アルマとリーゼロッテ
アルベリヒ・ヴォルフラム・マティウス・シュヴァイツァー 06/04/1932
「まだ気にしているのかい、あの子の手紙」
伝統ある高等教育機関の敷地には似合わぬ、一目では制服とわからぬ薄汚れた衣服をまとう長身の女――――アルベリヒ=マティウス=シュヴァイツァーは、背後からの呼びかけにも気づかぬふりをし、不機嫌そうに大股でずかずかと歩を進める。
午前の授業が終了し、育ち盛りの学徒の大部分が昼食をもとめて購買やホリゾントの市街へ出払っているなか、教室棟と資料館をむすぶ渡り廊下は喧騒から取り残され、静かだった。
そこには二人ぶんの靴音が響くのみであり、アルベリヒ――――アルマは未だ口を結んだまま。
「お待ちよう、どうして無視するの」
声の主は不服そうに言い、ぱたぱたと小走りでアルマの横へ並んだ。
アルマの腰ほどにも満たない小柄な体格はブリタニアの翼肢種、いわゆる羽を持つ妖精の血筋の持ち主の特徴である。大陸の帝国人を祖父に持つ彼女はブリタニア本土の妖精と比べると大柄であり、ともすれば帝国内ではビスクドールに間違えられそうなサイズだと言える。
ホコリを頭からかぶったようなアルマとは逆に、純白のブラウスと折り目のきいた黒のスラックスを清潔に着こなしている。赤のヘアバンドで留められた髪はグレーがかったブロンド。つやつやとした額の目立つ外見こそアルマより幼く見えるが、私服の彼女が在籍するのは帝国の誇る最高学府だ。
「べつに……不愉快なのと、読みたい本があるのとで忙しいのです」
「だから、気にする事はないって……どこかであの子も舞い上がっているところもあるんだ、ここホリゾントは名門も名門……」
ぼそぼそと声を立てずにぼやくアルマに対し、終始リーゼロッテ=ヴィルケは諭すように言った。
「じゃなければ、身内相手にあんな事は書かないよ。これから入学するっていうのに、どうして先輩でもある従姉妹に」
「甲斐性ナシのロクデナシ。合ってるじゃないですか、ぴったりだ。シュヴァイツァーの期待を一身に背負うだけの才も実力もあるお方から見たら、わたしがそう見えてもしょうがないでしょうね。ああそうですとも。『第一種』も取れない才能の搾りカスでしてよ」
「卑屈にならないでおくれよ。どうして君はそうやって……」
「そちらこそ……よほどヒマなのかどうかは知りませんけど、よく私なんかにくっついて歩いてきますよね、先生?」
嘲るように、そして慇懃にアルマはリーゼに言った。
「まだ私の先生ヅラしてくれるんだったら、お仕事でも何でも持ってきてくださいよ? このままじゃ私、このカッコのままホリゾントの駅のまわりでゴミ箱あさって生活する羽目になりますよ」
「アルベリヒ」
たまらずぴしゃりと遮ったリーゼだったが、当のアルマは伏し目のまま湿っぽくリーゼの顔を見下ろしている。卑屈さをたっぷり携えた、腐汁のあふれて来そうな濁った瞳。母親に似た端正な顔立ちも、生活態度の悪化による目脂と隈で蹂躙され、その目元がぎとぎとの前髪に覆われてしまえば、さながら墓場から這い出た屍鬼もかくやという有様。猫背で睡眠不足の目をしばたたかせるその姿を、名門シュヴァイツァーの家の者とは誰が気づく事ができるだろう。
「魔術が使えなくたって、働き口なんかたくさんあるんだ。心配しなくていい、卑屈になる事なんてないんだよ。だから」
「私ね、アンタのそういうところが嫌いなんですよ」
たかが元家庭教師が善人ぶって何様のつもりかどうかは知らないが、そういった目に見えるような『施し』は、アルマの最も嫌う事のひとつだった。望んでこの立場にいるわけではないが、見え透いた同情ほど彼女を苛立たせるものはない。
確かに、彼女とは旧知の仲の腐れ縁である。
十二のころ、はじめて第一種術式行使技能試験に落ち、母とともに消沈しているさなかに彼女は屋敷に雇われた。官僚の叔父が斡旋するだけあってか、リーゼは訳ありのアルマを純粋な学力だけで教授会を納得させるに至るという卓越した教育手腕の持ち主であった。その竹を割ったような影のない性格も、メイドや母の間では評判が良かった。
それだけに、アルマにとって彼女は妬ましかった。
もちろん勉学にはすすんで取り組んだ。しかし、プライベートにも執拗に干渉してくる彼女は本当に鬱陶しく、妬ましく、そして憎かった――――アルマという他人に施しを与えて、さぞ気持ちよかろうよ、本当にアンタは善くできた、『いいひと』だよなあ。
「誰が『アルベリヒ』だよ、ほんとムカつくなアンタ」
アルマはぎりりと奥歯を噛み、傍らに立つリーゼに向けて聞こえるように舌打ちをすると、着いてくるなと言わんばかりに踵を床へ叩きつけ、彼女を押しのけて資料館へと歩いていった。
「あたしはアルベリヒなんかじゃない……アルマだ、アルマなんだよ……!」