叫喚
瞼を開け、次にフランが目にしたものはモニカのにやけ顔ではなかった。
規律正しく木製の机が列を為し、木の板の張られたパイプいすに少年少女が腰を下ろしている。
フランもまた彼らと同じように着席しており、正面の席に着く男子の後頭部をいつの間にか眺めていた。フランの席は列の中央、その一番最奥に位置していた。
服装を見るに、彼らは学校に通う生徒か学生か。男子は黒の詰襟、女子は水兵の甲板衣じみた大きな襟の紺色の衣服。どちらも今のフランには馴染みがなく、また帝国でこのような制服を採用している学校機関など聞いた事がない。
彼らが生徒ならば、この場は教室か。立ち並ぶ机の前方にある教壇では、長袖のワイシャツに黒のネクタイ姿の男性が書籍を片手に何らかを朗読している。白髪まじりの頭をした、初老の痩せた男性だった。彼がこの場における教師だろうか、段落を読み終えると、続いて機械的に教室正面の黒板につらつらと白チョークで板書し始める。教室での講義が始まってから長いのか、既に黒板の半分ほどが何らかの言語で埋められていた。しかし、それらの文字はフランには解読できなかった。
――――この人たち……帝国人じゃない……
教師と思しき男性の顔つきは大陸の人種のそれではなく、フランに警戒の念を抱かせた。彫りが浅く、鼻を始めとする顔のパーツそれぞれが扁平だった。肌の色もどことなく浅黒く、瞳も褐色だった。周囲を見回したところでフランと同じ大陸人種は一人もおらず、教室内の全員が黒髪に扁平な顔つきをした異国の人間たちだった。
眠たげに眼を擦り擦り教師の講義を受ける者、意識を途切れさせ机に突っ伏す者、片や生真面目に板書を自身のノートに書き写す者。フランが留学していたロンドンの学校でもみられた光景だが、それを拠り所にするだけの余裕など今の彼女には無かった。
フランの机の上には、先ほどまでそこにあった水鏡の代わりに黒い電話機が置かれていた。無論他の生徒たちの机にこんなものはない。ホリゾント学生寮の各階に備え付けられているタイプとは細部が異なるものの、受話器と電話機が一体になった真新しいものである。
――――なに、なんなの……これは。ここは、どこなの?
窓の外の青空は、異常な状況に単身放り込まれたフランを嗤っているかのよう。澄み渡る蒼穹と日光が、フランにはおぞましく思えて仕方がなかった。
考えられるのは、モニカが取り出したあの水鏡。五十マルクだか何だか知らないが、破格値で得体のしれない呪いのかかった法具が流れ流れてバザーに並ぶなど珍しいことではない。古物商の資格を持つ者には仕入品を販売前に鑑定する事が義務付けられており、まっとうな商人であるなら解呪もこの際行っているはず。また、解呪が不可能なほどの術式が付与されているなら、そもそも売りには出さないだろう。
だが、一切合財がごちゃまぜになった祭りのバザーならば話は別である。流通経路が定かでない呪具が飛び交う状況を公的機関が完全に取り締まれるはずもなく、ただ金銭のやりとりだけが正しく行われる。
まんまと自分はその呪いにひっかかってしまったというわけか?
それとも、モニカ・マレブランシェの故意によるものか?
