ハルヴァ・アダイェフスカヤ
ハルヴァ・アダイェフスカヤは、老獪で抜け目のない性格だった。
将来は法曹になるといい、何かにつけてハインやゼフィール達を相手に屁理屈まみれの弁論を披露してみせた。ぺらぺら回る舌で、やれどうバナナがおやつに含まれるのか、やれ円形のホールケーキを完璧な形で五等分するか、やれコンビーフの缶詰の形には何の秘密が隠されているのか、ある事ない事を並べ立てクラスメイトを苦笑させたものだった。
ハインの兄、史学担当のマルティン・シュヴェーグラーに対しても積極的に屁理屈をぶちまけた。論述問題の解釈を極限までごちゃごちゃとインチキ哲学で飾り立て、無理矢理正解をもぎ取っていたものだった。
煙たがれるような雰囲気をまき散らすわけでなく、のんびりのんびりした口調は会話相手の思考に苦もなく潜り込み、つい相手をしてしまう。猫のようににたにた常に微笑み、また猫のようにおちょくってみせ、猫のように小賢しく愛想をちょっぴりちらつかせる。
普段はぼんやりしておきながら、その乾く事を知らぬ舌の根で周囲をかきまわす。
「なあにい? 弟クンてば、あんなツンデレ見てコーフンするタイプだったのお?」
ハインよりなお小柄なハルヴァ。
「もっといい物件いっくらでもあるのにい。きっとおしっこ漏らすほどメンドくしゃいぞお。あのメンドくさいのが年取ったらどうなるか少しでも考えてみなよ。セックスレスから始まる不和はずぶずぶと深みへと君を沈めていくものなんだよう……お小言ばりばりの洗礼を若いうちから聞き続けて人生を締めくくりたくないでしょうが」
べらべら長話に巻き込んでくる鬱陶しいクラスメイト。
「物好きな弟クン、妙な趣味してる割には優柔不断のすちゃらかなんだねえ。夫には絶対したくないよねえ」
余計なお世話で完全武装した、ハインのともだちの一人。
「お幸せにねえ、ゼフィールだって処女なんだからさあ」
「ハルヴァ……ハルヴァッ、ハルヴァなんだろう? ねえ、ハルヴァ!!」
エミリアを追って辿り着いた先は、ホリゾントを見下ろす時計塔の裏手。赤瓦の敷かれたデパートの屋根の斜面に膝をつき、ハインの塔の傍らに立つハルヴァへ叫んだ。
佇むハルヴァまでの距離はおおよそ十五メートル弱。その姿は、今のハインならばはっきりと目にする事ができる。
飾り気に乏しい下着だけを身に付けた体には起伏は少なく、その小柄な体格はハルヴァ・アダイェフスカヤ以外に見間違える事はない。
濃紺の空の色をそのまま反映させる肌は生気ある肌色ではない。半透明に透き通り、色を持たない硝子のように周囲の景観が体表面で混ざり合う。透過の度合いこそむらはあるものの、筋組織や骨格、脈打つ臓腑の陰影がぼんやりと浮かんでいる。
金色に輝く瞳は焦点も定まらぬ様子で、ただ呆けたかのように中空へ視線を投げかけていた。
ハインが二言目をぐっと呑みこんだ理由は、ハルヴァの身体の像が人間のそれと大きくかけ離れていた事にあった。二本の腕、二本の脚、ハインの記憶にあるハルヴァは自身と同じく、ごく一般的な猿人のそれ。
眼前の彼女の影法師からは異形の触肢が無数に伸び、にちにちと粘膜をこすりあわせる音を響かせていた。首元から、外耳から、頭皮から。手指が変容した触肢もまた、蛸の肢を思わせる蠢きを見せていた。体表面は月明かりに照らされ、皮膚を覆う透明な粘液がてらてらと光を反射する。腰や背筋にへばりつく、脈動する腫瘍のような物体は触肢が絡みあい、うねっている塊。血色を失った肌質と同じく、ふるふると震える様は海月や海鞘を思わせる。
濃い茶色の頭髪は老婆の白髪のごとく色が落ち、のたうつ触肢の粘液にまみれて糸を引いていた。
少女の胸元からは――――無論、ハルヴァは少女を模した被造物でしかないのだが――――柔らかな肢体には似つかわしくない金属の鈍い輝きが真っ直ぐ伸びていた。五十センチ前後の長剣の切先が、胸骨から皮膚を破って露出している。海月のゼラチン質じみた肉や内骨格とは異なる、威光を刃に孕んだ剣身。先日ハインがその身に宿したエクスキャリバーと同質の霊格を有しているのは間違いない。
