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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
奈落へ堕ちゆくハイン
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密会

 純白の壁紙に覆われた天井。今や見慣れた学生寮の部屋のものだ。

 

 限界まで高まった緊張から解き放たれたゆえの虚脱感。そして命を賭した死線を潜り抜けた事による疲労から、ハインはようやく目を覚ますことができた。


 各部屋に用意されている同一ブランドのベッドの寝心地はやはり同じ。しかし、どこか甘い優しげな香気を感じるのは果たして気のせいか。


 思考の空白が再び色づき、全身の鈍痛に苛まれながらも身体を起こす。窓から射す明かりはオレンジ色、半開きのガラス戸から芳醇な夕餉の香りが漂ってくることから、夜六時を既に回っているのは確かか。

 

 家具や壁紙、部屋の構成はハインとクルトの使っている部屋と同じもの。ホリゾント寮のどこかであることは間違いない。


 あの凄惨なベルンハルデからの私刑の後、誰かが自分をこの部屋に運んでくれたのか。


 痛む頭で少しずつ過去を思い出す。ディートリヒ・ガーデルマンとベルンハルデ・ヘンシェルに連れ出され、そして旋風のような暴力の嵐に晒された事。その名目は、ハイン自身の持つ『神威』の見極めにあるとディートリヒは言っていた。


 魔術の行使できない丸腰の自分に、どうしてあの魔人ベルンハルデを制する事ができようか?


 一瞬でも気を抜けば、命まで貫かれそうなほどに鋭い拳の乱打。今でも風を切る音や、腕骨の軋む感覚まで思い出せる。両者の光景はさながら脚をもがれてあがく窮鼠と、それを弄ぶ猫のごとく圧倒的な差が存在した。


 あの場のハインには、自分が年近い少女のベルンハルデを組み伏せる場面すら想像できなかった。それは、相対した時点で既に敗北を自らの胸のうちで悟っていたという事にほかならない。ディートリヒに感じた重く昏いプレッシャーほどではないにせよ、経験してきた鉄火場の数が違う。自称不良や並みの軍人にはない、今なお戦火の中で殺意を燃やし続ける闘士の念が肌を突き刺してきた。


 身体が特殊な聖剣の恩恵に預かっていたとしても、ハインの場合は精神が追い付いていなかったという事だろうか。振り返れば、あの場でディートリヒ達が本気で自分を殺すつもりだったとは考えにくい。ベルンハルデによる私刑は、自分の『顛生具現』の一端を顕現させる為のいわば指導だったのだろう。


 数十分の一までベルンハルデが地力をセーブしていたであろう事は想像に難くない。それでも、天と地程の実力の差を見せつけられた事による無力感が双肩にのしかかってくる。聖剣の鞘となった者同士、条件はまったく同じなはず。それであのざまとなると、いかに経験の差というものが大きなウェイトを占めているか思い知らされる。


「何やってんだろうな……ぼくは」


 無意識のうちに愚痴をこぼす。すると、


「起きたか。ったくよう、割と虚弱だったりすんのか」


 独特のねちっこい粗野な物言いは、ハインに強く印象を残すエミリア・ハルトマンのものだった。半開きの寝室のドアからずかずか無遠慮に入り込むと、手にしていた文庫本を無造作に部屋の隅へ放り投げた。


「メンドくさそうな顔すんじゃねェよ」


 じっとりとした微笑を向けられ、反射的にハインは身を強張らせる。


 と同時に、彼女の服装に奇妙な違和感を覚えた。騎士団の礼服ではない、あのベルンハルデと同じく彼女は学園の女子制服を身に纏っていた。


 粗暴な振舞いや言動とは裏腹に、その着こなし整然としたものだった。正しく折り目のついたプリーツスカートに、糊付けされた埃一つない黒ジャケット、そしてぴんと伸ばした背筋は清潔な印象を見る者に与えるだろう。

 

 ともすれば幼年学校の生徒にも見える外見ながら、ベルンハルデとは異なる方向での美人であるといえる。


「おぅいハイン君よォ。別にこの場で取って食おうなんざ思っちゃいねェよ。(ドライ)の野郎にこっぴどくボコられてきた後なんだからよォ、生憎渋柿かじるほど貧乏ったらしい舌でもねェんだ」


 エミリアの言の通り、外傷こそ大したものではないが、身体の芯に猛烈な倦怠感を感じる。じわじわと胸や背骨の奥から眠気が襲ってくるような感覚。はっきりとエミリアの顔を見据えているはずなのに、それも水底から水上を見上げているかのごとき朦朧とした錯覚がしばしば訪れる。


「魔力の使い過ぎだな。今のテメェはひなびた風船、ただの少しも欲望を吐き出せやしねぇだろ」


「ひなびた風船……か」


「だが、いい経験にはなったんじゃあねェのか? そこらで寝ボケながらダラダラ60年70年生きるようなクソどもなんざ、その一生のうち魔力をカラッケツ寸前になるまで消費するなんて事ァまずねえ。見る限り、必要最低限の技能も身にはついたらしいしなぁ」


「そう……なんですか」


 ぐっと拳を握ろうとするも、思うように手指に力が入らない。確かに、ここまで身体が消耗するのは生まれてから初めての経験と言っていいかもしれなかった。


(ドライ)の片足叩き落としてやったんだってなァ? くはッ、はははッ、やるじゃあねェか! あたしも見てみたかったぜ、あのクソナマイキな仏頂面が新入りのナメクジにしてやられるところをよォ」


