電池を入れてください
「ガボッ、おぇぇぇぇぇ」
気管に入りかけた鼻血で咳き込み、アルマは混濁から脱した。昏倒していた時間は長くなく、掛け時計の時刻は十時過ぎを指し示していた。不貞寝を決め込もうとしてから三時間程度しか経っていない、つまり――――
「アッ、ちょっと……ちょ、何コレ……」
『お人形』にアッパーを食らってから、十分も経っていない。
ゴミと雑貨と蔵書がうずたかく、そして散乱する床でこのままいつまでも横たわっているわけにはいかず、起き上がろうとするが両手足が言う事を聞かない。両手首は後ろに、両足首もがっちりと脱衣カゴに放り込んであったはずの黒のタイで縛り上げられていた。
ちょうどアルマの覚醒を察知したのか、ベッドの方から足音が聞こえた。視線が低く、身動きがほとんど取れないアルマに周囲の状況を把握するだけの能力はない。そもそも室内は消灯され、光源は窓からの蒼い月明かりのみだ。
足音の主は徐々にイモムシのごとく蠢くアルマのもとへ近づき、やがてハードカバーの山からひょっこりと姿を現した。
「ひっ……」
ぺたんぺたんと床を鳴らす音の主は、想定通りあの『お人形さん』だった。ブロンドの三つ編みで飾られる美麗な顔立ちは、アルマの無様かつ醜悪な有様を見て侮蔑と後悔に塗り替わる。うわあ、こいつキモイ。
『お人形さん』はゆっくりアルマの傍に近寄ってしゃがみ込んだ。部屋のどこからか引っ張り出してきたのだろう、片手には数年前にアルマが実家の書斎からくすねてきた黒い柄の法儀済ナイフ。凶器を逆手に持ち替え、『お人形さん』はアルマの首筋に刃を突き付け生殺与奪を掌握した。
「ここはどこですか。あなたは誰ですか」
「はひぃ、ふへぇぇ」
べっちーん。
もう片手が遠くから飛来し、アルマの頬を強か強打した。
「ふざけてると本当に刺しますよ」
「こ、こ、こごはっ、ひょ、ほりぞんとの、学生寮でっ」
「学生寮……? あなたはどこかの学生ですか。名前は」
「アル、アルマ、シュヴァイツァー」
「外国人……? 出身は」
「こっ、ここよお……帝国、生まれも育ちも帝国っ!」
べっちーん。
「あばばば」
「適当おっしゃいな。そんな国は知りません、××××か何かですか、あなたは! もういいです、ではその……ほりぞんとというのは、どこですか」
「どこも何も、帝国の地名だってばあ」
かわいいお人形に攻め寄られて嬉しいやら悲しいやら、涙で顔を濡らしながらも愛想笑いでにやけるアルマ。
「ね、ねえ……ちょっ、これほどいて、ほどいてってば」
「黙らっしゃい!」
ぴしゃりと理不尽に一喝し、アルマの発言を払いのける。顎に手を当て、何かを思案するように視線を宙に置くお人形――――いや、もはやこれは単なる被造物ではない。普通の人間の少女と何ら変わりはない。うっすらと皮下の関節部が見え隠れし、球体の可動が見て取れるが、それでも服飾で包まれれば見分けはつかないはずだ。半端に拘束具の黒いベルトが四肢に巻きついている為、やたらと扇情的にアルマは感じた。
「ここから僕を運ぶのに、どれくらかかりましたか。言いなさい」
「重たかったけど、台車があったから一時間はかからなかったと……」
べっちーん。
「あぼ」
「この酢漬けニシンが! じゃあなんですか、ここは××県内か××都内ですって? 表を見れば一目瞭然、この景色のどこが××ですか! どこぞのテーマパークじゃなし、それとも僕一人を拉致して騙す為にこんなセットを作ったと!?」
「あ、あなたこそ何言ってんのかわかんないわよう」
「とにかく、僕は家に帰ります。有り金ぜんぶ貰っていきますが構いませんね、あなたが僕を攫ってきたんでしょうから」
「は!? ちょ、ふざけないでよ、何考えてんの……人形の癖に!」
「誘拐犯の次は人間を人形呼ばわりする性倒錯者ときた。いよいよ救えません、黄色い救急車呼んであげますからそこで丸まっててください」
がさがさとベッドの上を漁り始めたお人形は、やがて仏頂面で手に取った長財布の中身を物色し始めた。
「これ……どこのお金ですか。っていうか、いつのお金なんですか」
「帝国のマルクとペニヒよ! 見りゃわかるでしょ、わかったから、お金あげるからこれほどいてよ!」
「うるさい人だ」
やれやれ、と裸足をいらいらと動かしながら、お人形は自分の髪の毛を上へ上へ引っ張った。
「あ痛! 痛い! ひい、何ですかこれっ。ウィッグじゃない……」
「当たり前でしょう! あなたから生えてるもん引っ張って痛いとかバカじゃないのほんと!」
「生えてるって……この髪が僕のモノとでも? バカバカしい、さてはその歪曲した嗜好に任せて僕の髪を脱色しましたね。つくづく救えない性犯罪者だ」
「鏡を見なさいな鏡をっ!」
顎で床に落ちた手鏡を指すと、お人形はそれを手に取りまじまじと覗きこんだ。
「……」
「な、何よう、黙り込んじゃってさあ」
「誰ですか、これは」
「あなた以外の誰がいるの」
「誰なんですかっ、この……この外国人は!?」
「知るかばかやろう。トチ狂っちまいたいのはあんただけじゃないのよ!!」
「あなた、僕にいったい何をした!! 僕をどこに連れてきたんだ! 言えっ、このゴキブリがッ!!」
「何もしてないわッ!! ちょっと、ちょっとだけおでこにキスしただけだわ!」
脚色した。
「なんとおぞましい……最低の人間です、あなたは! 今すぐ何か服をよこしなさい、こんな変態みたいな恰好で表になんか出られません……ああ、ああ、ああそうだ! 僕の身体を返しなさい、今すぐに! こんなところで遊んでる暇なんてないんです、僕は、僕は妹のところに帰らなきゃあならないんです!」
不毛に怒鳴り合い煽り合う二人の間に、唐突にドアのノックの音が響いた。
「アルマ、アルマちゃん? リーゼだよ。いる? いるなら開けて、下でガス管の事故があったらしいんだ。危ないからいったん表に出よう」
まずいところに鬱陶しい女がきやがった。アルマは諦観まじりに舌打ちした。
「知り合いですか」
「腐れ縁なだけ」
「助けてください!! 誰か助けて!! 犯されるう!! ゴキブリ女に犯される!!」
「てめえ!!」
案の定、合鍵で強引に入室してきたリーゼはこの光景を目にして茫然とすることになった。
「う、う、うごく人形……? いや、女の子……?」
「ちっ……ちいさい人間に……は、羽が……はえてる……」
器用にがさがさと足の踏み場を見つけていくリーゼに対し、お人形こそリーゼの姿に驚愕しているようだった。
「アルマ、これ……どういう事なの、攫って……」
「違う!! こいつが、こいつが勝手に動いて暴行を……」
「僕に何した!! こんな小っさい女の子みたいにして……ふざけるな!」
互いに支離滅裂なまま、4月17日の夜は更けてゆく。