されば開かれん
ハインリッヒ・アルベルト・シュヴェーグラー 19/03/1932
「ハインの癖に生意気だわ」
ハインの手渡した、ラッピングされた小箱を胸の前で抱え、ほうっとゼフィールは息を吐いた。
いかに寮の談話室とはいえ、ストーブに火を入れてからさほど時間は経っていない。帝国の冬は厳しく、しかしゼフィールは高揚から頬を暖色にやわらかく染めている。
「開けていい? もちろん、いいのよね」
「も、もちろん。僕なりに、というか、それはその……似合うと思って買ったわけで……」
優柔不断が座右の銘として居座るハインにそんな明確な好意を示す手段としてのプレゼントを手渡すなどという行為などできはしない。いつまで経っても進展しない二人の仲に業を煮やした分校寮優良生徒、通称委員長のサモアール・プーシキナを筆頭に、生徒全員足並みそろえてハインの背中を蹴っ飛ばしたのだ。
子供の小遣いにしては値の張るブランドもののアクセサリ一式、小箱に詰めて差し出した。
確かに『子供のやる事』の範囲だった。ただ普段のやたらと大人ぶった、かつ強気なゼフィールなら、ムダ金使わず教科書でも買ったらどうかと爆発しそうなものだったが。
「ありがとう。大事にするわ……なに、その顔。私は別に、あなたのことが憎いわけじゃないのよ。分校で一人の男の子だったわけだし、そりゃ私たちだって……女の子なわけだし。それなりの見栄や慎みも携えてるもの。その上で、嬉しく思うわ。よろこびなさいな、ハイン。今日は私、とても気分がいいわ」
「やめよう」
『夢中夢』でなく、燭台の前のハインが言った。
「どうかしたかね」
『夢中夢』の光景は、時が凍ったかのように静止していた。似合わぬ照れ隠しか、もじもじと手指を動かすゼフィールも、燃焼を続けていたストーブも、談話室のソファの陰でぼそぼそと「押し倒せ!」「唇を奪え!」だのとジェスチャーでばたばた暴れていたクラスメイトのつぶやきも、凍った時の中では、何も響かない。
またしてもカールはふらりとゼフィールの真横に現れ、怪訝そうな表情をした。
「もういい、もういいよ……」
ハインの『過去ならざる感情』を無視するかのように、『夢中夢』は再び時を刻み始める。
「ええ、認めるわ。私も、あなたが――――」
「やめてくれ、やめろ! やめろよ!」
『夢中夢』を振り切ったハインは、激情にまかせ眼前の燭台を薙ぎ払う。がしゃんと音を立てて床に倒れるが、ともしびは依然として勢いを維持したまま、ゆらゆらと燃えさかっている。熱された金属に触れたハインの手指は、瞑想の中であるにもかかわらず赤く火傷を負っていた。
「やめろよ……」
「やめて、どうする?」
「知らないよ!! 嫌なんだよ、もうこんなもの観たくない……!」
歯の根が震え、恐怖が延々とフラッシュバックする。見慣れた校舎や寮の内装を目にするたびに、ゼフィールの顔を見る度に、操を蹂躙されたあの怖気が、皮膚の裏をはい回るかのような、背骨のそばにつららを突き立てられたかのような慄然が蠢きだす。
ハインの全神経を圧迫する不安感は、深層にこびりついたかの如く彼を際限なく責めたてていく。
家族同然に愛したゼフィールが、
父親のように想っていた実の兄が、
日常の一部を形作っていたクラスメイト達が、
今はもう、吹けば飛ぶような些末な妄想の中にしかない。その事実を芯まで納得しているからこそ、ゼフィールを、過去を直視する事ほどハインにとって耐え難い事はなかった。
「いい御身分ね、昨日より二度も気温が高いのに私よりも長く惰眠を貪るだなんて。ハインの癖に、今朝は神経が図太いじゃない」
びくりとハインが燭台の置かれていた台座の方へ向きなおすと、既に視界は『過去のハイン』のものへ没入していた。
額に皺を寄せておせっかいを焼きに朝から踏み込んでくるゼフィール。
食堂で既に食事の支度を終えている、手先が器用で要領のいいハルヴァ。
食事の前に、宿題のレポートの回収を手際よく行う『委員長』サモアール。