「片足……」


 鈍く、その時の光景が脳裏に浮かび上がってくる。


 頭蓋を粉微塵にせんとばかりに振り下ろされる革靴を横目に、その時のハインは何を想い何を信じていたか。


 それは生存、そして個我への限りない信頼。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死ぬのは嫌だ。拙く幼稚ではあるが、当時の思考をなみなみ満たしていたのはその一心のみだった。


”死にたくない。代わりにお前が死ねばいい”


 到達した結論は排他、排除、排斥の特性を有する感情。攻性の念がハインのうちで爆発的に膨張し、矛先をベルンハルデに向けた。


 過去でもなく、未来に標榜を掲げるわけでもなく、ただ今ここに横たわり流れゆく現在を愛するが故に辿り着いた思考だった。過去――――グレゴール・フルークへの憎悪を断つための『現在』を前に、ハインは斃れるわけにはいかなかった。


「あのメスガキの事ァ気にしなくていいんだぜ。暇さえありゃお兄様でマンズリこいてやがる猿だからな、パープリンなぶん生命力は人一倍だ。明日の儀式の時分にゃ脚もくっついてんだろ」


「脚が……くっつく?」


「エクスキャリバー様のご利益ってのかね。ごまんといる魔術師の身体強化がクソに見えるほど、あたし達は人間離れしてるってわけよ。テメェもそのうち……や、もうすでにかなり聖剣に好かれてるよなあ」


「……」


「クク……まァそう悲観的になんなや。フルークの野郎への王手を盤石のモノにするための手段だ。抜刀を自在に扱えるとまでは行かずとも、実際あたしはテメェを評価してんぜ?」


「そう、ですか」


(ドライ)によりゃ、ヒモだか縄だかを生成するらしいな。硬度までも任意で操作したうえで攻撃に使ったってんなら……種別としては、顛威変生型か」


「顛威変生……」


「実際の聖遺物を喚起してそれに縋るタイプじゃあない、テメエの頭で思考した内容にほど近いものを生成するタイプの顛生具現よ。欲求を既存のものでなく、術者が創造した具物に変容させる。ヒモ……いや、強化された肉体を斬り飛ばすほどなら、弦と言ってもいいかもしれねェな」


 ハインの想像した具物。


 非常に曖昧で抽象的ではあったが、それはたとえるならば帯の形をとっていたと記憶していた。


 フルークによって青春を汚濁に塗り潰されたあの夜を起点として伸びる、幾重もの糸で織られた帯だ。


 できる事ならば眼を瞑り、二度と想起したくない過去。しかし、今のハインを構成する最も重要な要素を担う因子。顛生具現の使い手として確立しつつある彼の、絶対に切り離せない記憶である。


 それは安寧に堕していた過去の己へ課せられた戒めか、弦の帯でひとつながりとなる事によって、ハインに憎悪という原動力を与えていた。


 ベルンハルデと対峙している最中にも、その概念の帯をハインは観想していた。


 ハインの願望は、帯の先端に至る事。弦を手繰れば、起点たる憎悪の火口をいつでも覗き込むことができる。先端へ向かう為の燃料は、そこからいくらでも事足りる。


 過去の弦。現在の弦。未来の弦。形而上で一つの帯と化したそれを掴んだハインは、弦の束を手繰って自分の身体に巻きつけた。幾重にも幾重にも幾重にも、絶対にこの身体から離れないように。この感情の出所を見失わないように、いつでも手繰り寄せられるように。


 弦が指に食い込み肉を裂こうがかまわない、鬱血した器官が壊死したところでなんとする。


 この弦を、この帯を制してこそ、復讐の成就を果たしてこそ自分の感性は未来の弦へ到達する事ができるのだ。過去から伸びるこの現在の弦、断てるものなら断ってみせろ。


「だが、勘違いするんじゃあねェぞ。たかだか脚一本取ったぐれえでブッ倒れてちゃどうしようもねえんだからな。まだ(ドライ)と同じ土俵に並んですらいねェって事は理解できんだろォが」


「わかっています……」


 ぎり、とベッドシーツを握りしめ悔しさを露わにするハインとは対照的に、エミリアの機嫌はよさそうに見えた。


「だが、一カ月そこらの付け焼刃で『帯刀』……抜刀の寸前まで、一時的にとはいえ到達したのはあたしとしても目からウロコだ。さすがはカール・クレヴィングのお気に入りって事かァ?」


「偶然……ですよ。必死だっただけです」


「必死こいて偶然を必然にできなきゃ、こんな商売やってけねェ」


「……」


「ククッ……いちいち辛気臭ェ顔すんじゃねェよ(フュンフ)よォ! 何もあたしはブフナーやディートリヒみてぇに説教だけ垂れ流しにきたんじゃあねェんだぜ? (ベルンハルデ)の吊り下げたニンジンも食わせてやるってんだよォ」


「ベルンハルデ……さんが?」


「おうよ。あのメスガキが喧嘩売る前……なんか気になる事言われなかったか? 儀式の事を教えるとかどうとかってよう」


「……はい」


「どうだ。知りたかねェか? フルークがどうして人形(アダムカドモン)かっさらってったか。どうしてあたし達が明日にここまで拘ってんのか。まだブフナーからは聞かされちゃいねェだろうし、今の今まで脳みそ煮えくり返ってただろうからなァ」


 無論、興味がないはずはない。フルークを追う以上、どうしても騎士団やその儀式の背景を把握してくる必要がある。それを団員であるエミリア本人が提示してきたという事は、曲がりなりにも彼女は自分を認めてくれているという事だろうか。


「簡単で良けりゃ話してやるが、どうするハイン君よ。お部屋の主(ベルンハルデ)が不貞寝しに戻ってくるまで、まだ時間あるだろうからなァ」


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