雑音
「至極、簡単な事よ。お友達に対して何やら想うところがあるんならだ。他のメンツより先にブッ壊してやった方が、テメェの胸も晴れるってもんだろォが」
エミリアは寝室入口の傍のテーブルに置かれていた小袋をひったくると、中身の干しブドウをつまんで口に投げ込んだ。
「恐らく『Ⅲ』や『Ⅹ』……あの辺はギャースカうるさくヒスるだろうなァ。おお、うぜえったらねえ」
ようやく身体を起こせるようにまで回復したとて、依然として鬱屈した感情をハインは抱いていた。
「もし……もしも、ですよ」
「もしも、何だ?」
「彼女たちの身柄を拘束した上で、騎士団から隠し通し……」
「無駄だ。さっきも言ったように、儀式遂行に頭が切り替わった人形どもをテメェの言うような『元に戻す』なんて事は不可能だ。何せ、今のフルークのカキタレという立場こそが連中の素なんだからな」
「でも……!」
「おいおいおいおい、いい加減くどいぜⅤ……昇った太陽を元に戻せるか? できねェだろ?」
この事象は、起こるべくして起こった。人形として生を受け、仮初の人格をハインとの触れ合いで育み、そしてハシラを降ろす為の媒介として完成に至った。すべては不可逆であり必然、そこに理想が介在する余裕はない。エミリアの主張を解釈するとそういう事だし、ハインもまた半ば受け入れつつあった。
ただ、感情がそれをどうしても許容しきれない。
「壊し……殺したく、ない……」
カーシャは、ハルヴァは、サモアールは、ハインにとっての家族も同然。ゼフィールに至っては、稚拙ながらも好意を交わしあった仲でもあった。例えそれが人形として、撫物としての人格を育成するための『教育係』に向けた偽りの感情だったのだとしても、ハインは自己の経験にある刹那を踏み砕く事ができなかった。
「驚いたな。風穴あれだけ空けられて、まだお人形が恋しいかい」
あんたみたいな、いかれた魔人にわかってたまるか。
僕は人間なんだ、家族同然に過ごした少女たちを慈しんで何が悪いんだ。
おかしいのは僕じゃない、そっちの方だ。僕が何か間違った事を考えてるか?
「ただまあ、もっとも……仮に人形でなくたって関係なかろうよ。一切は不可逆、すべては流され過ぎるのみ。そこにはただのひとつも例外はない。時が遡る事などはなく、原因と結果がそこに在るのみだ」
「だから、こうして悔やむ事も許されないと?」
「悔やんでどうすんだよ、わからんガキだな。テメェがどうこうできた事でもねぇだろうが。うだうだ胃の中身反芻させてる暇があんなら、テメエの切り札いつでも抜けるようにはしとけや」
がさり
「痛ッ……!」
エミリアの発言の直後、つんと耳の奥で鋭い痛みが走った。
じゃり じゃり じゃり がさ がさ がさ
砂利がタイヤで踏まれるよりも細かで、厚紙を裂くよりも甲高い音――――雑音が、モールス信号よろしく感覚を空けながら、ハインの聴覚を犯していく。内耳に針を突き立てられ、頭蓋には針金がねじ込まれる。その熱い痛みは、どす黒い不和と怯えをじわりじわりと広げゆく。
汚染はやがて視覚へと浸食していくよう。視界の隅に赤黒い縁が滲み出したかと思えば、黒々と
した血管を思わせる触肢を這わせ、自らを縛る境界を侵犯する。蒼い海原によどんだ重油が流し込まれ、ハインの不安定な理性が更にかき乱される。
心の臓が高鳴り、血圧もまた警鐘を打ち鳴らす。
さながら、それは誰かに自分の裸体の隅々を視られているかの緊張だった。皮膚だけでなく、ありとあらゆる孔、体毛、そして皮下、脂肪、筋肉、臓腑。薄皮一枚血管一本、それぞれを丁寧にめくられむしられ、舐られながら吟味されている。
「あ、がうっ……ああああっ……!」
聴覚は未だに雑音に苛まれ、壊れたラジオに耳を押し当てているかのよう。
五感は形のない砂嵐の只中に放り出され、ここが寮の一室のベッドルームである事さえ疑わしくなる。
静脈血に満たされた水槽越しの視界は灰色の砂嵐に蹂躙され、横にいるはずのエミリアの姿さえ捉えられない。
代わりに浮かぶのは、暴風の中でその姿をゆらゆらとくゆらせるひとつの影。
人であるのは間違いはなく、しかし男か女か、老人か少年かの区別はつかない。
ただそこに虚ろに立ちつくし――――髪か、触手のような器官を一心不乱に振り乱していた。
身体のどこからそれが伸びているかも定かでなく、歪んだ姿がひょろひょろ蠢き続けている。
僕を視ているのは、この妙な化け物なのか?
