天使変生
茫然自失のまま、アルマは廃墟と化したシャワールームを後にした。
どうやらフランの足も、あの巨躯の男の治療によって傷はわずかな傷を残す程度に治ってしまっているらしい。心地よさそうに憎たらしげな顔で寝息を立てているものなので、とりあえず眼鏡を踏み潰してからその場を後にした。
自室に戻り、とりあえずは汚れ物を脱衣カゴに放り込んだ。いかにアルマとて、失禁した下着を濡らしたまま穿きつづけるほどの神経はない。脱ぎかけの下着を足に絡ませたままふらふらと新しいインナーを探していると、脛の丈まで積んであった参考書にけっつまづいた。
強か額を打ちつけ、いらついたアルマは思わず部屋に散らばる一切を長い脚で薙ぎ払った。
アルマの部屋は、たびたびリーゼが夕食の余りものを届けに来る際におせっかいで片付けはするものの、基本的には非常に乱雑かつ混沌とした様相を呈している。部屋そのものは寮が大規模な増築が施される前からあった独り暮らし用のLDKである。増築後はほとんどが相部屋となってしまった為、他人と生活する事はまず不可能であろうアルマにはうってつけの部屋であろう。ただし、その狭さゆえにモノがあふれかえり、生活スペースは薄汚れたベッドシーツの上のみ。アルマ本人が同年の女子に比べかなり大柄なのも相まって、余計にキャパシティを圧迫してしまっている有様であった。
あふれる物品は主に映画のレアパンフ、魔導書とも呼べぬオカルト本、書いては丸めを繰り返した自作詩集のボツ原稿、怪獣のブリキ人形、数か月前のシナモン菓子、カビまみれで石のように硬くなり、草食動物の糞のようになったパン、一念発起しメイクを勉強しようと思い乳液等々に数百マルクを費やすも二日と半日で飽きて放り出し、あげく半分以上気化して汚らしく固まった化粧用品、エトセトラエトセトラ。
主にたてついたムダに分厚いオカルト本にやつあたりすべくアルマが手に取ったそれは、当時ブリタニアはロンドンで名が知れていた著名な咒式設計士の書籍。
『既存式への主観的アプローチについて』と冠されたそれは、まぎれもなく先ほどアルマが行った『紅の弾丸』のアレンジのアイデアの原点となるものであった。
魔術の才がないとしても、その方面への情熱を完全に絶やしたわけではない。
知らぬうちに、咒式設計士関連の書籍は在学してから本棚ひとつを埋め尽くすまでに増えた。
「あれ実際に使ったのは、あの女だし……」
いざ自分が積極的に魔術に関わったという事実が、どうにもばつがよくない。
今更こうした事が起きたところで、これまで斜に構えてきたアルマのプライドが許さない。
シャワールームが使えない事を思い出し、アルマはその辺りに丸まって転がっていたタオルを水道の水で濡らし、体を拭くだけでもしておこうと思った。ごしごしと無造作に肌をこすりながら、ふと視界に黒布に包まれた長方形が入る。
ああそうだ、儀式だ。
あんな変態どもや糞みたいな身内に構っている暇はない。やってられるか。
半ば現実逃避に近い形で、アルマは先日のカールとの会話を反芻していた。カールがあの連中と懇ろだろうが、もうそんな事はどうでもいい、今日だけで疲れた。脳のキャパシティがいっぱいいっぱいだ。
おもむろにカアテンを開け、窓から下を覗き込んでみる。
アルマの部屋は五階の最上階であり、ちょうど右下に先のシャワールームがある。
既に相当数の野次馬が詰めかけてきており、馬人と小柄なエルフの警察官がその対応に四苦八苦、規制線に詰めかけるマスコミからの罵詈雑言にも晒されていた。
ジジョウチョウチュ?
カンベツショ?
カンケイシャショウカン?
ショウニンカンモン?
チョウキコウリュウ?
ゲンコウハンタイホ?
刑法学に疎いアルマの乏しい単語知識が駆け巡る。
そもそもあれをぶちまけたのは時代錯誤の黒服に身を包んだバカどもなのであって私は関係ない!
