同居人
がちん、と乱暴に受話器を置いた事だけは覚えていた。
再びの視界の暗転ののち、気がつけばフランの視覚は水鏡にうつる自身の貌をとらえていた。
テーブルを挟んだ正面のモニカは、悪寒に青ざめるフランの表情を見て狼狽しているようだった。
「フランさん……? あの、どうかしましたか。フランさん、ねえ」
「失礼……ちょっと、お手洗いに」
「フランさん!? 何か、何か見えたんですか?」
鼻腔を蹂躙していた臭気が未だ抜けていない気がする。
今となっては、華やかなるティータイムの香気も吐き気を促す嗅覚への特異な刺激でしかない。円筒からはじけた爆炎の放つ、気化した油脂の臭い。鏖殺された生徒たちがはみださせた臓物、体液、脂肪、それら一切合財が音を立てて焼ける臭い。霧消した武装集団の残した、硝煙の臭い。
嘔吐感は思考にまで浸みこんでいき、不快な酩酊へと徐々に誘っていく。フランはふらつく足取りで食堂併設のトイレへと向かった。
「ごめんなさい、あんなもの持ってきたりして」
胃液まじりの呼気を自身で感じながら、フランは洗面所の鏡越しに背後のモニカの姿を見た。伏し目がちに手指を腰の前で絡ませ、不安げに彼女は言葉を紡いでいく。
「本当に、ごめんなさい。こんな事になるなんて思わなくて」
「貴女が故意にやったのでなければ、構いません……」
酩酊は頭痛へと切り替わり、フランを苛んでくる。瞼を開けば、鏡面のフランが血走った両目で此方を睨み返してくる。もたげる吐き気をこらえ、奥歯をぐっと噛む自身の貌は、生気を喪った土気色をしていた。
鈍色の蛇口のハンドルを勢いよく捻り、フランは冷水を顔にばしゃりとかけた。幾分か思考はクリアになったものの、水の滴るその相貌は一層湿った影を宿して見えた。
「悪気があったわけじゃあないんです、ただ……わたし……」
ぴたん、とフランの顎先から雫が落ちた。
「ご家族の事でもお悩みのようでしたし、何か気が紛れるようなものでもと。それに……」
そこまで言いかけて、モニカはもごもごと口をつぐんだ。
「それに、なんですか」
「……」
「なんですか」
自然と語気が強まってしまう。こうした煮え切らない態度はフランの最も嫌うものの一つであり、子供も騙せぬみえみえのおべっかと同じくらい唾棄すべきものだと彼女は考えていた。モニカを萎縮させる気こそないにせよ、どこかで彼女に疑念を抱いている。しかし、一方的に責めたてるつもりもない。フランは深呼吸をし、ふたたびモニカに語りかけた。
「……なんですか」
「あの……ね」
「貴女に向かってどうこう言うつもりはありません。心情の内面を直接映し出す呪いで気を病んだのなら、私に何かしら問題があるという事に他ならないでしょう」
「そんな事ないです、フランさんがそんな……おかしいだとか、問題があるなんて事、ないです」
眉を八の字に、モニカはついに瞳を潤ませ涙声になる。敵意や、明確な疑心を向けられた経験の少ない者の怯え方だった。
――――じゃあ、じゃああの不条理で、理不尽で、不可解なあの現象は何だったっていうのよ。
「フランさん……マグダレーネ・ヴィトゲンシュタインと同じ部屋……なんですよね」
「ええ。それが、何か」
「それで……あの……何か、されてないかと思って」
「何か、とは?」
いくら相部屋で、マグダ本人がバイセクシャルの気があったところで同衾した事などフランには一度もない。まったく健全な、とは言い難いものの、良好な共同生活を築けていると自分では思っていた。他人の私物を勝手に拝借するような卑しい真似などマグダが行うはずはないし、逆もまた然りである。
「マグダレーネ・ヴィトゲンシュタインは、他人に何か害をなす恐れがあるような人間だと、そう言いたいんですか」
未だフランの内にあるマグダへの羨望と親愛の芽は健在であり、フランは同居人に対する擁護の念を強めて言った。モニカ本人にその気がないにせよ、マグダを貶める物言いに我関せずとはしていられなかった。自然と低く、威圧するような発声になってしまい、モニカは「ひっ」と小さく悲鳴を漏らした。
「何もないならいいんです、ごめんなさい。変な事を言って」
「貴女がそう考えるに至った理由が何かしらあるんでしょう。それを教えて頂けませんか」
「……」
「お願い、教えてください」
