カール・クレヴィング
資料館の自習スペースには既に先客がいた。
あからさまに厭そうな顔をして見せたアルマに気づくと、先客は普段から緩みなくにたにた微笑をたたえている口唇に明確に表情を宿らせ、機嫌良さそうに彼女にあいさつした。
「ごきげんよう、アルベリヒ・マティウス・シュヴァイツァー! きみが海の向こうの皇国の映画について熱烈にわたしに語ってみせてから、そうだなあ……ああ、そうさ。73時間と39分32秒ぶりの再会だ。嬉しいよ、アルマ」
「そう」
顔を曇らせるアルマではあるが、彼女が自ら『指定席』と定めた場所は、先客のいる席のすぐ隣だ。蔵書庫のドアの右奥、窓のむこうで植樹されたイチョウの葉が風に揺れているのが、そして昼休みのひとときをやかましく過ごす学徒たちを内包している石造りの本棟が見える、そんな席だった。
高温多湿から守られる蔵書庫のはじに、申し訳程度に長机が並べられたお粗末な自習スペースではあるが、こここそが必修の講義を受けているとき以外のアルマにとっての聖域。本当に自習をしたいおりこうさんな優等生どもは後頭部本棟にある図書室や視聴覚室を使うだろうし、異性や友人たちと青春を謳歌なさっていらっしゃるお嬢さんたちを見て苛々する事もない。ここにたむろしているのは資料編纂の合間に横領した予算で購入したブリタニア茶葉の収集を余生の趣味と定めた天下りの司書のじいさんと、若者には見向きもされぬ無名の咒式設計士の著書、虫に食われた分厚い帝国史論文、中世期に時の皇帝が領内から蒐集して回ったという歴史的・文化的価値の大きい陶磁器やガラス製品――――の残りカスのみ。著名な物品の殆どはベルリンやミュンヘンの博物館へ移送済みであり、ゆえに当館の異名はホリゾントの雑魚網だ。
「どいてくれる……食事、まだなんだけど」
「ああ、いいとも。どうぞ」
しっしっ、と手で払いのけるジェスチャーをすると、先客――――カール・クレヴィングはにやにやしながら席を立ち、机を回り込んでわざわざアルマの向かいの席に座り込んだ。
昏い夜の海の色を連想させる長髪と、病的にまで白い肌。鼻は高く瞳は碧。アルマとは対照的に高等部の制服――――純白のブラウスに黒のタイを占め、ただしく折り目のついたプリーツスカート――――をかっちりと着こなしている。男受けのしそうな美人だが、口調や主張はどちらかというと男のそれに近い。声は女子にしては低めだし、かと言って変声期の過ぎた18の男子にも見えぬ。何度か本人に問い質したが、のらりくらりと追及をかわされ、ついぞ真の性別はわからずじまいであった。
そんな麗人カール・クレヴィングは、アルマがこの穴場を見つけてから数日たって彼女の前に姿を現した。消費期限切れのレバーパテの塗られたパンをもの欲しそうに眺め、すこし餌付けをしてやると懐かれたのか、三日に一度ほどの頻度でふらふらと現れるようになった。
「今日のランチは何かな。きみのおかげで、好奇に満ちた食への欲求は日々高まりをみせている」
「そう簡単に変わりゃしないわよ」
言って鞄より取り出したるは、いつもと同じ期限間近の安価な鶏レバーパテ、そしてカビた部分を切り落としたライ麦パン。アルマは味にも頓着はしないし、まともな料理もしない。できない。やらない。
眉をひそめるアルマの表情などどこへやら、カールは無遠慮にパンのおさまった小さなバスケットに手を伸ばし、レバーパテサンドにかじりついた。無警戒に人のものに手を伸ばすものだから、ここ最近は意図的に危険物をバスケットに忍ばせるようにしているのだが、まったくカールの胃腸には効果がない。
「先日のものより酸味が弱いようだ。こういった手合いは、もっと放置して熟成させた方が君好みではないのかな? 発酵食品と同じ趣があって、私は好きだな」
そうつぶやいて、ふたたび無遠慮に添え物の傷んだチーズクラッカーを手に取り、むしゃむしゃ食べ始める。次あたりカビたイワシの酢漬けでも仕込んでやろうかとアルマは思った。