がさっ、がさっ、ざざざ、じゃじゃじゃじゃじゃ
目にあたるものもない、しかし腹腔に、頭蓋に視線を感じるのは確かだった。神経をむき出しにしたまま強風に晒されるのも生易しい、さながら生皮を錆びた刃で削がれる家畜か異教徒か。
ひょろひょろとたなびく影は数を増していく。
後ろに三人、前方にもう四人、右方に六人左方に三人。
彼らの視線に含まれるは嫉妬、羨望、歓喜、好奇心。隙あらばこの身を奪わんともする、卑しく傲慢で哀れな感情が流れ出ていた。
ぐん、と肩を引かれたかと思うと、ハインは強か床に引き倒された。聴覚は耳鳴りと雑音に満ちたままだったが、意識はそのおかげで現実へと回帰する事ができた。か細い腕でそれを容易く行ってのけたのは、エミリアだった。
「ポアッとしてんじゃあねェぞ、ガキィ……」
彼女もまた額を片手でおさえ、不快さを表情にはっきり露呈させていた。
「あなたも、視えているんですか……!?」
「あたりめえだろ、こんなもんしょちゅうだよ糞が」
「これ……一体何なんですか……!!」
眉間にしわを寄せ、苦々しげに干しブドウを嚥下したエミリアは悪態をつく。
「ホリゾントに入ってから……ますますひどくなってきやがるぜ。こればっかりは慣れねえな」
よろめきながら寝室から出ていったエミリアを追い、ハインもまたほとんど千鳥足でリビングへ向かった。
日没はとうに過ぎ、窓の外は既に黄昏に沈んでいた。開け放たれたガラス戸の前で、エミリアは眉間にしわを寄せ、ある一点を憎々しげに睨み付けていた。
碧眼が見つめる先は、寮の裏手側に建つ街道沿いのデパートメントストア。コンクリート製の時計塔の頂上にいたそれを、エミリアの背後のハインの目も捉えることができた。
「ハイン? 見なよ、奴さんが原因さね」
「原因……」
「テメェが五人をさっさとブッ殺さなきゃあならねえ原因だよ」
二人が見据えるそれは、人のようにも見える影。
たよりなくぶらぶらと揺れ動き、かと思えば体幹を固定したまま触枝にも見える器官をひょろひょろとのたくらせる。
「幻覚じゃあ……なかったのか」
「明日の夜、十三騎士団の総員がこのホリゾントに揃う。納魂祭に合わせて……儀式魔術の最初の仕込みってやつを執り行う為にな」
がささっ がさ がさしゃしゃ じゃじゃじゃ……
再びの強い雑音が迸る。それが無意味だとわかっていても、ハインは咄嗟に両手で耳をふさいだ。
「理屈はあたしもどうだかはわからんが……あのヒョロ長は、顛生具現のユーザーにガン飛ばしてくる、いわば自然現象らしい。あたしらが感覚で探知できる範囲に入りこんで……夜な夜なこうしてケンカ売ってくるわけよ。もしかすると、あたしらがモタモタしてっから焦れてんのかもしれねェな」
「ホリゾントにだけ現れるんじゃないんですか……あんな魔物、見た事もない……!」
「ここまで他人の頭に干渉して来やがるような事してくるのは、今月に入ってからだ。それに……」
窓を全開にし、エミリアはその縁に革靴をかけひらりと飛び乗った。
ハインほどの激痛でないにしろ、エミリアは痛みに顔を歪めている。その口元は、わずかながらに綻んでいた。
「それに、ここまでヤローのツラがハッキリ拝めた事もこれまでねえ!」
「ツラ……あ、あれが誰だか……見えたんですか!」
先の幻視と同じく、ハインにはおぼろげにしか人影は映らなかった。時計塔に立つ『ひょろ長』もまた、靄がかかったかのようにその相貌を確かめる事ができない。
二キロ強の距離がありながらその顔を覗いたエミリアは白い歯を剥き出し、豹のごとき唸りをあげた。
「ありゃあ……くははッ……もう降りてやがんのか? テメェには視えねえかハイン。あの糞きめえ魔物モドキをよお」
「魔物モドキ……?」
「いいぜえ。タタッ殺してやるよお……テメェさえ壊しゃあ、クソ騎士同士の乱痴気騒ぎが確定だぁ」
白い指の関節をごきごき鳴らし、低く震えるように呟く。
「ムカつくんだよ、吐き気がすんだよ……ガワをそうやって取り繕おうが、テメェらみてえなゴミクズどものシミったれた気質は隠せやしねェんだよ……くせェんだようぜェんだよ、胸糞ワリィんだよ豚がよォォ」
大腿の筋肉が力強く収縮してからしなやかな跳躍。エミリアはごく自然に、狭い街路を挟んで隣接するビルの屋上めがけ、ひらりと身を宙に投げ出した。
「テメェは来なくていいのかあ!? 来ねえとお友達の辞世の句も聞き逃しちまうぞォ?」
覇気に溢れるエミリアの叫びが耳を貫く。そして、エミリアの言葉の指し示す真意を汲み取るのには、さほど時間はかからなかった。