現場に残したフランがどうなろうが知った事ではないが、自分に火の粉がかかるのは避けたい。
しかし、今の自分に何ができるわけでもない。せいぜい菓子でもつまんで布団の中で丸まるくらいだ。
せんべい掛布団にくるまりベッドへ逃避する前に、アルマは例のガラスケースの中から『人形』を出してみる事にした。ケースを外すと、『人形』が台座から伸びる支柱に拘束具で繋がれているのに気付いた。金具をはずし、支柱から『人形』を離していざ自分の腕で抱えてみると、やはり結構な重みがある。
(そりゃ儀式に使うような代物だからね……)
南部の国によっては、死者の臓物を人形を模したツボなどに保管しておく風習があるという。
一瞬それを連想したが、『人形』からは腐臭や水音などは一切しない。
ベッドに横たわらせると、いよいよ自分が誘拐犯か何かに思えてくるほど『人形』は精巧だ。
目隠しと轡で塞がれた顔も、情報量の少なさがかえって想像力をかきたて、その美麗さを巧みに引き立てる。ぷっくりした桃色の唇は非常に柔らかく、思わずアルマは我を忘れて指で数十秒ほど弄んだ。
胸元の拘束の金具に乗っかるプラチナブロンドの三つ編みには傷みひとつなく、こちらもさらさらの手ざわりが癖になりそうだった。
起伏の少ない痩身で、胴に比べて手足は針金のように細く、長く見えた。
『儀式はその、死者の往来の当日に行ってほしい。なに、儀式と言っても――――この子の額にキスするなり何をするなり……明確な好意をみせてやればいいだけだ。教会でもらったお菓子でもパクつきながらでもいい、とにかくその当日にしてくれさえすればね』
(額にキス……)
真に受けてビスクドールにそんな事をする女はアホである。
かのピグマリオン王ほどの情念をいだく人間ならともかく、自分のようなアホたれ学徒を客観的にみると、なるほどやはりアルマ本人でも相当哀れに見えてくるではないか。とっちらかった部屋で単位も何もかも放り出し、現実逃避がてら猛烈に可愛らしいお人形さんとベッドでイチャイチャ。
(現実、逃避させてくれるもんならさせてほしいよ……)
自嘲気味にアルマはにたりと口元を歪めた。
今更落ちる事を考えてどうする、今の段階で底辺なんだから、考えたって仕方あるまい。
マイナス方向の決意を固め、あらためてアルマは『人形』に向き直った。
重みと繊細さからつい、本当の子供のように丁寧に抱きかかえてしまい、思わず赤面する。
(一応歯は磨いたし……たぶん、成功するよね)
ためしに好奇心から、『人形』の口枷を外してみる。
うなじで留められた金具を外すと、口内からぬるりとイボを携えたボール状の物体が転げ落ちた。轡の部分にこのボール状の物体が備え付けられていたらしく、ボールは唾液でてらてらと光っていた。
「唾……液……?」
『人形』の口内は舌や歯まで精緻にディティールが施され、そして透明な粘液で濡れていた。
ぬらぬらと誘うように光を孕む口内に、アルマは知らずのうちに惹かれていた。暖かそう、気持ちが良さそう、あの舌、きっとふかふかで……
我を失ったアルマが次に覚醒したのは、完全に自らの舌を『人形』の奥歯に絡ませているところだった。
「ひっ!」
ああ、これでもうアホ確定だ、額にキスで良かったのに完全にやっちまったよ。
そんな自戒も既に頭には浮かばず、唇を離したアルマはただ自分と相手を結ぶ唾液の線だけを眺めていた。
(やっぱりこれ、ほんとにおかしい……変すぎるし、綺麗すぎる……)
アークソードが窓の外で突如その光量を急激に増したのと、『人形』の異変はほぼ同時であった。
アークソードの淡い金色の光と同じ輝く粒子が、『人形』の頭髪からふるふると溢れ出す。やがて輝きは柔肌から、産毛から発されるようになり、薄汚れたアルマの部屋をも照らし出す。
“O diese Seele war selber noch mager, gräßlich und verhungert: und Grausamkeit war die Wollust dieser Seele!”
――――おお、その魂は痩せ細り、比類なき飢餓のなかにあった。そして残酷さ、残虐さこそが至上の淫蕩だったのだ!
“Aber auch ihr noch, meine Brüder, sprecht mir: was kündet euer Leib von eurer Seele? Ist eure Seele nicht Armut und Schmutz und ein erbärmliches Behagen?”
我が同胞たちよ、どうかわたしに語って聞かせてくれ。
諸君らの肉体は、諸君らの持つ霊魂に何を告げ何を求めるのか。その魂は、貧困と抑制による凄惨なる仮初の悦楽に囚われてはいまいか。
“Wahrlich, ein schmutziger Strom ist der Mensch. Man muß schon ein Meer sein, um einen schmutzigen Strom aufnehmen zu können, ohne unrein zu werden.”
実に、人間とは汚濁に満ち満ちた河であろう。己が身を穢さず、汚濁を海容する為には、人はここに、確かに海でなければならない。
“Seht, ich lehre euch den Übermenschen: der ist dies Meer, in ihm kann eure große Verachtung untergehn.”
見るがよい。わたしは諸君らに、超人というものを教えよう。超人こそが海原であり、唯一諸君らの大いなる軽蔑というものを昇華せしむる存在なのだ――――
アルマ――――アルベリヒ・マティウス・シュヴァイツァーの耳に、柔和でありながら荘厳な声が響き渡る。アルマの為に誂えられたかのような、アルマたった一人のみが招かれた会場で、奏者たちはその剛毅かつ大胆、そして勇敢なる主張を高らかに歌い上げる。
光は奔流の帯となり、アルマの部屋を駆け巡る。
何処より紡がれることばはウタとなって流れ出し、アルマの心に優しく問いかける。帝国、そして大陸の言語とは違うかもしれない、もしかすると訛っていて、アルマにはわずかにも通じないかもしれない。
しかし、それは杞憂であった。
解放と昇華を望む抽象的な希望のウタは、アルマを高揚させる。
アルマの為のオペラは、彼女が意識の望むうちは終わりそうもない。
「誰だっ、あなた!! 警察呼びますよ!?」
高揚から一転、光がやんだ後にアルマを襲ったのは強烈なアッパーカットだった。
「臭っ、臭い! 汚い!! 魚臭い!! どこだっ、何だここはっ……!」
『人形』が、あのアンティークドールが、自分で立って、動いて、喋っている。
ただそれだけ、それだけの事実を目で認めると、今度こそ本当にアルマの本日の脳のキャパシティは限界をむかえた。
納魂祭・アルマ編 完