亡びか転生か
“昔者、荘周夢為胡蝶”
今は昔。わたしこと荘周は、夢の中で蝶となって羽ばたいていた。
“栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也”
これまでで喩えようもないほどの快感であり、また愉快であった。
あまりの心地のよさに、いつしかわたしは荘周である事を記憶から薄れさせていった。
“俄然覚、則遽遽然周也”
俄かに目を覚ますと、やはりこのわたしの心とからだは依然として荘周のものであった。
“不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与”
さて。わたし荘周が夢の中で胡蝶となったのか、それともわが真の実体は胡蝶にあり、
その夢の中で自分が荘周であると感じているのか。
“周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化”
いずれにせよ、これを真と定義づけることはできまいが、
わたしと胡蝶との間に何らかの分別が存在するはずなのは確かなのであろう
荘子『胡蝶の夢』
「例えばだ。この自分では指先一つ動かす事のできない人形に魂が宿るとする」
ゆるゆるとカールが指先でガラスケースの面を撫ぜながら言った。
「それはどこからやってくる? 源となる精神はどこから工面されると思うね」
「そんなの……分かるはずないじゃない」
「そう、分からない。少なくとも、われわれの目に見える範囲の中ではそうした機構は見当たらない。魔術とやらを手にしても、やはり人間は形而上の存在の構造を捉えるまでに至っていない」
魂はどこからやってくる?
児童の口から思いがけずぽろりと出でて、年長者たちを困惑させる問題のひとつだ。
アルマもまた、そんな質問には全能の神の名を出して茶を濁す解答をするに留めるだろう。
「さて……東洋には転生という思想が存在する。東洋だけでなく、大陸文明の基盤となった古代思想にもある死生観だ。すべて命は死をもって輪廻の環の中へと還り、そしていつの日か再び新たなる生を得る。『土は土に、灰は灰に、塵は塵に』、升天教と異なり、人の魂は実質的には不滅であるという事を説いている」
「提唱者はよっぽど自分が好きだったのね」
永劫不滅の魂などごめんだ。こんなくだらん世界でうだうだ廻り続けるなど、地獄の責め苦のほうがまだ生ぬるい。アルマはふっと苦笑した。
「すると君は、転生には何の興味も持たないかな?」
「産まれる場所だの才能だのをこっちで選べるんだったら大歓迎よ。そのせいでこちとらしなくてもいい苦労してるんだから」
吐き捨てるようにアルマは言った。
「美貌も名誉も意のまま、そしてあらゆる人々の才を凌駕する才を有した人間になれるとしたら?」
「は……?」
「一挙動ありとあらゆるすべてが世界の法則から保障され、戯曲の台本のように安穏と進んでいく、悠々自適、晴耕雨読――――酔生夢死のままに肉体は滅び、そして思考がとろけるような快感を抱いたまま次の肉体へと魂がうつる。誰に左右されるでもない、ただ産まれて死んでいくだけでいい人生だ。失敗など次がある、なんとかなる。肉体が移ればこう思うわけだ。『今度こそ失敗しない』『やり直してみせる』。何を? どうやって? やり直すとは一体、これははてさてどういう事か? 数多の権力者がそれを望み、莫大な量の財をつぎ込んで不老不死を錬金術師に研究させたように――――転生思想を信ずる人々も、ありったけの財で『徳』を得ようとした。そんなものが物的価値で賄えるわけがないというのに」
「他人のちょっとした願望にも、そういう不愉快なイチャモンをつけるわけ? 腐ってるわね」
「人聞きが悪い。甘い甘い快楽に流される生き方がわたしからどう見えるか、すこし口頭で解説しただけだ。しかしねアルマ。望みのままの転生というのは――――わたしから言わせればだ。そんなものは転生ではない。生物の営みを放棄していながら図々しく脈打ち続ける似非非生物と成り果てる事だ。ただ産まれて、死んでいく。そこらを顕微鏡で覗くとごまんといる単細胞生物と同じか、それ以下か。かれらも生存競争という法則の中で平等に『生きて』いる。肉体の滅亡に向けて子孫をつくり、そして亡びをむかえた後に転生という『現象』の中へと回帰していく。さっきの『魂』の出自についてだが、わたしは『自覚なき転生』こそが最適解と考えているんだよ」