他者に向ける余裕を満身創痍の身体から搾りだし、できる限り穏やかにモニカへ語りかけた。
「私も……ビアホフ先生やクラスの子からしか、聞いた事はないんです……けど」
ビアホフ……確か、地政学担当の教師だったか。フランが浮かべたのは、痩せぎすでフィールドグレーのシャツに黒のツナギで講堂に始業10分遅れで現れる禿頭の男性。講義のたびに出身地のガリアで起こった革命にまつわる自身の祖父の行いや、現在もなおパリで開催される拝火人権利回復デモについてを長々語りだすものだから、フランはあまり好いてはいない。
「か、彼女……ホリゾントに来る前、ちょっといろいろあったみたいなんです」
「それくらい」
容易に想像できる。やんちゃ盛りの愚劣な男子以上に奔放な感性の持ち主ではあるが、しかしこうしてまっとうに講義には顔を出しているわけだし、何より学業ではそこらの怠惰な大学生よりよほど優秀な成績を入試の時点で叩き出している。
「人を殴って、暴れて……騒いで。それで何年間か、心のやまいの病院といえばいいんでしょうか。入院していたそうなんです。どこか、はわかりませんけれど」
「騒いだ?」
「はい。街中に飛び出して、大声で怒鳴って回って……それで」
振り向くと、フランはきっとモニカの怯え混じりの表情を見据えた。
「それで?」
「そ、それで……あの、あのう」
過去、マグダレーネ・ヴィトゲンシュタインは傷害事件を起こし、どこかの精神科に入院していた。
身柄を拘束されるまで、無作為に周囲の一般人にむけて暴行をはたらき、失明した被害者もいたという。
それが、モニカの聞いたという『噂』であった。
「じ、実際に一緒に暮らしてるフランさんが何ともないのなら……きっと本当にただの噂ですよね、こんなの」
当然だ、確かにそこの知れない所はあるものの日常生活が困難なほどの疾患を抱えているとは到底思えない。フランにとっては、彼女の評判をいたずらに貶めるだけの悪質なゴシップ。そう思い込むのは自然な事だ、みんなマグダを知らないだけ。
単なる風評の流布、何の証拠もありはしない。彼女を知ろうともしない人間に、妙なレッテルを貼られてたまるものかよ。こちとらには身内に本物の気狂いも裸足で逃げ出すくらいのごくつぶしがいるんだ。あんなクズとマグダが同列、もしくは近しい人種だと? 冗談じゃない。
「根も葉もない、しかも他人の経歴に傷を付けるような風評の喧伝は、あまり褒められた事ではないでしょうが?」
しかし、こうしてむきになって考えるのはフランもまたマグダに対して畏怖めいた感情を抱いているからに他ならない。底が知れない、そして同居して二週間が経っても彼女の気心は未だ推し量れているとは言い難い。フランは彼女をいち女生徒として信頼し、また強く憧憬の念を寄せている。
だからこそ、自身が尊ぶマグダ像が穢される事が何よりも不愉快に感じてしまう。そして、マグダがフランにとって異質であるからこそ、彼女のそんな過去を完全に否定する事ができない。想いを寄せておきながら、フランも自身が低俗と断じたゴシップに躍らされ、胸の奥がささくれ立つのを感じていた。
――――結局は、私が好きなものを貶されたくないだけなのかしら。
「あ……う……」
「教師だろうが先輩だろうが、エルフだろうが猿人だろうが、結局は風俗に触れる一匹の人間に過ぎません。不特定多数の他人が言う事すべては正しい、だからあの人はああいう人だ、そうやって思い込むのは危険だとは思いませんか。モニカ・マレブランシェ」
それは、フランが自分に言い聞かせる為の発言でもあった。
モニカからの反論は無かった。潤んだ瞳をしばたかせ、モニカはシャツの裾を握りしめながらフランの意見を聞いていた。
かく言うフランも、それ以上鬱憤晴らしじみた説教を続ける気は無かった。先の酩酊が引き続き尾を引いている以上、午後の用事に備えて一刻も早く寮の自室で仮眠をとりたかった。
「今日はごちそうさま。部屋に戻ります」
言って、フランはつかつかとモニカの真横を通り過ぎようとした。
「あのっ、フランさん、フランさん」
「えらそうな事を言ってごめんなさい。埋め合わせはします、ごきげんよう」
また、教室で。
その一言がモニカに届いたかどうかは、今のフランにはわからなかった。