祭りは続く
轟音と共にシャワールームの壁面が吹き飛んだ。
外壁に榴弾でも直撃したかのような衝撃は室内をも揺らし、鉈を振り切ったアルマはよろめき転倒した。
壁の材質が細かな埃となって周囲に舞い上がり、視界を悪化させる。
ついにあの女の背後を捉えたというのに、何が起こったのか。あと数コンマ秒、アクシデントの発生が遅ければあの女の首を刎ねる事ができたはず。この場で勝利を掴めたはず、生への路が拓けたはずなのに。
何度か両の眼を瞬かせると、ようやく状況を目にする事ができた。
粉砕され、大穴の空いた壁面の反対側、『騙しのタグ』を付与させた『紅の弾丸』を目くらましに配置させていた個室群が備えられている壁の側では、エミリアがシャワー器具や水道管、石材やコンクリートの一切合財を巻き込んで砕きながら、頭部から壁に巻き込まれている。それを力ずくで可能としたのが、今もエミリアの側頭部を鷲掴みにして離さない、巨木のような剛腕の持ち主――――エドゥアルド・ブロッホであった。無論、壁を飴細工かのように破ったのは彼であろう。
「未だ絶対哲学領域すら展開できん新米相手に抜く気だったのか? ハルトマン」
ブロッホが問うと、半身を壁に減り込ませているエミリアは自由な片腕で己を拘束している巨腕の手首を握り返し、丸太のようなその腕を握りつぶさんほどの握力で抗議し、やがて強引にその戒めから自らを解き放った。
「敬意を表して、だよ。そんなでけえ鉈ぶっつけられちゃ、あたしのこのほっそい首なんざスパーンだぜ」
壁材ごと頭部を撃ち貫かれてなおそんな軽口を叩くエミリアの頭部には、毛筋ほどの傷すらついていなかった。
仮に鉈を打ちこめたとしても、その首を落とせたかどうか。発言通り、きめ細やかな柔肌に包まれた細首でありながらも、自分がそれを一刀のもと斬り落とせたか。今のアルマには、エミリアの死を想像できる余裕がなかった。あの肌が斬り裂かれ、エミリアの笑みが床に転がる様を浮かべる事などできなかった。
「おい、ⅩⅢ」
それが自分を指す単語だとようやく把握し、アルマは尻もちをついたままびくりと反応した。
「そうかい……テメエのさっきのあれは、そういう趣向だったってわけか? ともあれだ、テメエに死ぬ気がねえってなわかった。死ぬくらいならあたし殺してでも生き延びてえってか。見上げた根性だな」
言葉とは裏腹に、からからと爽やかに笑ってみせるエミリア。
「なにシンキくせえ顔してんだあ? さっきも言ったようによう、今日ほどめでてえ日はねえんだぜ」
「絡むなハルトマン」
一言ブロッホが制し、エミリアは口をへの字にして拗ねる。続いて彼は壁際にもたれるフランの元へ歩み寄って行った。
「ちょ、ちょっと……!」
「案ずるな」
別に身を案じたわけじゃない、そんな奴どうなったって構いやしない。そう取り繕おうとするより先に、ブロッホはひしゃげたフランの片足に手を触れた。
一瞬フランの身体は跳ね上がるが、ブロッホの手の甲、手袋の甲の部分に描かれた五芒星の陣が薄い青の燐光を放ち始めると、たちまち彼女の表情が穏やかなものになっていく。やがてそれは頬への高揚へと転じ、熱のこもった途切れ途切れの吐息へ変容する。
意図しない快感に歯を食い縛り、しかし下腹のここちよい暖かさは彼女の張り詰めた緊張をとろとろに煮溶かす。やがて、フランは火照る身体にに耐え切れず、犬のように舌を突き出して息を荒らげはじめた。
足の傷は裂けた面が縫合されていくかのように塞がっていき、ブロッホの手のまとう燐光が濃くなるにつれて元の白くなめらかな線を描く足へと戻る。
「ま、ほう……!?」
魔術で他者を癒す、という技術は未だ確立されていない。術式現象による医療行為というのは、魔術が体系づけられてより幾度となく試行されてきたが、未だに実用化には至っていない。行使者の欲求に基づく魔力がクライエントの肉体と拒絶反応を起こし、合併症を併発する可能性がきわめて高いためだ。万人に適用可能な共通認識というものが限られているがゆえの拒絶であり、現在では精神療法分野にて補助用途でのみ一部使用が認可されているだけに過ぎない。
外科的療法として、ここまで有益な魔術が存在する事がアルマには到底信じられなかった。
治療が終わると、名残惜しそうにしばらく足をさすっていたフランはやがて眼を閉じ、微睡へ沈んでいった。
「物好きなロリコン野郎だな」
「同胞に無用なプレッシャーを与える趣味はない」
「じゃああたしが風穴開けて来ちまった入口のジジイも何とかしてやれよ」
黒服の埃を手ではたきながら、エミリアはほんの稚気からのイタズラだとでも言うかのように、いとも簡単に殺人を暴露した。入口のジジイとは、恐らく管理人だ。あちらからの面識こそ危ういが、少なくとも顔立ちだけははっきり浮かぶ。
「死による時流の停滞だけは、私にはどうにもできん」
「そうかよ」
曲がった制帽を被り直し、エミリアは大穴の空いた壁をひょいと乗り越えた。ブロッホもそれに続き、そして未だ唖然としたままのアルマへ顔を向けた。
「会えて良かった。君もやはり、序列に相応しい人間だったな。不完全なりに、この狂犬に刃を向けるとは」
「Auf Wiedersehen,Kamerad.次は思いっきり打ちあおうや、次はそんなきったねえ鉈なんかじゃなくて、テメエの自身の刃でな」
実に物騒な、一方的な宣告。
「Sieg Heil」
ぎしりと歪ませた笑顔が背中越しからもわかるよう――――魔人エミリアは、ブロッホの巨躯とともに夕闇の帳へと溶け込んでいった。