「寮のそばまで寄ってきた奴とは違ぇ。お目当ての個体だぜ、気持ち悪ィ」
眉をひそめ、ハインより先に辿り着いていたエミリアが言った。
「うだうだしてんなよォ? あたしがブフナーやディートリヒに抱かれたいが為に、奴を手土産にしねェとも限らねえんだからなあ」
エミリアの焚きつけを無視し、ハインは異形と化したハルヴァのもとへ駆けた。
ハインの接近を感知したのか、足元にずり落ちた腫瘍じみた触肢の塊をにじりながらハルヴァは振り向いた。潰れた塊はぐじゅりと破裂し、山羊の乳汁を連想させる白い液が瓦屋根に飛び散った。
半開きの口と双眼は、ハインの脳裏に白痴という単語をよぎらせた。首を傾けたままハルヴァはハインに焦点を合わせると、ゆっくりと両のまなこを開いていく。金の瞳が中央を飾る眼球がふたつ、透けた肌からぐりぐりと動くのがわずかに見てとれた。頭蓋骨を模した内骨格の人為的なディティールすら視認できるようになると、彼女の身体に骨格として収められているものが単なるサンゴ質の人工物である事を実感させられる。
「Hein……Hein……Hein……?」
なおも緩慢な動作で顎を上下させ、発音した単語はハインの名だった。声色に覇気はなく、ため息ついでの囁きのようだった。声色に明確な芯が感じられず、かすれていた。あるいは声帯すら既に変容し脱落してしまったのだろうか。
「僕が……見える? 僕が分かるか? ハインだ、ハインリッヒ・シュヴェーグラーだよ」
三ヵ月足らずの再開は、ハインに数年にも匹敵するカタルシスと喪失を与えていた。
ただ一人分校から抜け出し、あろう事か人外の秘術を操る魔人たちの集団に組み込まれるという孤独に苛まれ――――それからようやく再会できた、かつての友人ハルヴァ。しかし彼女もまた、非日常の側からは帰ってくる事はない。魔人の力の一端を手にしたハインと同じく、ハルヴァもかつての姿を捨て去り異形へと身を窶している。結果とは不可逆の末にあるものであり、どうあがこうとも干渉する事あたわず。彼女に語りかける前から、既にハインは確信していた。それでも、自分と彼女の名前を口にしないわけにはいかなかった。
「Hein……Schwegler……?」
「ハルヴァ……どこも痛くないかい、ハルヴァッ……!」
かざした右手に向け、ハルヴァは肩部から伸びる触肢のうち一本をおずおずと持ち上げた。てかてかした表面の肢は粘液をこぼしつつ、ハインの掌へと近づいていく。元より付いていた腕部は半ば融解しかけており、腕骨の一部は分解され透明な肉の中を泳いでいた。
「ハルヴァ……」
触肢の先端の包皮が開くと、繊毛を携えた細かな触手が姿を現した。じゅぷじゅぷ粘液を絡ませてうねる触手群はハインの掌にからみつき、手の皺をなぞるように愛撫し始める。そのなまあたたかいこそばゆさに、一握の安堵を感じてしまう。
敵意は毛筋ほども感じられない。
そうさ……だって、彼女は……あのハルヴァなんだから。
「ハルヴァ、帰ろう。こんな所にいるもんじゃない、さあ」
ハインはさらに一歩を踏み出すと、眼前の異形の口元がかすかに緩んだ。そして、じゅぷじゅぷ水音をたてながらつぶやいた。
「Ich mag dich sehr」
ごく自然な、敬愛する友人に向けての世辞。意図せず向けられた好意に、ハインの表情も綻びかけた。
次の瞬間。
水泡が鈍く弾ける音と共に、ハルヴァの背から胴ほどもある触肢が飛び出した。引こうとした右手は細い触手にかたく拘束され、手首にまで絡みついていた。咄嗟にその場から飛び退く事も出来ず、触肢でハルヴァのもとへ引き寄せられてしまう。
同時に、胸から伸びる剣身によって左肩が肉ごと抉られた。
「があっ……!?」
大型の肢がびちびちと生え並び、ハインの胴や手足を縛り上げた。万力で挟まれたかのように四肢を動かす事もできず、徐々に強まる拘束の中でハルヴァは変わらず呆けた笑みを浮かべていた。