こそこそつまみ食いを敢行し、サモアールに叱られるカーシャ。
再現されるのはごくあたりまえの、今日もまた流れる筈だった普通の日常。今はもう、『現在のハイン』が入り込む事のできない世界だった。
「はぁ? なんであなたに論述見せなきゃなんないのよ」
「い、いいじゃないか少しくらい! お願いだよ、少しだけ……」
「この私に願い出るという事は、それなりの覚悟と対価は持ち合わせていると考えていいわけね。しもやけでおちんちんとれちゃっても知らないんだから……あら、何させようとしてるか想像しちゃった?」
「ハイーン、いいところに来たな。お前ももう十六だ、ちょっくらいい思いの一つや二つでも……」
「マルティン先生。あんまり実の弟にやらしい事は吹き込まない方がいいのではなくって?」
「ごっ、誤解だサモアール。君も本当に耳だけはいっちょまえの女になってきたな……」
「はじめまして! あたしカーシャ! カーシャ・ベルジャーエヴァ! こっちはハルヴァ・アダイェフスカヤ!」
「ちょっとゼフィール、せっかくなんだから貴女もおいでなさいな」
「――――あら。思っていたよりずっとずっと小さいのね……こんにちは。私が、わかる?」
「返して……」
次なる『夢中夢』の合間に、ハインは耐えきれずこぼした。
「帰してよ……返して……」
『夢中夢』でなく、燭台の前で、初めてハインは大粒の涙の玉を流す。とめどなく溢れ出し、やがて嗚咽が混じり出した。
僕が、僕が何をしたって言うんだ。なんで、なんで僕が……僕がこんな目に遭わなきゃあならない……! どうして、何があったのかも、今の僕はわかっちゃいない……ずるいよ……こんなの、ひどいよ……
しかし『夢中夢』は容赦する事なく、ハインの心を次なる想起へと導いてゆく。
「なんで……なんで、こんな取り上げられ方をしなきゃならないんだよ……許して……赦してください……お願い、だから……」
徐々に深淵へと近づいていく中、ハインの心情も動く。
「赦して、くれないの……? 許す、赦す、そもそも、誰が許す? 悪いのは……僕? 僕じゃないのか? 赦すって……なんだろう」
優柔不断。
しかし温厚で、憤怒や憎悪といった感情とは無縁の生活を送ってきた彼に、『闘争』や『殺意』というものが表に噴出しかける。
「僕がなにかしたのか……否、何も、何もしてない。何も知らないのだから……悪いのは僕じゃあない。誰かのせいだ、誰かが悪い……誰が……誰が何で……こんな事をした……どうしてだ……誰のせいだ……誰に、この想いをぶつければいいんだよ……」
「そうさハイン。探究せよ。肯定せよ。提起せよ。己を殺すのはもうやめだ、そんなものは時代に取り残された老人にだけさせておけばよい。穴に落とされたのなら這い上がれ。突き出た石を鷲掴み、その身を押し上げる腕と脚も与えよう。君の世界のすべてのものに魂を与えよ、すべてが生き生きとする様を浮かべるのだ」
ただ一人。
それを眺めるカール・クレヴィングだけは、その出来事をあたたかに、賛美するかのようににまにまと微笑んでいた。
「遅かれ早かれ、周囲に意味を見出していない人間は、そのしっぺ返しを食う事になる。一般性や共通事項に流され、空虚なる理想という価値観の基準に苦しみを覚え、自らを自らの手で苛む。応えは、神が与えるのではない。応じるは己が内に飼う神である。万人が共通して有する神など、そんなものは虚像に過ぎん。それについて語る必要は、今はない。語りえぬものには沈黙せよ。さあ君よ、ハインリヒ・シュヴェーグラーよ。己が渇望の起点、見つける事ができたかな? ならば結構、後は本能の具現たる欲望に身を任せ探求するのだ。己が世界に彩りを与えよ、其処には何もあるまいに。傀儡の園より這い出た君には、必ず生の祝福が訪れるであろうよ。聖剣の与えし選択を『肯定』し、『羽化』という途を掴みとらんとする君は祝福に値する――――生の営み、拝見させていただこう」