モニカが水鏡に呪いをかけたというのなら、それなりの動機があって然るべきはずである。これまでの付き合いで自分がここまでの仕打ちをされるだけの行為をはたらいてしまったか、あるいは付き合い始める以前より彼女は自分に憎悪を抱いていたのか。
いずれにせよ、これがモニカによって引き起こされた現象とは思いたくは無かった。出会ってが浅いからこそ、これはさすがに冗談が過ぎるのではなかろうか。
だが、単なる視覚への割り込み魔術ではない。周囲の異状は温度を、臭いを、明確な圧をもってフランを包み込んでくる。並の魔術ではここまで感覚質に干渉をはたらく現象を展開する事などまず不可能であるはず。だとすると、いち生徒のモニカがどうしてここまでの現象を展開する事ができるだろうか。
「×××××××××」
不意に、教壇に立つ教師がフランたち生徒の側に発言した。やはり、教師の口にした言語をフランの脳が処理する事はできなかった。
「××××」
「×××××××××××××××××××」
「××××××××××××××××××××××××××××××××」
やがて生徒のうち一人の少年がその場で直立すると、教科書と思しき書籍を手に内容を朗読し始めた。声変わりして間もない若々しい発声も、フランには単にいたずらに不安を掻きたてるものでしかない。
「××××××××××××××××××××××××××××××××」
耳から入る言語がもぞもぞと中耳で蠢き、多くの脚を有する蟲のように這いずり回っているかのような感覚。朗読する男子生徒、黒板に気だるげにもたれかかる教師、多くの生徒たち。その顔立ちから、フランは彼らを一目見て区別する事ができない。一重瞼の虚ろな目は何を写すわけでもなく、さながら物言わぬ家畜の双眼と相対している錯覚に襲われる。
汗ばむ額を手の甲で拭うと、フランは息を呑んだ。
腕を包む袖は、今朝がた纏ったホリゾントの女子制服のものではない。周囲の生気を感じられぬ女子生徒と同じ珍妙な制服のそれ。うなじの皮膚にかかる髪の束を手繰り寄せると、その髪はブロンドでなく漆黒を携えていた。
もしや、今の自分の姿は周囲の家畜じみた扁平な顔立ちの者達と同じ風貌なのか?
理性を感じられぬ褐色の瞳で何を感じるわけでもなく、せわしなくきょろきょろ眼球を動かしているのか?
――――何よ、どうなってるの? ただの転移魔術でもない、幻覚でもない! こんなの、絶対……
かつん、とタイル張りの床に何かが当たる音がした。
それはちょうどフランの真正面、教壇のすぐ手前にあたる位置だった。教師の男性が床に転がったその物体を目で捉えるや否や、それは閃光と音を伴って破裂した。ばしんと大気が振動し、フランの耳も膜が張ったように使い物にならなくなる。
続いて教室横の窓を突き破り、数本の円筒形の物体が飛来する。こちらもすぐさま炸裂し、教室内に爆炎と細かな金属片を四方八方に撒き散らした。
「××××××××××××」
男子生徒が、女子生徒がようやく悲鳴をあげる。教師の男性は最初の閃光とともに放たれた金属片の散布を至近距離で受け、力なく横たわるその全身を紅の華で彩っていた。被害を受けたのは男性だけでなく、既に四割ほどの生徒が爆炎と金属片の餌食となり、各々肉を、皮を焼かれ、抉られていた。
フランの左斜め前方で舟を漕いでいた茶髪の女子生徒は炎にまかれ、猿のような奇声を上げながら炎上する頭部をかきむしっていた。フランの前方の男子生徒は、後頭部がなくなっていた。魚類のすり身じみた色のやわらかな体組織が彼の頭蓋からこぼれ、脳梁と共にタイルにぶちまけられていた。
顔面の半分が裂け、左眼球が露出した女子生徒がフランの横で泣きじゃくっていた。声にならぬうめきを上げながら眼球に触れようとし、しかし激痛からそれもやはり叶わない。フランの足元にしたたってきた液体は、彼女から流れ出た血と尿だった。
先の少年の脳漿も、襤褸のように倒れ伏す生徒の血もいっしょくたになり、珈琲にミルクをたらしたように混ざり合っていく。