「お友達の……辞世の句って……なんだよ」
例え顛生具現――――の末端を修めたところで、自分は未だ何も掴んではいない。
情報が、あまりにも少なすぎる。すべてを繋ぎ合わせるには、自分はあまりにも儚く、どうしようもなくがらんどう。
重なりゆく理不尽の積層の底で、癇癪を起こしそうになる。誰でもいい、何でもいい。僕に何かヒントをくれ。理不尽を抜け出すための糸口をくれ。
どうか、僕に蜘蛛の糸を与えてくれ。
握った両拳からじわりと汗の混じった鮮血がしみ出し、絨毯敷きの床に乾いた音を立てて落ちた。
「僕の知ってる誰かが居るなら、誰が居るか言っていけよ……ふざけんな、かっこつけてるつもりなのかよっ」
エミリアの背は既にはるか遠く、軽やかに屋上から屋上へ飛び移り、辛うじて明るい頭髪だけが揺れ動くのが見えるだけ。
「サモアール……ハルヴァ……カーシャッ……」
かつての級友の名を噛みしめながら、ハインも続いて窓枠に足をかけた。
「ゼフィール……いるのか、そこにいるのか! 君たちは、そこにいるのか!?」
咆哮に呼応するかのように、ガラス戸にかけた右の手の甲が熱をこもらせる。傷からのものでなく、確かにそれは甲から燃え盛る情念。
手の甲に淡く浮かんだのは、円陣を思わせるかたちの痣。 白手袋に描かれた――――ベルンハルデの展開した、顛生具現の五芒方陣だ。ハインの感じる熱に反して、円陣から放たれる光の粒は蒼。ホリゾントのランドマークであるアークソードの放つ燐光と同じ、深い海原の蒼だった。
きりきり、かたかた、木製の糸車が回る小気味いい音が遠くから響いてくるのを聞いた。
さわさわ、ふわふわ、女性の艶髪が風にそよぐような音も聞いた。
しゃりん、しゃりん、ふたつの刃が交差する音によって、それらの音は断ち割られた。
「そこに……誰か、いるんだな」
三階の窓枠から踏み切り、エミリアに続いて身体が中空へ躍り出る。視線は並び立つビルディングの屋上、降り階段へ続く建屋に備え付けられたドア。その、ドアノブ。
ベルンハルデと対峙した際のように、体感する時流は緩やかなものとなる。
聖遺物容器たるハインの肉体から刃がわずかに露出し、蒼の燐光は光度をより強めていく。
伸ばし切った右腕が一際強い燐光が発され、方陣の形状が確たるものとなった瞬間。蒼の光に包まれたその手から弾丸のごとく射出されたのは『弦』。魔人の脚をも切断するほどの強度を持った魔性の糸。
ハインの落下に先んじ、大気を裂きながら弦の先端は目指すドアノブへ弧を描きながら駆けていく。その性質は柔らかく、そして並の金属とは比較にならぬ硬度を誇る。
光の弦はハインの意のままドアノブへ幾重にも巻き付き、先端はひとりでに硬く結ばれた。片方の先端を握るハインの身体は支えを得、勢いよく対面するビル壁へ引き寄せられる。
咄嗟にコンクリートの建材に両の脚を突き出し、胴体部の激突を防いだ。小柄なハインとはいえ、人ひとり分の衝撃にかかわらず、幸いにも屋上のドアは破損なく健在のようだった。
いつか見たクライミングの要領で、一歩ずつ光の弦を手繰り壁面を登っていく。細く硬いながら、肉に弦が食い込む痛みは感じない。肉体が強化状態にある魔術師でさえ息切れするほどの衝撃と負担を身に受けながら、ハインの身体に疲労はかけらもない。むしろ、ベッドに横たわっていた頃と比較すると良好なくらいだった。
身長ぶんを登りきったところで、弦の操作が自身の思うより自在に行える事に気づき始めた。登った分の弦はたわむ事なく、自身の淡く発光する腕に納まっていく。射出し引き戻すこともできるなら、わざわざ登る事もないか?
予想の通り、手指の延長と称しても過言ではない正確な動作を見せる弦は収納時の速度も操る事もできるらしい、身体をドアノブへと引き上げる巻き取り(機構に関しては未知なため、便宜的に呼称)によって、クライミングはより容易なものとなった。
屋上に立ったハインは寮の窓を振り返る事なく、エミリアの向かった時計塔へと走った。
弦がこれだけ強固で自分に対して従順ならば、スパイ・アクションやフィルムノワールで活躍する俳優のような動きも可能かもしれない。SFXを具現するのが顛生具現ならば、それくらいはできるはずだ。魔術を越えるものならば、神に追随するくらいの奇跡を見せてくれ。
ノブの結び目も軽く思考するだけで容易く解け、レザーの鞭を思わせるしなりを見せてから右腕へと戻っていった。かなり応用は利きそうだ。そう確信したハインは、速度を落とさず屋上の縁から跳び立った。