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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
ハイン入団
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ハインリッヒ・アルベルト・シュヴェーグラー 18/03/1932

 歪んだ視界と曇った思考のなか、ハインリッヒ・シュヴェーグラーはかろうじて覚醒した。


 粘度の高いコールタールのごとき漆黒の液汁が頭蓋になみなみ充填されているような、二の腕や腿の骨が鉛のかたまりに成り果てたような、朦朧とした頼りなげな意識だけではままならぬ倦怠と無力を、つまさきから頭頂に至るまでで感じていた。


 そも、鉛と形容した身体の芯だが、本当にそんなものが自分の体に詰まっているのか。未だ全身は、昏い冬の海に沈んでいくかのよう。四肢に覚えるずぶずぶとした鈍い重みはやがてなまあたたかい微睡へと変わり、再びハインを誘う。徐々に皮膚になめらかなシーツの感覚やそのぬくもりを感じ始めたころ、


「ごきげんよう、気分はどうかね(フュンフ)


 昏睡への妨げに気づき、ハインはすこし気だるげに思った。


「――――」


 声を出そうと思ったが、ハインの口からは力なくひゅうひゅうと空気が流れるだけだった。顎に力を入れようとも、意識的には半開きの口は閉じられない。横たわる身体を起こそうとも、ぶるぶると痙攣のような末端の反応がわずかに感じられるだけだった。麻痺しているのか、そもそも本当にこれは自分の身体なのか。まるで、意識と肉体ある身体のはざまにに一枚の板が敷かれ、そのスリットから肉体を眺めているかのよう。板は半透明の樹脂製で、肉体の捉える外部の視界は、それを統括する意識たるハインに克明なヴィジョンを与えない。すべてが薄ぼんやりとした視界の中、あいまいな輪郭だけが読み取れるのみ。思考能力が著しく減退しているハインに、周囲の状況を判断することは困難だった。


「ああ、可哀想にハインリッヒ・シュヴェーグラー。無理もない、それは誰もが体験する通過儀礼のようなものだよ。きみも教会で洗礼を受けた記憶はあるだろう? それに比べればいささか過酷かもしれないが……なに、今こうしてわたしの声を聞くことができているなら、山は越えたと考えてもらっていい。言葉はものを表すものだ。たとえそれが不透明でつかみどころがないものだとしても、問いを提起する事ができる。きみに思考の材料を与えることができる」


 やがて、声の主はみずからハインの視界に入る位置に移動し姿を見せた。

 仰向けに、首をわずかに右に傾けて力なく横たわるハインのもとに、かれは屈んで顔を寄せた。


 鉄面皮かもわからない、にたにたした微笑み。


 今のハインの有様を見て、それを愚弄しているのか。それとも、この表情がかれにとってのスタンダードなのか。そんなちっぽけな疑問が浮かぶほど、この人間からは『まともさ』が乖離していた。この人間とまともに挨拶を交わしている自分を想像する事が出来なかった。


 口にする言葉が、果たして自分と同じ世界に住む人間のものと断ずることが、今のハインにはできなかった。


「名乗るほどの者でもないのだが……私はカール。カール・クレヴィングという」


 カールはハインのもとに募る疑念や懐疑に察知したのか、簡潔に名乗った。


「警戒しなくていい。わたしは君を害しようなどとは、芥一つ持ち合わせていない。ただ戯れに、眠り姫の慎ましい、白百合に横たわるその姿をまなこに焼き付けんがため……失礼、君は確かに純なる少年であったか」


 歯の浮くような無意味な口上も、ハインの耳には上滑りしていく。


 カールは無抵抗なハインの顔を撫ぜ、双眼にかかる前髪をやさしく手で払った。微睡に落ちる前よりも髪がずいぶん伸びているかに感じた。


「なに、心配することはない」


 常に思考を先読みでもしているかのような物言いに、いよいよカールが只人とは思えなくなっていた。ゆとりある白のブラウスに、黒のスラックスといういでたちの中性的な麗人、カールはハインのベッドの傍らにある樫の椅子を移動させ、腰を下ろした。