ぬちゃり、ぬちゃり、粘液が衣服を汚し、三六度の体温の中でハインの骨は軋み、悲鳴をあげる。
触肢は使い物にならなくなった腕の代わり、そう言わんとばかりに、ハルヴァはぎしぎしとハインの身体を締め上げる。その意図は敬愛からの抱擁か、少女の表情からは依然として敵愾心は感じられない。
青ざめたハインの顔に、微笑みを貼りつけたハルヴァがにじり寄る。
ぱく、と開かれた口腔に歯は一本もなく、舌の代わりに平たい触肢が三本鎮座していた。頬の裏には、蠢く繊毛が生えそろっていた。
スキ、スキ、スキ、スキ、スキ、スキ、スキ、スキ。ダイスキダヨ
寮の部屋で感じた砂嵐が再び思考を襲う。
これらの意向は、ハルヴァのものではない。ハルヴァの中に潜んでいる『もの』が、ハルヴァを通して語りかけているだけに過ぎない。
そうであってくれと願ううちに、ハインの目尻から涙が零れる。その涙すら、眼前の異形にとっては採るに足らぬものなのか、それとも馳走足りえるものなのか。『ハルヴァのような物体』は、口からはみ出た三枚の扁平な肉を器用に動かし、ハインの頬の涙を舐めとった。
もう、見ていられない。
目の前のものが仮によく知る『ハルヴァ』なら、せめて人の言葉で叫んでほしかった。
魔物に堕ちた自分の身体を悔やむほどの理性を、その口から聞きたかった。
しかし、『ハルヴァ』はもういない。ハインの目の前にはいない。いなくなってしまった。
ハルヴァ・アダイェフスカヤは、ハインの生きる世界にはいないんだ。
ぐちゃん
手の甲の五芒の方陣だけが、黄昏の中ただそれだけが、蒼い光で理性を示していた。
異能たる『弦』を以て触肢の拘束を切断した。魔人たるハインには、もはや造作もない事だった。
かなりの重量を持っていたであろう触肢の先端を失ったハルヴァはよろめき、拘束から放たれたハインは遂に四肢の自由を取り戻した。
拘束を担っていた触肢を斬り飛ばした『弦』でハルヴァを縛り上げる。腕のかたちをしていない腕部、脚のかたちをしていない脚部をそれぞれ縛ると、ぼりぼりと内骨格が砕け、肉と白い体液が飛び散った。
「ア゛、ア゛ァァァァァァッ」
痛みによる絶叫ではなく、その『音』は快楽による嬌声か。上ずったハルヴァの声に、もはや理性は感じられなかった。
「心中でもするつもりだったのか?」
肩で呼吸するハインの背後からつかつかとエミリアが歩み寄り、横たわるハルヴァを見下ろした。
びたんびたんと触肢を瓦屋根に叩きつけ、白い体液をまき散らす肉塊。エミリアは無表情のまま制服のジャケットから拳銃を抜き、ハルヴァの頭部目がけ発砲した。
計四発、頭骨に穴を空けるも、肉塊の蠢きは収まらぬまま。
「人形を殺し尽くすには、胸元から伸びたばかでけえ剣。あの根本にあるブツを破壊する必要がある。開けろ」
エミリアが銃口で指したのは、ハルヴァの胸骨から伸びた剣身。ハインの肩を傷つけた際の血痕が、未だ刃に生々しく残っていた。
「丈夫な糸があんだろ。胸郭っつっても人工物だ、肋骨部が可動するようになっている。剣の根元開け」
言われるがまま、ハインは弦を動かし始める。もう、この場からすぐに離れたい。何も考えたくない。思考を誰かに委ねたかった。非日常から日常へ、もうギアを戻してしまいたかった。
「知恵の実の智慧。剣の根元にへばりついてるそれをブッ壊せば終いだ。顛生具現は使うんじゃねェぞ。ここまで慎重にあれを引きずり出した苦労がパアだ」
「どう、して……?」
「気になるだろうが、仮に今解説してよォ。テメェ理解できんのかよ?」
知恵の実の智慧――――なるものが、エミリアの言う通りの箇所にあるとするならば、まずはハルヴァの胸部を切開する必要がある。続いて、それを破壊する為には更に彼女の体組織を痛めつけねばならない。
「ハルヴァ――――ハルヴァ、ごめん。ごめんなさい」
両の手をぐっと握ると同時に、目をかたく閉じた。
ハインは自身の身体に再度魔力を通電させた。青の燐光が舞い、人形のかりそめの生命を摘まんとするハインの姿を虚ろに染めた。