談話
フランツィスカ・オルブリヒト 17/04/1932
クラスメイトのモニカ・マレブランシェが寮の部屋を訪ねてきたのは、法学部のアイドルである我らがマグダがデートにでかけてから、そう間を空けてからではなかった。
朝も早くから、黄色い悲鳴をあげながらマグダをかっさらっていった女子生徒達の背中を見送ってから一時間弱ほど。とある所用から少々気が立っていたフランは、心なしか気の置けない学友の参上に安堵していた。
紺色のニットセーターにベージュのボルドーパンツを合わせた私服は、物静かな文学少女たる彼女にしては珍しく快活な印象をフランは受けた。主張の激しくない、濃いワインレッドの髪留めで束ねられた栗色の頭髪は、色白な彼女の貌をシックに包んでいた。
入学して日の浅いうちは、入試主席のフランやベルンハルデに群がるミーハーな女学生の中に彼女も混じっていたが、いざ授業をまじえた通常の学校生活の中で触れ合うと彼女ほど付き合いやすい少女はほかにいなかった。マグダほどの健啖家ではさすがにないものの、彼女とは趣味が合致したのである。すなわち男色、すなわち衆道を扱う、それも極東文化の中で描かれたものに、フランとモニカの興味は向いていたのだ。
学園本棟に位置する図書館で知り合ってから二週間、司書を務める好々爺と顔なじみになるころには、週末には二人きりで古本屋とカフェ巡りで終わらせた事さえあった。
ひとしきり極東における愛の概念について語り合った後にマグダやイシュタルのもとへ向かうという充実した、もとい堕落に片足突っ込んだ生活に、優等生フランはずるずるはまりかけていた。それでも教師陣からの評価に悪いものはないのだが。
さりとてモニカも享楽にかまけて学業をおろそかにするような怠慢女学生でもなく、快活な性格ではないにせよ分別ある生活を送っている一人である。
「お時間、よろしいですか。すこし、お茶でもしませんか」
控え目なモニカの誘いに対し、フランはちらりと室内の掛け時計を見やってから頷いた。
夕方くらいに戻れば、私用には間に合うはずだ。そう踏んだフランは先までの態度を切り替え、級友との談笑に洒落こむことにしたのだった。
「今朝がたからクラスのお友達に誘われて、ちょっとだけお店だとかを見て回ったんですけど。わたし、どうにもああいう騒がしい場所って苦手なんです。あなたがいて、助かっちゃいました」
日付は4月17日、納魂祭に合わせて本日の講義はすべて休講となっている為、広大な敷地を有するホリゾントの学舎は水を打ったように閑散としていた。学内の施設そのものは解放されているものの、年に数度とない出し物の並ぶ華やかなホリゾント駅前広場や街道沿いで甘露や珍味を楽しむわけでもなく、学内軽食堂のぬるくてまずい珈琲や紅茶、しけたライ麦の丸パンを選ぶ好き者はいない。普段より勤務している調理師やウェイターも本日ばかりは厨房には詰めておらず、保存されているインスタントの食品を生徒が自身でわびしく調理する事となる。おまけに、休日に使えるのは常時開放されている壊れかけのサイフォンと、しょぼい火力のコンロのみ。多少の金を出してでも表のカフェで一服した方がマシであることをフランもまた知っていた。
しかし、目の前に置かれたカップに注がれている赤褐色の液体から漂う芳醇な香りは、とても安物のひなびた茶葉で淹れられた紅茶のものとは思えない。表面にぷかりと浮かぶ輪切りのオレンジが醸す柑橘の香りもまた、鼻腔を穏やかに撫ぜてくる。
人差し指と親指で取っ手をつまみ、フランは紅茶を口に含んだ。
「甘い、ですね」
「目が覚めると思って」
このささやかな茶会の用意を受け持った張本人のモニカは、角砂糖の小瓶に刺さるスプーンを抓んで言った。
「本場ではほら、こうして直接お口にお砂糖を入れて飲むそうですよ」
言って、突きだされたモニカの舌先の上には、融けかかった角砂糖のちいさな塊が乗っていた。
「本場?」
「これ、拝火の紅茶なんです。向こうだともっともっとお砂糖でじゃぶじゃぶにするんですって」
道理で馴染のない風味だと思い、フランはカップの中身を見つめた。改めて香りを嗅ぐと、ほのかに生姜のものと思える匂いも感じられる。
「どこでこんなものを?」
「ほら、駅前ですよ。お散歩程度だったけど……珍しいお土産でしょう?」
「なるほど」
曇った眼鏡のレンズを拭きながら、ふとフランは二人のテーブルの下で重たげに鎮座している茶色の紙袋が目が行った。
「それ、ぜんぶお土産って事ですか」
「ええ、まあ……お話のネタになればいいかなあって、思ったんですけど」
同好の志ともなれば、その財布の中身の使い道もおのずと見えてくるものだ。衝動買いの気質はフランにも負けないようで、袋狭しとガラクタとも骨董品とも区別のつかないような品々が詰められていた。
