硝子の牢
「どうしたね、高い金を払って観に来たオペラで先発の歌手がとんでもない音痴だった時のような顔をして」
カールの奇妙な気質に圧され、先ほどまでの苛立ちも薄れてしまっていた。
「音痴どころかホールでストリップを始めたようだわ」
「機嫌はそれなりに直してくれたようだね」
すると、やはりカールはいつものようににやまりと微笑み、席をすっくと立った。
「誰より魔術という幻想を信ずる君にだけ、見せたいものがある」
カールはアルマの背を通り過ぎ、そそくさと資料準備室のトビラへと消えた。やがて、数分もしないうちに今度は台車に黒布のかけられた直方体の物体を載せて戻ってきた。
「何よ、これ……」
「包みをとってみるといい。この場所に元よりあったもの、驚きこそすれ失望はするまいよ」
という事は、ここで保管されていた展示品か。
上機嫌なカールの上ずった、しかし含みある声。中に展示品の木乃伊や、グロテスクなカタコンベの遺物でも詰まっているのではとアルマは邪推した。いくら予想や覚悟はしていたとて、ビックリ箱というものはどれだけ歳を重ねても好きにはなれない。
おそるおそる台車へ近づいてみる。長辺を縦に立てており、その高さは約130㎝ほど。おそらく布の下はガラス、展示ケースごと台車に載せられているのだろう。
(というか……そもそもこいつは保管されている物品をほいほい持ち出せるような立場にいるのか?)
確かに取り立てて目玉のない、閑古鳥の鳴くような併設資料館ではあるのだが、これがもし魔術的に価値のある品だとするならば気が引ける。ものによっては、それ自体とごく簡易な縁を結んでしまったがために効力を暴発、もしくは滅失させてしまう可能性もありうる。ましてや、わざわざこんな黒布で覆われているようなものだ。
生唾をのみ、アルマは意を決して黒布を取り払った。
布の下は想定通りガラスの展示ケースであり、カールの見せたかったものというのは間違いなく『展示品』だ。だが、
「こども……?」
ケース内部の台座に鎮座していたのは、四肢をベルトや皮の拘束衣で縛られた幼子。両の腕は後ろ手に組まされ、膝を立てた状態でだらりとうなだれている。表情は同じく拘束具と同じ素材の口枷と目隠しでうかがい知る事はできない。両側で束ねられたブロンドヘアは首元でひとつに束ねた三つ編みになっている。ところどころ骨ばり、同年代の子に比べて痩せているように思えたが、しかし色白の肌からははっきりと生物としてのあたたかみが感じられる。
果たして、これは精緻な技術が施されたビスクドールか、それとも――――
「ちょっ、あの……これ……!」
たまらず狼狽して数歩後ずさるアルマを見ても、カールは幼子の納められたガラスケースに肘をついてにまにま嗤っていた。
「よく……できてるって言えばいいわけ?」
「ああ、実に緻密で、実に美麗なものだろう。まるでその身に確たる意志のチカラが宿っているかのようだ。この首元や、拘束衣の胸元から覗く静脈をみたまえ。今にも脈をうちそうな、そんな気すらしてこないか?」
アルマは胸を撫で下ろした。
いくらこのトンチキ野郎でも、児童略取や人身売買に関与しているほど堕落してはいないのだと。
作り物だとわかればどうという事はない。アルマは再度ケースへ近寄り、まじまじと中を覗いてみた。
「本当に、よくできてるわ……安物のゴムやセルロイドじゃあ、こんな肌の質感は出ない。どんな加工を施したって……こんな、人間の子供と同じようなサイズのものを作りあげるなんて。ほとんど区別がつかなかったわ」
「君がひいきにしている皇国の特撮技師なら、あるいは再現できるかな」
「これって……どれくらいの年代の作品なの。どこの工房で作られたか、わかっているの?」
