ドライツェーン
『弾丸』は放たれた。
本来ならば灼けるような激痛に悶え、見苦しくも石畳の上で転げまわるアルベリヒ・シュヴァイツァーの姿があるはず。
確かに射出の指示は出した。短縮詠唱を用いた術の行使も苦手なわけではない、こちらに不手際はないはずだ。自身の『攻勢』の意志は弾丸となり、またその意思に従って対象を抉り貫く。それこそが『紅の弾丸』の本懐であり意義。
だが、眼前のアルベリヒ・シュヴァイツァーは、先の鳩尾への一撃による嘔吐感こそあれど、腿を貫かれたなどという痛みは感じていないらしい――――先と変わらぬ憎悪を込めたまなざしでフランを睨み続けている。
「何かしたな……詠唱単語の頭文字を用いた短縮詠唱……なんか使ったんだな」
『紅の弾丸』は、アルマに到達する前に掻き消えた。
『弾丸による損傷』という現象は本懐を遂げる事なく、何らかの原因で無効化されたのだ。
「B.W.T.H.L.T.《弾丸、左の腿を貫け》」
フランが再び中空していた光球に指示を与えると、射出された弾丸はやはりアルマへ届く前に霧消してしまう。
(何らかの小細工……術式阻害か? いや、あり得ない……術に見放されたこの女が、まさか)
思案を巡らせるフラン。あくまでポーカーフェイスを保っていたつもりだったが、そのわずかな平静のほころびをアルマは見ていたのか、彼女は言った。
「だから……見放されてるんだよ。魔術……使えなけりゃ見えもしない。触れもしないし触れられもしない。あんたの仰る通り、私はろくでもない欠陥品なんだよ、シュヴァイツァーの……」
「よぉ、探したぜXⅢ。そこかしこでくっだらねえ術式貼ッ付けてやがるトンチキが多くてよお。祭だからってこりゃウザすぎだぜ、勘弁してほしいよなあマジでよ」
アルマが言い終わるのが先か、甲高い舌足らずな一声が薄暮に響き渡った。
声の方向にアルマとフランの二人が顔を向けると、そこには先の一声に相応しい、齢十二、三の少女が微笑みを携えながら街道の石畳の上に佇んでいた。その横にはもう一人、彼女とは対照的に背の丈は2メートルをゆうに越す巨躯を持つ男がいた。察するに少女からはエルフ、男からは原エルフの血を引いているであろう形質が見て取れた。前者は長い耳に華奢な体躯、後者は岩盤を削った彫刻を連想させる無骨な顔立ち。両名に共通するのは、それぞれの身を包む漆黒で統一されたジャケットにネクタイ、そして鉄十字の帽章が輝く制帽。
男はともかく、声をあげた少女は明らかに異質と見てとれた。
黒衣はは学校の制服やフォーマルスーツといったものではない。アルマとフランの両名が痛烈に感じたのは、彼らの有する強大な『密度』と『圧力』。人一人単一のものでない、言うなればこちらに意志を向けた『軍勢』をまるごと眼前にしているような錯覚を、男からだけでなく痩身の少女からも受けていた。
「ど……ちら様でしょうか」
潜在的、本能的な恐怖心が告げている。
この二人と関わり合いになるのはまずい。
フランの手札は『紅の弾丸』だけでなく、確かに対人術以外にもレパートリーは存在する。野に住む巨獣ならば巨獣に、対する戦力ならば戦力に相応しい制圧術も修めている。
だが、たった今術の有用性をあんなにもちっぽけな女に揺らがされた上に、この圧力に晒され、フランの意識はかすかに震えを感じていた。わずかなプライドがその足を支えている。家畜扱いしていた女の前で折れては、フランツィスカ・オルブリヒトの沽券に係わる。それだけは何とかして避けなくては。
「あ、テメエは……テメエはあのハナクソ飛ばしてたザコだろ。テメエはいらねえよ、消えな」
「なっ……」
悠々と二人へ歩み寄る少女。その微笑にはおよそ、自分と同じ理性持つ一人の人間らしさというものを感じ取れない。確かに彼女を統括する意識は一つだろうが、それはもはやフランとは異なる次元にいる異生物なのではないか。
