アルマの非日常
「何だそりゃ何だそりゃ、何なんだそりゃあよォォォォⅩⅢよォォォォ」
大仰なジェスチャーをまじえ、エミリア・ハルトマンは視界の外のアルマに対し溢れんばかりの失望の念をぶつけた。僅かに血の付着した手袋に包まれた小さな拳をかたく握り、憤怒に震わせエミリアは唸った。
「そうじゃねェだろォが、何考えてんだテメェは……何も考えてねェのか? その頭は飾りか何かか? 中身はアメちゃんか何かか? ナメやがってこのガキィ、本当にカールの野郎の墨付きなのかよオイ」
裏拳で叩き飛ばされ脇の芝生で横たわるアルマに向かって、石畳の小路をはずれエミリアは大股で歩み寄る。怒気を含んだ声は半ば震え、歯ぎしりの混じる唸りはもはや理性ある人でなく、飢えた孤狼のそれであった。
エミリアはアルマを見下ろすとその倍近くはある身体を抱え起こし、上腹に膝蹴りを加えた。臓器がひしゃげ、定位置より強引にずらされる不快感に苛まれ、アルマは胃液を吐き散らした。側頭に与えられた痛打からの回復もままならず、無残にそのままえずき続ける。
「そうかよ……まだ明確な『かたち』にもなってねェのか。新参とはいえ、あんまりにも肌に刺してくる気質が薄っぺらすぎると思ったら、情けねェな。道理であんなふざけた事ほざくわけだぜ、興冷めだよなあ? え?」
(かたち……何の事……?)
「その様子じゃカールの野郎は相変わらず何の説明もナシか。やってらんねェぜ、まったく」
比較的ポピュラーな名とはいえ、カールとは『あの』カールに相違あるまい。
やはりあの人間は、この異形をその身に抱く彼らと同じ側の存在だったわけか。
「にも関わらずあたしには今のところ何の枷もナシってとこを見ると……要はそういう事でいいんだよなあ? おいエド! 当面はあたしが構っていいんだよなあ!?」
エミリアは振り返り、同輩であろう黒服の男――――寡黙なエドゥアルド・ブロッホに問いた。
やがて彼が言葉なく縦に首を振ると、エミリアはにたりと口端を歪ませて嗤った。
「だそうだ」
虫のように丸くうずくまるアルマの腹を靴の爪先で刺すように蹴りを入れる。ひり出された短い悲鳴に何の感嘆も示さず、エミリアは小さな手で彼女の襟首を掴みあげ、その顔をみずからの眼前まで引き寄せた。少女の片腕で軽々持ち上げられる彼女はまさしく暴行により満身創痍、焦点の合わぬ目を見てエミリアは言った。
「おいクソガキ。このめでてえ日にだ、あんま失望させてくれんなや。テメエ、まーだあたしがこのまま命乞いを聞いてやるとでも? さすがにそうは思っちゃいねェよなあ、テメエの置かれた状況いい加減把握してるよなあ?」
朦朧とする意識のなか、何とかアルマは首を縦に動かした。
「ンじゃあ話は早え。時間をやるから、こっから逃げてみろ」
「は……?」
「聞こえなかったのか? テメエで『何とかしてみろ』っつったんだよ」
不意にエミリアの握る手が離され、支えを失ったアルマの身体は力なくくずおれた。
ようやく最低限の呼吸を整え、吐瀉物で汚れた口元を袖で拭うと、痙攣する体幹をおさえつつ何とか片膝を立てた。
「こっから逃げてみろって言ったんだぜ。それとも何か? さっき言った事がマジなんだったら、ここにそのままいてみろ。背骨へし折ってテメエのケツの穴にキスさせてやっからよお」
エミリアの眼に宿るそれは、同じ人間を見つめるような眼光ではない。
理性に劣る下等な動物を文字通り見下す瞳は、軽蔑からくる微笑を僅かに携えていた。
アルマは言われるがまま時間をかけて立ち上がると、よたよたと息を荒げつつエミリアの横をおそるおそる通り過ぎる。笑みを浮かべ、流し目でこちらの顔を追うのみ、その時には何か危害を加えてくる様子はない。それは彼女の連れも同じようであり直立不動、アルマは『逃げてみろ』という指示が真実である事を把握した。
