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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
冥府を覗く
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くそ女

フランツィスカ・オルブリヒト 15/02/1929

 ある雪の日の朝、寡黙ながら揚々とした心持のリーゼロッテ・ヴィルケとは反し、彼女に連れられたフランは憂鬱だった。

 

 老若男女問わず、数多くの受験生がホリゾント学園正門広場に集っていた。ある者は泣き、ある者は浮かれる者に妬みの視線を向けていた。一枚の紙切れを片手に、一同は自身に割り振られた五桁の数字に希望を見出し、今日という日を各々心待ちにしていたのである。


 フランに先だって歩いていたリーゼロッテ・ヴィルケは、口数が少ない普段の様子からは考えられぬほどに饒舌であった。面倒見が良く、決して頭ごなしに教え子を怒鳴りつけたりはしない家庭教師の鑑たる彼女は、本日の合否発表で明日からの生活習慣が激変するであろう教え子の一人を人一倍、それこそ腹を痛めて産んだ実の母親たるやというほど気にかけていた。


 フランの故郷である帝国カイゼルスベルクからホリゾントキュステまでは列車で揺られまる一日、現地に到着してからは駅前のビジネスホテルで一泊したのだが、ドアマンやウェイターに手渡すチップの金額にも、その浮かれようは表れていた。


 ホリゾントの出題など、しょせんは有象無象のヘルヴェチア人教授が国内の参考書片手に数列や文例をちょろちょろいじりまわしてそのまま転載しているだけ、ヴァイルブルク系の息がかかった学校法人なんてそんなもんだ。彼女の地頭があれば九割は余裕だ。語るリーゼの口元は、その夜は常に綻んでいた。


 事実、教え子たるアルベリヒ・シュヴァイツァーの学力はフランと同じか、特定教科に限れば大きく差を見せつけるほどのものがある。幾何や代数はともかく、隠秘学や比較宗教、文化人類史においては必修のラテン語科目を含めて大学入学資格(アビトゥーア)のレベルにまであるとの事。


 此度の筆記試験さえパスすれば、アルベリヒ――――アルマはホリゾントの学徒という、魔術の名門シュヴァイツァー家の名に少なくとも恥じはしない肩書を手にする事ができる。それはアルマ本人にとっても、師たるリーゼにとっても喉から手が出るほどのものであった。


 正確な血縁こそないにせよ、アルマはフランにとっては姉も同然。しかし、シュヴァイツァーの家へ養子として加入したフランと比較すると、アルマは同家の重鎮や関係者にあまりに軽んじられている。当時はブリタニアの幼年学校に籍を置いていた幼いフランもまた、カイゼルスベルクの屋敷にやってくる叔父夫婦らの醸す空気でなんとなく感じ取っていた。


 アルマには魔術の才がない。


 未就学児すら行使が不可能でないとされる斥力展開術すらまともに扱えず、蝋燭に灯りもともせなければ林檎に傷一つ付けられぬ。術式行使技能制度は国民全員に課せられる魔術の資格制度であり、自身の保持する魔術の素養(バイタルマナ)の管理や健康異常の早期発見にも情報が活用される社会保険制度としても機能している。とりわけ第一種技能資格という区分であれば、幼年学校入学時に取得できて然るべき資格である。


 しかし、アルマは通年5年以上試験に落ち続けている。


 何らかの障害も疑われ、ベルリンの精神科医によるカウンセリングも数度にわたって行われたが、効果はなしのつぶて。絵本の挿絵の横に記されているような平易な短文におちょくられながらもペーパーテストは毎回満点、しかし肝心の実技試験ではまったく成績を残せていないのだという。


 これは果たして偶然の為せる業か、それともニヒリストであるアルマ自身の怠慢によるものか。 


 一度目の試験に落ちてから、フランはアルマとの接触を一部制限されるようになった。


 リーゼからは極力その件に関しては本人を刺激してはいけないと教わっていたし、また魔術史や宗教学の授業の際にはリーゼでなく、他の講師が屋敷に招かれるようになった。


 同じ屋敷に住んでいながら、フランがアルマと会話を交わす事は極端に減った。


 夕餉に際にも彼女は食堂に顔を出さなくなったし、高等教育の準備過程カリキュラムからも外れて自室に籠る事が多くなった。


 ほんの一度だけ、屋敷の廊下ですれ違った時にフランに向けられた眼差しは、酸欠で濁った魚の目のそれ。昏く沈んだ雰囲気を纏ったアルマは、フランにもリーゼにもその目を向けるようになっていた。


