こいつ頭がおかしいぜ
すんすんとカールが鼻を鳴らした。どれだけランチの食材が傷んでいようが顔色一つ平らげるこの悪食が、多少カビたクラッカーやパン程度を気にするとはアルマには思えなかった。
やがてきょとんとした顔つきで、カールはアルマに言った。
「機嫌が悪そうだ。しかし体調の不良にも見えない。月のものももう過ぎている」
「あんたいきなり何言ってんのよ、バッカじゃないの……」
「そんなにおいがしただけだよ。君はなにか不愉快に思っている、憤りを抱いている。そんな気がした」
「あんたに対して愉快に思った事なんて一度もないわ」
とはいえ、この資料館に足を運ぶ際に気分を害された事実もある。あの鬱陶しい、もと家庭教師のリーゼだ。奇妙な責任感にかられていちいち小言をさしはさみ、ありもしない希望を吐き散らかす偽善者だ。
「なるほど」
再度ふだんのにたにた顔に戻ったカールは、納得したようにつぶやいた。
(そういえば、こいつ……)
初めて会ったとき、カールは自身をわざわざ魔術師と呼んだ。いまどき気取り屋の咒式設計士や政治家でもないのに魔術師を自称するなど、よほど才に自信があるか、よほど常識に欠けているかのどちらかだ。当初こそ後者だと思ってはいたが、
(ホリゾントでそう言うって事は、やっぱり『持ってる奴』ってわけか)
共感だか読唇だか、そんな高次能力の持ち合わせがあるのだとアルマは思った。
ホリゾントに入学してから、アルマは他人の魔術――――才について関心を持たなくなった。妬みの対象に執着したところで無駄だ、自身を苛むだけに過ぎない。アルマは『第一種』を取得していない自分より明らかに『格上』であったはずのカールをどこか下に見ており、だからこそこうして傍に捨て置いていた。が、こうしたかたちでの格の違いを感じてか、アルマは急激にカールへの感心を喪いつつあった。
「いや、心配しないでいい。わたしは『否定をしない』」
「は?」
予想外の応えに、アルマは思わず素っ頓狂に声をあげた。
「君と向き合うつもりもあるし、もちろん君が同情と感じるような触れあい方もしない。君を否定するつもりはないと言っているんだよ、アルマ」
「意味不明」
「友人と喧嘩をしたね?」
「喧嘩じゃない。糞うぜえから追い払っただけ。あんなん害虫よ。メンドクセーし鬱陶しいし」
「なぜかな。なぜその子をそんなにまで嫌う? そんなに厭かな?」
「当然。私があの女をどうして厭かなんて、あんたならすぱっとわかっちゃうんじゃあないの?」
「それは勿論。できれば君自身の声として聴きたかったまで。君は彼女を偽善の塊だと思っている……と?」
カールは微笑を崩さない。その瞳の色は、沖合に起こった渦の奥まった闇の色合い。たとえ横目であろうが、たちまち渦の奥へ奥へと不思議と引き込まれていくかのよう。
「アルマ、私は君を異端とも只人とも思ってはいない。これだけは前提として信じてくれ。君がたとえ『第三種』まで会得していようが、四本足だろうが、翼肢種だろうが、はたまた身体に何らかの障害をもっていようが、私は今の君と同じように接するだろう」
「障害と形態を同列に並べた形態差別発言。治安警察に通報してやる」
「まあ、聞いておくれ。『聞く事』は升天教の基本だろう。まずは常識という障害を取り払い、聞くべきものを聴き取るのだ。すべてをまずは『肯定』せよ」
「バカじゃないの」
「いいかいアルマ。よくお聞き。『ほんとうの魔術師は否定をしない』。君も優秀な魔術師として、よりよき未来をその手に掴み取ろうという願望はあるだろう? だからこそホリゾントにいる。だからこそここにいる。アルマ、否定とはすなわち『停止』だ。それは一番いけない。魔道の探求とはウロヴォロス的なものから産まれ、広がりゆくものだ。否定はその広がり、奔流を妨げる。アルマ、君は」
「あんたね」
バカにすんのもいい加減にしろよ、こっちはあんたをしこたまビンタしてやったって惜しかないんだからな。半ば激昂し、自棄ともいえる思考にまで感情が高まった。
「学生風情がベラベラベラベラ、あんたはお偉い哲学者か何か? ザケた事しゃべくりやがって。否定すんなだあ? あんな糞女にいい顔されてみろよ、一日四、五回は奴が汽車に衝突してバラバラになるとこ想像するようになるわ。てめーの仮面の裏側であたしを嗤ってる事くらいオミトオシなんだよ。そしてだ、あんたもその糞と同じでないという確証もない」
「そして私も彼女も、君を自慰目的で構っているという確証もない」
「あのさあ!」
「アルマ。否定はしちゃあいけない。受け入れ――――一部として取り入れろとまでは言わないけどね」
「あんたみたいに脳ミソあったかくできちゃいないのよ、こっちは!」
「否定は探求を阻害する。探究とは『哲学』の極意であり、人生の意義だ。人間はその場で足踏みばかりをしていられない、あまりその場で留まりすぎると進化など到底見込めない。そう、じきに――――そこのレバーパテのように、いずれは蛆がたかってしまう」
「否定しなきゃ私が損するわ。どうせろくなもんじゃない、だったら向き合うなんて時間の無駄じゃない」
「そこがやはり、否定を捨てきれない君のすこしいけないところだ。それではエポケーには至れない。一度でいい、君にはあるはずだよ。君以外は誰も見つけられず、君だけがとらえた『真と思われるもの』」
こいつ、本格的におかしい奴みたいだ。
どこかしら他の学徒とは違う雰囲気を普段から出していたが、ここまでおかしいとは――――多少感づいてはいたが、もうそろそろ潮時だ。苛々させる。結局はこいつも偽善者か。それなら耳を貸すだけ無駄だ、私の思考に入ってくるな。お前は『要らない』、どっかへいっちまえ。
アルマは勢いよく立ち上がり、ぎりぎりと歯ぎしりをしている間にも、
カールは笑みを崩さず、幼児をあやすかのように、ゆっくり語り続けた。
法則を捨てよ。先ずは蔓延る価値を殺せ
神を捨てよ。先ずは降った天使を滅せ
実存こそあまねく理性の真理、個我に優越するものは他になし
あまねく世界を懐疑せよ、先ずは数多の虚像を削ぎ落とせ
黎明の霧へ問い続けよ、先ずは己で名を与えよ
己が渇望を定めよ
無を有と為せ、有を個我と為せ
――――それこそが
我らが遺したる最上にして無二なる帝国の遺産
Heiligtum
カールの白い歯が、ちらりと覗いた。
「さあ若人。探究の魅力の一端を知りたくば、私にもうあとわずか時間をくれまいか?」