「今のきみは、いわば蛹だ。若葉を一心不乱に食らい、それで得た知識や叡智を自らの身体で反芻している。今のきみの皮膚一枚より下は、只人のそれを凌ぐ速度で代謝が行われている。脂肪はより熱量を蓄える効率を高め、筋肉はよりしなやか且つ強靭に、骨はあらゆる衝撃からきみを守る為に柔軟さと頑強さを備えようとしている。意識が覚醒したということは、蝶としての羽化が近いと言ってもいいかもしれないね。もっとも、無理は禁物ではあるが」 


 蛹、とはいい得て妙だ。


 そう考えると、この文字通り手も足も出ない状況にも納得がいく。骨も脂肪も筋肉も、あるいは臓物さえも、新たな定型への再構築を目指している最中であるならば、この倦怠感も受け入れることができた。身体全体を一度は生命の出汁(エッセンス)へと回帰させての変容。

ハインは意識こそおぼろげながら、細かな微粒子が少しずつ体内で結合しあい、体組織を組み立てあっていくコミカルな様を浮かべた。


「新たな目覚めが楽しみかね? それとも……」


 カールはハインの黒髪を撫ぜながら言ったが、途中で口をつぐんだ。


「いや、要らぬ懸念はかえって毒だな。とにかく、今は身体を無事に作り上げることを考えたまえ。身体を、その肉ある四肢を行使するのは他ならぬ君自身だ。肉ある真を乗りこなせよ、ハイン。まずは個我から名を定めよ。個我の求めるものは果たして何か、ハインリッヒ・シュヴェーグラーのみが求めるものを求めよ。いいかね、ハイン」


 低い女性のようなカールのきびきびとした発声。目をかけた生徒にこんこんと持論を告げる教師のように、カールは微笑を口元に貼りつけたまま語った。


「深く、そして閑かに己の心の海へ潜航せよ。余計な持ち物は何もいらない、時計の針の音も必要ない。心の臓の脈動だけを耳にするんだ。いいねハイン」


 触覚が未だ正確に機能していないハインの耳殻でぼそりと呟くと、カールは手のひらでゆっくりとかれの両の眼を覆った。


「瞼を閉じて。今の君には易い事ではないだろうが……そうだ、よくできた。なれば、次は闇に浮かぶ燭台を浮かべよ。一本の柱から左右に三本ずつ、七つの先端に七つの灯が暗闇に光る、そんな燭台(メノラー)だ。いいかいハイン。君はその燭台(メノラー)の前に座っている。きちんと肘掛まである豪勢な、君だけの椅子だ。君が燭台(メノラー)のともしびを見つめる部屋は、椅子と、その燭台(メノラー)以外に余計なものは何もない」


 言われた通り、ハインはその光景を想像した。視界を封じられ、黒一色に包まれる思考にある燭台は、煌々と想像を彩る唯一の光源だ。


「これから君にしてもらうのは、簡単な瞑想(メディテーション)だ。ありのままに、君の身に起こったことを想起すればよい。今は、そこに意義を見出す必要はない。ただ、自身の体験を個々の区切りをつけた映像の情報として」

 

 声のみでその存在を感じさせていたカールは、ハインの想像の産物である燭台の部屋に音もなく姿を現した。依然としてハインは視覚を封じられており、他の感覚も未だ綿雲に包まれているようなもの。やはり、これもカール・クレヴィング特有の奇術か。


 肘掛付の豪奢な椅子に華奢な身体をおさめるハインの背後、カールは革製の背もたれに寄り掛かって言った。


「君が意識を喪う直前……まずは、その場面を私に見せてくれ。できる限り克明に頼むよ」


 ともしびの前で熱を感じながら、現実のわが身と同じくハインの意識は徐々に(うつつ)と夢想のはざまへ埋没していった。


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