かろうじて軽傷に留まった生徒は惨状から脱するべく教室から出ていこうとするが、彼らが手をかけるより先に引き戸が乱暴に開け放たれた。
いの一番に先行した詰襟の男子生徒はドアの前で一瞬言葉を喪ったかと思えば、辞世の句も残せぬまま額から鮮血をしぶかせてくずおれた。
「××××××××××××××××××××××××」
再びの、生存者たちによる絶叫が響いた。
開かれたドアからは教育機関に決して相応とは言えぬ、全身を黒に包んだ集団がぞろぞろと入り込んできた。彼らの頭部は軍用メットとガスマスクで覆われ、表情を窺い知る事はできない。手にした自動小銃やナイフシース、胸部ホルスターに収まる拳銃、胴体部を覆う防弾ベスト。装備からして、フランは東帝国領の機械化歩兵の運用思想を連想していた。
戦闘車両と近代兵装を有するまったく新しい高速機動戦術を主体とした新世代の兵科――――を体現する未知なる存在が、フランの目の前で殺戮を繰り広げていた。痙攣を続けていた教師の頭部を撃ち貫き、もはや逃げ惑う事すらできなくなった無力な少年少女に弾丸を叩き込む。水風船に針を押し当てたかのように、ばしゃりと血液と内容物がフランの目の前にぶちまけられた。タイルのベージュは完全に塗り潰された。
じりりりりりりりん。じぃりりりりりりん。
炎が舞い、かつて生徒であった肉塊たちが炭化していく中で、フランの目の前の電話機がけたたましく着信音をかき鳴らす。
電話機は金属片や弾丸飛び交うなか未だ健在であり、傷一つついていない。フランの嘔吐物にまみれているだけだった。
じりりりりりりりん。じぃりりりりりりん。
今、この部屋で息づいている者はフランだけしかいない。フランだけがここにいた。生徒達を殺し尽くした一団は、煙のようにどこかへ消え去ってしまっていた。窓の外では変わらず爽やかな陽射しが大地を照らし、青空はどこまでも広がっている。
冷え切った腕を緩慢に動かし、震える指先で受話器を手に取るのは難儀な事だった。ぬちゃり、と。刺激臭を伴う胃液が髪にこびりつくのも構わず、フランはそれを耳にあてた。
『――――――――』
「もしもし」
『ああ、ああ。どうも、ひさしぶり。元気そうで何より』
わかる。受話器の先の人物が話している言語がはっきりと理解できる。しかしやはり安堵とは程遠い、その声は低くしゃがれ、こひゅうこひゅうという不自然な吐息のせいでひどく聞きとりづらかった。
『何年ぶりだね、ずいぶん会ってない気がするが……まぁいいや。我々には関係のない事だ。我々は我々が何なのかわからなければ、我々は我々が何なのかわからない事もわからないし、わからない。我々は我々なのがわからないし、我々は我々を何なのかわからない君が何なのかわからない』
「……」
『我々はただ痛い。わからないけどただ痛いんだ。それに寒いんだよ××××。そしてひどくひどく息苦しい。生きている心地がしないんだ。ああ、これもわからない。我々は我々がわからない。我々は我々が誰なのかもわからない。哀しいよ、ひどくひどく苦しいよ。熱いし寒いんだ。ここにいると気が狂いそうなんだ』
ぴちゃ、ぴちゃ、がさ、がさ。周囲で水音が響く。
『どうかな? 気持ち良かったかな××××。君が気持ちいいと我々は我々がわからない。君が気持ちいいと我々が我々をわからない。我々が気持ちいいと君は何も語らなくなる。我々はそれがわからない』
「何……言ってるんだか、わかりません」
『我々はそうあれかし、我々はかくあるべし、君の言葉にしたがって、我々はずっとこうしている。我々は何もわからない、我々は我々がわからない』
フランの震える顎がそれ以上何かを告げる事はなかった。
電話機から電話線が伸びていない事と、そして声の主の正体をおぼろげながら知ったから。
『ところで』
セリフに合わせて、周囲に散らばる無数の死体が――――顎部の残っているもののみがずりずり軋みながら、意味を有さない言葉を紡いでいた。
『きみァいったいだれなんだ? われわれはもォ、しにたくない』