しかし、この異常者たちが本当にただで逃がすとも思えない――――
「五分……や、三分ありゃ充分だろ。それまでにあたしをブッ殺せるように奮闘してみせろや。『逃げる』ってのは、テメエの命賭けてテメエの命を繋ぐ事だぜ。親切に機会をくれてやったんだ、情けねえ死に様見せねえでくれよなあ?」
思った通り、連中はこちらの事を狐か何か程度にしか捉えていない。
口ぶりこそフェアなやりとりを提言しているかのようだったが、此方とは天と地ほどに戦力の差が存在する。砂塵に巻かれた麦の粒を拾い取るよりも困難な生還への手段、それが掲げられたとて絶望を拓くほどの希望には到底なりえない。
しかし、たとえそれが蜘蛛の糸であろうともやるしかない。
生きる為にはやるしかない、死にたくないなら立ち上がり、歩むほかない。
アルマは十数年ぶりに、祈りというものを自覚した。
自分が何かに対して縋っている、祈っているのだと実感した。
だが、それは有象無象が崇める神でもなければ優男然とした天使や聖人でもない。
ただ、確かにアルマは祈っていた。自分が今いる現在が途絶される事を拒み、祈っていた。
息を切らし、アルマが向かったのは利き足を潰され、歯を食いしばるフランの横たわるところ。体格に恵まれ、長年の怠惰な生活で鈍ってはいたが、同年の女子よりかは屈強な身体が幸いしたのか、痩せ型の彼女を抱きかかえるのにさほど苦労はしなかった。
充血した眼を薄く開け、フランはうめいた。
「何よ……貴女、どういう……」
「死にたくなきゃ、生きたきゃ言う事聞け……! 私は少なくとも、ここじゃ死にたくない!」
そう宣言し、おぼつかない足取りでアルマは駆け出した。次に向かう先は敷地外でなく、寮建屋の裏手側。エミリアを完全に背後に置く事に針で突くようなびりびりとした緊張を覚えつつ、ひたすらにアルマは駆けた。
裏の勝手口から寮内部に進入すると、勢いを殺さずにアルマは浴室や食堂を始めとした公共の生活施設群の並ぶ1階通路へフランを抱えたまま躍り出た。寮生の大半は夕方過ぎからの納魂祭の本番目当てに出払っており、石造りの内装が普段より増して、そして汗だくの現状からひんやりと冷たく感じた。
「さっきのは『紅の弾丸』で間違いはない? 1921年考案のアーランド・ピンケルレ卿作の後期型咒式! そうよね、それでいいのよね!?」
出血と痛みから息を荒らげ、汗の玉を浮かばせつつフランは頷いた。
「短縮詠唱運用を前提とした拡張性と信頼性……M1921ならそれも不可能じゃないか。共用運用、『蛇狩り』に採用されてるくらいだから多少の無理は利くはず……!!」
「何を……する気……!?」
「あんた、もう四、五発はあれを撃ってもらうわ……死ぬほど辛いだろうけどまだ死なないでよ、私の安全が確保できるまでは生きてなさいよ……!!」
辿り着いた先は、簡易な仕切りが施されたシャワールーム。タイル敷の床を革靴のまま歩み、抱えていたフランを聊か乱暴に奥の壁に放り出した。ぐったりと項垂れるフランの前に身をかがめ、鬼気迫る表情でアルマは早口で言った。
「数秘暗号なんか使っちゃいないわよね、履修してないわね」
「知らない……使ってない」
「それじゃあ、今から言う単語をさっきの詠唱の接頭と接尾に加えてもう四発分展開。私の言う通りに動かせ」
「……」
「だんまりはよせ! まだ死ぬなよ!!」
アルマは怒鳴りながら立ち上がり、切迫した様子で掃除用具が納められているであろう倉庫を漁り始める。物色をしながらも、横目でアルマはフランに声をかけ続けた。
「何か、いま何かしなきゃあ死ぬ! 次なんてない、今しかないんだよ!!」
半ば嗚咽の混じった絶叫が部屋に響き、フランの身体がびくりと震えた。
「死ぬなら後で死ね!! 今死ぬんじゃない、少なくとも……あたしは死ぬのだけはいやだ!」