を修めようが、それだけは叶わない。
あの穏やかな黒髪の麗人、本家現当主の第二子アルトゥール・シュヴァイツァーからの激励も、半ば乳母のように面倒をみてくれるリーゼロッテ・ヴィルケの憂いも、まず最初にフランに与えられる事はない。濃密な愛を賜れる事はない。フランは、いつも二番目だった。
血統。血統。血統、そして年齢か。才などあったところで、結局はそんな腐れ縁なのだ。
わかるか家畜。おまえが欲しがる魔術の才がちょっとばかりあったところで、得られるモノなどたかが知れているんだよ。
実にくだらない、実に理不尽な絆の為に、向けられるはずの寵愛をあの塵がかっ喰らっている。ろくに咀嚼もせず嚥下し、悪臭放つ吐瀉物と変じさせ吐き戻す事しかできないあの塵が。塵が。塵が!! 塵!!
「事あるごと自分を卑下して死にたいだのなんだのって、周りを妬んで回ってる。それでいて、貴女自身テメエは何をするでもない、ただ怠惰にお部屋でごろごろごろごろ。この一年で何か論文でも出しました? ああ、すいません。『第一種』落ちる人の論文なんて誰も見ませんわよね、」
この塵が。
そのまま故意に口を滑らせようとするより早く、激昂したアルベリヒはフランの襟首を掴みあげた。しかし――――
「臭ェんだよ、雌犬」
家畜に制服を乱された屈辱――――そして、自身では気づかぬ深部で育まれた嫉妬の念が合わさり、憤怒としてフランの感情に表出した。彼女の硬く握った縦拳は、怒りのままにアルベリヒの鳩尾に叩き込まれた。
よろめく義姉の野良犬じみたみすぼらしさを前にしてなお、赤縁の眼鏡のレンズ、その奥で昏く澄んでいた碧眼は真っ赤に血走っていた。