モニカは紙袋に手を突っ込み、中身を覗き込んで吟味し始める。がさごそ内部で金属がこすれる音、何かが砕ける音が耳に届いてくる。彼女、淑やかな見た目とは裏腹に、存外大雑把な面もあるのだとフランは苦笑した。
モニカがテーブルに取り出したのは、薄い青の光沢で覆われた円盤状の物体。大きさはニ十センチほどだが、ごとんと音を立ててテーブルに置かれたのを鑑みると、厚さは食堂のラウンドプレートほどにもかかわらず、かなりの重さがあるようだった。真上から覗き込むと、その顔が表面にはっきりと写り込むほどに研磨が重ねられている。外周部はところどころ金で縁取られ、蛇が自らの尾を呑みこんでいる様を円形の柄に落とし込んだデザインが用いられていた。
「水鏡……? 青銅じゃあない、ですよね」
「まさか。本物のオリエンスの青銅なんて、お祭りの露店やバザーじゃ出回りませんよ」
「それじゃ、偽物? わざわざそんなものを買ってきたと」
「わたし、そんなに話題作りに衝動買いするようにみえます?」
苦笑しながら、モニカは頭を掻いた。
「冥界の眼って、ご存知じゃないですか? ほら、わたしたちのクラスでもやってた子、いるじゃないですか」
特別周囲の女子には理由でもなければ興味など抱かない、フランはしばらく考えてようやくその珍妙な隠秘術を思い出した。
「お皿に水を張って、そこに聖別された私物を浮かべて……場所によっては刃物をくわえて水鏡を覗き込む。そうすると、将来の自分だの運命の相手だのがそこに映り込む。でしたっけ」
「うーん……それも派生の一説なんでしょうけど」
「鏡に通電して自身の願望を映し出しているだけの単なる現象、術とも言い難いおまじないみたいなものではなくて?」
正直、こんな稚拙な行為がホリゾントのような学府において流行しているなど、俄かには信じられなかった。それほどまでに異性交遊に夢を見ているのか、それともそんな事に拘泥しなければならないほどに日常が不毛に感じるのか。
「最近みんながやってる冥界の眼っていうのは、純度の高いヴォーパル鋼を使った鏡を使うみたいなんです」
「ヴォーパル鋼を?」
フランの知識にあるヴォーパル鋼とは、かつて魔王を討伐した勇者が振るった剣に用いられた聖なる金属。歴史がくだった現在では地中海方面で産出される鉱物の一種だと広く知られており、敬虔な升天教徒のロザリオなどに加工されている為、純度を気にしないのであれば平時のホリゾントでも比較的安価に入手する事ができる。
しかし、儀礼用でなく実戦に耐えうるほどの強度と切れ味を持った剣として鍛える事は現在の大陸の技術からは失われており、ヴォーパル鋼イコール勇者の抱いた聖なる金属とする論を疑問視する声も少なくはない。
ただし、拝火方面に実在するヴォーパル鋼で造られた柱が、数百年を経た現在でも錆びずに現存しているという逸話などから、独特の波打つ模様も含めこれを退魔の金属として重宝する人々の需要も多い事もまた事実である。
「ほんのお遊びですよ。露店のおじさん、五十マルクでいいって譲ってくれました」
「それは……安いんですか?」
「娯楽や趣味にその程度の出費なら安いものですし……そもそもわたしたち、おんぼろ冊子に数十ぽんと放り出すような人種ですし」
ぐさりと突き刺さる。確かに貧困に喘ぐまでとは言わないにせよ、口座からの引出しが最近になって回数が増えているのは確かだった。
「それに、ロンドンにまで留学しにいったとんでもない優等生の写すものがどんなものか、興味ありますしね」
わずかな照れを隠しもせず、モニカはそう付け足した。厭味はなく、取り巻きじみたおべっかでもない、フランはどことなくこそばゆくなってしまう。
「そんな大した事、私は考えてませんよ。誠実な男性と誠実にお付き合いして、誠実に結婚をして、誠実に生を全うするだけです」
「蛇狩りのエリートじゃ、そこらの貴族筋や成金は尻込みしちゃいますよ。あっというまに二十が過ぎ三十が過ぎ……」
「不吉な事を言わないでくださいよ、もう……」
さりとて、こうしてモニカと付き合うのも悪い気はしない。軟派なお遊びでお互いに笑いあうのは、こんなにも楽しかったものか。友人といえばマグダもそうなのだが、彼女と相対するとどうにも緊張が走ってしまうあたり、モニカの方が委縮する事なく気を楽にできる。
やがてフランはモニカに促されるまま、鏡の左右に手をかざした。
「咒式詠唱も下準備もなし……本当に通電させるだけなんですね」
「まあ、おまじないですから」
思わず、お互いにぷっと噴きだした。
「あなた、わかってるんじゃないですか」
「だってこんなので本当にわかるわけないですし。新聞の恋人募集欄眺めてた方がよっぽど有意義ですもの」
そんな会話を続けながら、フランはわずかに体外魔力を水鏡に向け発露させた。
指先からばちりと燐光が一瞬だけ迸ったかと思うと、音と共にフランの視界は暗転した。