「XⅢ! 情けねえな、こんなチンカスにボコられてんじゃあねーぞ。スデゴロじゃテメエの方がガタイいいんだからヤっちまえただろォ?」
あろう事か少女は、ある種の親近感のようなものを含みながらアルマに向けて言った。
「XⅢ……?」
「おうよ、テメエの序列だ。縁起ワリイよなあ、裏切り者の13なんてよお」
「十二番目の使徒の事なら俗説だ、ハルトマン。根拠はない」
「うるせえな」
「今は取り込んでいます、用件があるなら後ででも」
フランのプライドがその足を動かし、少女の傍らへ立ち並んだ瞬間――――
「黙ってろ、魔術師風情が」
少女が向けたたっぷりの侮蔑を込めた双眼がフランを射抜いた。
あどけなさを残すその顔つきも、フランへの敵意で充満している事がわかった。並の猿人に比べて長命であり、生涯モデルの異なるエルフである事を差し引いても、これほどまでの重量を持った悪意ある慢侮の念は異常に思えた。
「テメエに用はねンだよ糞袋。どっかその辺でホジったハナクソ丸めてケツに塗り固めてろ」
その呪詛はフランの耳にまとわりつき、感覚を蹂躙する。
体内に反響していくにつれ、喃語のような煩わしさが全身を逆撫でしていくような不快感。
「I.W.S.B……」
震えた小声で短縮詠唱を並べていく。この距離でなら間違いなく眉間を貫ける、貫かなければまずい、絶対に貫け、先のような失敗は許されない、貫け、貫け、貫いてくれ。
焦りと天への懇願がないまぜになったフランの思考だったが、哀れにもそれは詠唱全文を口にする前に中断させられる。
「るせえぞガキ、蚊の鳴くような声でボソボソボソボソ、よお!」
ガツン、と少女は革靴でフランの右足を勢いよく踏み潰した。
ローファーの縫製はちぎれ飛び、革で包まれていたフラン本人の足はぐしゃりと磨り潰された。
表皮がめくれ骨は臼で轢かれたかのごとく粉砕される。どすん、という一度の衝撃に次いで、フランは身体を通して骨が砕ける水っぽい音をはっきり聞いた。
「あぇっ、いぎゃああああ」
激痛にたまらず目を剥き倒れ伏すフラン。ふくらはぎの筋肉が意に反し急激に収縮し、右脚をぴんと張る様を見て、アルマは声ひとつ漏らせなかった。
あの少女のチカラで、足をこの身体で踏まれただけで、足首の骨までも露出させるほどの損傷を追わせる事ができるのか。そもそも、彼女は何者か。そんな数々の疑問も、少女がこちらへ再度歩み寄ってくる事で掻き消えた。
「ひいっ」
「情けねェ声出すんじゃねェよ」
じりじりとにじり寄り、ついに少女はアルマの目と鼻の先でしゃがみこんだ。
「Ⅶのエミリア・ハルトマンだ。向こうはⅧのエドゥアルド・ブロッホ。邪魔が入らねえように『霊枝』で哨戒してる最中だ、横槍は入らねえぜ」
一字一句、エミリアと名乗った少女の言葉はアルマの耳には入らない。
フランこそ何とかやり過ごせれば今日という面倒な一日は終わりだったのに。
どうして私がこんな目に遭わなければならないのか、私はこんな事を望んじゃあいない。
どうしてこんなバケモノにいきなり襲われねばならないのか。
「か、か、堪忍……してください……お願、お願いします……」
がちがち振える歯を噛み堪えながら、なんとかそれを言い切った。その安堵で意図せずアルマは失禁し、インナーを濡らしてしまった。
「死っ、死にたくない……お願いです助けてください……!」
滑稽ともいえる哀願を、エミリアは黙って聞いていた。いつの間にか、湛えていた微笑はどこかへ消えていた。
「お金、お金あります、用意しますから……あっ、あいつ、そこのあいつなら何したっていいから……!! 許して、許してください……」
なりふり構っていられるか。
次第に涙と鼻水が溢れ出し、どっと顔中が決壊する。
こんなところで死にたくない、死にたくない、生きたい、生きたい、生きたい。
絶望的なまでの勢力の差を前に、初めてアルマは生を願った。
しかし
「なめてんのか、テメエ」
鉄塊のように硬く握られたエミリアの拳の甲が、アルマの側頭を横薙ぎに叩き飛ばした。