「ある事ない事相変わらずタラタラしゃべること。わたしの境遇を踏まえて発言してるのだとしたら、あなたもその微生物と品性は同レベルだわね。ヘドが出そう」
「ではアルマ。君の望みは何かな?」
唐突な話題の転換に、アルマは顔をしかめた。
「アルマ、何が欲しい? 君の生の中で何が一番の快感だった? 何をもってカタルシスと言える?」
「急に何を言い出すの……?」
もちろん、こんな奴にプライベートを教えてやる義理もない。
「わかったよ。それじゃあYESかNOだけでいい。君は一度でも、心から喜ばしい出来事を体験した事があるか? もう一度体験したいか? その為なら何を賭けてもいいか?」
急な問いに、アルマの思考はかき回される。
過去から現在にかけて、持ちうる限りの記憶を反芻していく――――
「そしてそれは、緩慢なる死で代用の利くものではないか?」
「は……?」
「アルマ。わたしはね、君に意志を問うているんだ。さっきわたしの言った事は覚えているね。いいかなアルマ。『第一種』や『シュヴァイツァー家』の事は忘れろ。そも見栄や常識は君に価値を与えたか? 否、ならばそれは、今は向き合う必要のないものだ。否定でなく留保せよ。真に求むべきものを求めよ」
どういう事だか、当のアルマは半分も呑み込めていない。
常識を留保せよ、真に求むべきものを求めよ。『それらしいおべっか』と、大して字面は変わりはしない。所詮はカール(こいつ)も甘言で他者を惑わす、どうしようもない快楽主義者。そうレッテルを貼った、はずなのだが。
「望むのは輪廻への亡びか、永劫の転生か。選びたまえ、手段をわたしは既に提示している。君の手札だ、近いうち君は選択を迫られる。この場で誓いを立てる事で、ささやかだがわずかばかりの力を授けてやれる。後者を選ぶのならば……二度とわたしは君の前には現れないと誓おう。いわば、わたしの『好意』と受け取ってもらっても差し支えはない。生を選ぶのなら――――」
早口で言い終ると、カールは手の甲でガラスケースを軽く叩いた。
「アダム・カドモンとともに、君へ真の魔術師への切符を進呈しよう」
「真の……魔術師?」
「見ての通り、彼はまだカラッポだ。器に過ぎない、このままでは単なる木偶人形。だが、近いうちに彼に相応しい御魂が降りてくる。君には、その『魔術的現象を用いた儀式』を執り行ってもらう」
「あっ、あんたね……」
自分が魔術をこれっぽちも使えない事を何度も聞いているはずがこの言いぐさ。しかし、カールは意にも介さず話を続ける。
「日程は4月17日。納魂祭の予定日だ」
くん、とカールは窓の外を顎で指した。
校舎本棟の更に向こう――――その先にあるのは、ホリゾント市街の中央の大地から伸び、天空へと突き抜ける石柱。ホリゾントのランドマークとも言うべき大規模な地盤隆起の産物、アークソードだ。その巨大すぎるがゆえ、天頂を地上から視認する事ができない超自然現象の賜物だ。
「納魂祭、その名目は何だったかな?」
「ベツレヘムでの救世主の誕生と……それに集う死者の魂が、その……群れて群れて寄り集まって、あのアークソードを伝って天と地の往来を繰り返す……当日付近の日程にアークソードが淡く発光するのは、そのせい……だとか」
曖昧模糊な解答にも、カールはめげずに続ける。
「儀式はその、死者の往来の当日に行ってほしい。なに、儀式と言っても――――この子の額にキスするなり何をするなり……明確な好意をみせてやればいいだけだ。教会でもらったお菓子でもパクつきながらでもいい、とにかくその当日にしてくれさえすれば」
友達のいないアルマにとっては造作もない事である。
しかし、このままカールの意に従うのも癪だ。いっその事、断ってやろうとも思ったが、
(私を貶す為のドッキリに半年もかける奴も、早々いるものではないか。そうだとしても――――ここまで大ぼら吹いて、当日どんなボロを出すか楽しみでもあるしね……)
ふとアルマは窓へ歩み寄り、アークソードを仰ぎ見た。
どんなに天を仰いでも、その天頂は霞んで見えなかった。