 フランは、失望した。


 仮にも姉ともあろう人間が、シュヴァイツァーの一翼を担うであろう女性が、立場の弱いこの私にむけてあんな表情を向けるものか? みじめったらしく舌打ちし、淀んだため息とともに陰湿な気をまき散らす。路傍で寝転がる浮浪者と何ら変わらない、負け組。痩せ犬。襤褸。


 人は知識だけで為るものではなく、気品あってこそ人である。人の一生とは、品性の完成をもって果たされうるものである。


 この志を共に夢見て研鑽に励んできた学友とはとても思えない。足を踏み外し、転落してしまえば人間こんなものか。シュヴァイツァーの正統な血の持ち主とて、こうなってしまえばおしまいだ。


 それだけに、リーゼがあのアルマにここまで肩入れする理由がフランにはわからなかった。シュヴァイツァーに媚びを売る為か、そうでなければ何がある? おおかた、それだけ考えてフランは邪推を取りやめる。リーゼが優れた教師であり、また人格者である事は周知の事実であるし、彼女を誹謗したところで何の利もない。リーゼの行為は、損得勘定を越えた純粋な奉仕の精神の要請によって行われるものなのだ。彼女は誰に対しても、ああして慈悲という無発酵パンを与えて回るだろう。寡黙ながらも確かな知恵を有す、リーゼロッテ・ヴィルケとはそういう女性なのだ。



「何しに来たんだよ」 


 この学部入試合否発表の場でフラン達が前にした大女――――少女アルマの声色は、枯れ木を思わせる老犬が絞り出した唸りのよう。濃い茶色のマフラーで口元を覆い、両手はトレンチコートに突っ込んだまま。光を宿さない淀んだ双眼は、目の前のフランにもリーゼにも向いていなかった。


 リーゼが言葉に詰まった事を推し図ると、さぞ不愉快そうにアルマはこちらに聞こえるように舌打ちし、唾を降り積もった雪へ吐き出した。


「何しに来たかって聞いてンですけど」


「一目、顔を見に来たんだ。どうだった?」


 一見すれば、いつもと何ら変わらぬ微笑み。しかし、アルマは底にある繕いの意を見通していたかのように表情を凍らせたまま崩さない。


「アンタにゃ関係ねえだろ」


 もごもご、ぼそぼそ。煮え切らない返答に、フランはリーゼの横で苛々した。


 アルマは握った右手をコートのポケットから取り出すと、掌にあったものをリーゼ目がけて投げつけた。かさりと軽い音を立ててリーゼの鼻頭に当たったそれは、乱暴に丸められた栞だった。一輪のアネモネの押し花と純白のリボンで鮮やかに彩られる栞が示すのは、アルベリヒ・シュヴァイツァーが晴れてホリゾントの学徒となった証。アネモネの栞は、入試上位者にのみ入学前課題と共に与えられる代物である。しかし無残にもアルマにとっては塵でしかなかったというわけか。


「さっさと帰んなよ。うぜえな」


 ざくざく大股で雪道を通り過ぎようとするアルマに、しかしリーゼは食らいつく。


「ま、待って……に、入学おめでとう、アルマ! 4月からアルマも私と同じ……」


「同じ、なんだって? まさか先輩風でも吹かせる気ですかね。院生だろうが卒業生だろうが、うざいんでそういうのやめてください。話しかけんな。きめえんだよ……キャンパスであたし見かけても近寄ってくんな」


「アルマ……アルマちゃんっ!」


「うるせぇなぁ!! 気安く人の事そうやってガキみてえに呼びやがって!! いつまでも母親ヅラ教師ヅラしてねえでさっさとシマにでも帰れよ、ブリカス女!」


 激昂した直後、アルマはひゅうひゅうと息を切らして再び正門とは反対に歩み始める。リーゼから知らされていた通り、既に学園寮への入寮手続きを済ませているらしく、足取りに迷いはない。


「揃ってあたしを笑いに来やがった。ふざけたクソアマども……せいぜいミジメに落っこちてりゃあ良かったかあ? 残念でしたクソカスども、もう二度と顔見せんなよな」


 繕いの笑顔がリーゼから剥がれ落ちるのと、フランが白手袋に包まれた拳を握りしめてアルマの元へ駆けたのは同時だった。


 凝固した黒い血がこびりついた手袋、そして反撃の拳で砕かれたメタルフレームの眼鏡は、帰りの列車を待つあいだにプラットホームのクズカゴへ放り投げた。

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