「製造元は旧帝国領、現チェコスロヴァキア。東西戦争後の現在では帝国より独立を勝ちえた民主国家だな。戦後唯一、拝火教圏の人間を迎え入れた国家だ。元来、連なるモルダヴィアに拝火シンパが数多く居住していたからね」
「チェコ……」
「そう、チェコは……プラハは拝火と升天の意識が両立しうる数少ない場所でもあった。現在になって私設魔術結社への風当たりはずいぶん穏やかにはなってきているが、国外のプラハやエーゲ・マケドニアと比較すると、かなり多岐にわたって活動を制限される。升天教圏内の国家には、『蛇狩り』が目を光らせているからね」
『蛇狩り』については、アルマは良い印象を持っていない。
東部共栄国家保安省第三課、通称『蛇狩り』
旧帝国領オストマルクに本拠を構える、東帝国領政府直下の情報機関である。敗戦を迎え、東西に割かれた帝国の東側を統括するにあたって、大陸東部を手中に収めるオリエンス連合が戦後間もない国内治安の平定を目的に立ち上げた組織と知られる。帝政から共産政という社会システムの移行をスムーズに行う為の機関という聞こえは良いが、近年になってその実態が知られつつある今、『蛇狩り』に対し危惧を抱く識者は少なくない。
そもそも俗称にある『蛇』。これは東西大戦時に両国間を暗躍したといわれる人物の仇名『アジ・ダハーカ』から取られたものである。類まれなるカリスマ性と指導力を有した『アジ・ダハーカ』は東西戦争が終結した後も散発的な反連合活動を行い、大陸情勢に無用の混乱を与えた戦犯として現在は知られている。だが、その人物の出自は一切不明。『アジ・ダハーカ』とは称号やコードネームのようなものであり、一人の人間のみを指す単語ではないと主張する学者も存在する。
『アジ・ダハーカ』の影響力は現在でも根強く残っており、その国枠主義・移民および外国人排他の思想を支持する魔術結社も少なくはない。
『蛇狩り』とは東帝国領の監視に加え、『アジ・ダハーカ』的イデオロギー――――ノイエ・ヘレニズムに賛同するシンパに対する徹底的な弾圧活動を主目的としている。当然、その疑惑は東帝国民に向けられる事も少なくはない。反体制分子の排除を目的に掲げられた施策は、他ならぬ東帝国民への締め付けとなって現れたのだ。
「『アジ・ダハーカ』は、その英雄性と卓越した手腕から、一説にはかの勇者の末裔ではないかと囁かれる事もあったという。もっとも、例えそうであっても『蛇狩り』はそれを許しはしないだろうが。『アジ・ダハーカ』とは、本来拝火教に登場する三つ首の大蛇の邪神だ。拝火人の弾圧や虐殺を行ったとされる事から、組織の拝火人がこの名を付けて敵視するのも理解できる話じゃないか」
「そりゃあ、そうでしょうね……」
戦争当時、勇者――――戦争終結に尽力したと伝えられる聖人が一人、ラウラ・ベルギエン。彼は勇者の血脈と称される家柄の身でありながら、単身拝火国軍への協力を煽ぎ、見事戦乱を終焉に導いたとされている。拝火にとってもまさしく英雄であり、列聖されて然るべき聖人である。
「仮にアジ・ダハーカと聖ラウラが遠縁などというゴシップが広まれば……さて、どうなる事やら」
くつくつと音をたててにやけるカールは心底嬉しそうだ。
「まあ、ともかく今の『蛇狩り』には見境がない。升天教も拝火教も、猿人も馬人牛人も人魚も、神父も原エルフも牧師も巨人も、疑わしきはまず罰す。この子はそんな彼らの目を掻い潜って産まれた奇跡の子の一人といったところか。チェコにも『蛇狩り』はいないわけではないからね」
「やっぱりただの人形じゃあないんじゃないの……!」
怪訝な顔をしてカールを睨みつけるがなしの礫、仕方なくアルマはケース内の物言わぬ幼子に顔を向けた。やはり被造物らしく、有機物らしいあたたかみは表面的なもの。
そこには、生命の脈動は微塵も感じられない。