亡霊
早朝の市街は夜更けよりも閑静で、一日のうち最も冷え込んでいた。制服の上から毛皮のコートを着込んだフラン達の他、街道には誰もいない。イシュタルの住まう部屋に辿り着くまで耳にしたのは、クリアに響く靴音のみ。無論、フランは入学以来こんな時間に出歩いた事などなく、深夜とも異なる闇で飾られたホリゾントの街並みはいやに新鮮に見えた。
『別邸』のドアまでにかかった時間は徒歩でジャスト5分。
マグダ曰く、窓からイシュタルの部屋を確認できるような位置の部屋を確保するのにかなり生活課でごねたとの事。学部によって規定は異なるものの、法学部に籍を置く学生には総じて市内の寮への入寮が義務付けられている。この縛りさえなければイシュタルと二人で巣を築くことができたものの、とマグダはさらりと言ってのけた。口座にはいち学生には十分すぎるほどの額が納めてあるといい、加えて実家からの手切れ金含めての貯蓄は数万マルクにも上るという。場合によっては、土地ごとどこか安い物件を買い上げるつもりだったらしい。
マグダの、半ば絶縁状態の女特有の奔放さ、それゆえの金銭感覚にしても金額の規模が大きすぎる。
しかし普段のマグダからはさほど浪費家という印象は受けず、どちらかといえばフランの方が財布の紐がゆるい。校内の食堂ではフランの方が一品物を多く注文するし、連日のように学園近隣の書店街で少しずつの散財を積み重ねている。
極東は皇国の書籍をはじめ、フランの興味は文学の主流から若干ずれたサブカルチャーに向けられている。中でも関心を寄せているものに、数十年前に刊行された男色専門の同人誌がある。題は皇国の文字では鵬菊と書き、つむじ風や台風の擬人とされる鳥の神格である鵬の尾羽から菊の花弁が舞うレーベルマークが目印の文学雑誌だ。
当時界隈でもっとも人気があった作家というのが、フランも贔屓にしている女流文豪の伊庭寧々子。彼女の執筆した掌編が載った号ともなると、百マルク二百マルクは軽く飛ぶ。
購入するたび後悔が首をもたげる。しかし氏の作品では、升天教の持つ性的役割と観念が皇国内に流入して以降の社会で強かに生きる同性愛者の心的動向が重厚かつ軽やかな筆致で描かれ、差し挟まれる情勢への皮肉は購読者をたびたび唸らせる。
多感な頃の感性にがっちりと楔を打ち込まれているフランは、当初こそ飛んでいった紙幣の数に落胆するものの、すぐさま有り余る期待で気分を昂ぶらせてしまう。伊庭氏の作品群は訳者にも恵まれ、数十年の時を経て帝国内で翻訳された単行本が出版された際には小躍りして買いに走った。
フランは己の快楽の追及に関しては際限がない。マグダの倹約ぶり(それでも口座から数千マルクぽんと出すような少女だが)を見て自覚は芽生えてきたものの、意識的に衝動買いをなくすのにはまだかかりそうだった。
思えば、マグダにはモノへの執着がない。
飛竜に高価なティーセットを台無しにされた時も、イシュタルとの約束を果たせなかった事を除けば落ち込んですらいなかった。
何にもひとまずは興味を持ったように見せ、他人の語りたい事を好きなだけ語らせる。一を聞いただけで十や二十の内容を想定して応え、決して会話では相手を否定しない。常に笑顔を絶やさず、抑揚ある相槌を打つ。
おしゃべり好きな若い女学生たちには確かに受けそうな人柄だ、としか思っていなかったフランだったが、生活のほとんどを同じ部屋で過ごす間柄となれば必然的に会話は他人よりも増える。
他愛ない会話から、意図的な意地悪の応酬。そのどれもが心地よい充足感で終わっている。
肯定され、承認される事の快感を無償でもたらしてくれる同居人。
自分自身の事はそれなりに開示してみせたが、マグダ本人の事はほとんど知らない。そんな一方的なアンフェアさを、フランはどことなく感じていた。
「フランさん……おはようございます」
「おはようございます」
袖口にフリルの誂えられたピンクのパジャマ姿のイシュタルは、ぺこりと頭を下げて会釈した。
ぼうっとした目つきは眠気によるものでない、イシュタルは倦怠感を露わにふらふらとマグダに抱き付き体を預けた。汗ばんだ赤ら顔は、先日と比較しても本調子とはとても言い難い。
「大丈夫……ですか? 具合が悪そうに見えますが」
「うん……ああ、ちょっと熱がある。最近多いな」
「お医者様には診ていただきましたか?」
細身のイシュタルを軽々抱くと、マグダは彼女が出てきたであろう寝室へ歩いていく。
「前いた土地で処方してもらった薬と、解熱剤がある。悪いけど、お湯を沸かしてくれないかな」
「わかりました」
フランは指示通りキッチンへ足を向けた。戸棚にしまってあったアルミポットに水を張り、火にかける。マグダの言った解熱剤は、アルミポットのすぐ傍らにしまってあった。白い粉末の詰められた小袋を盆に載せ、しばしの間フランはポットの水面を眺めた。
沸騰する前にカップに湯を注ぐと、続いてフランは足早にイシュタルの寝室へ向かった。
寝室に置かれた巨大なダブルベッドの上では、満身創痍で横たわるイシュタルにマグダが寄り添っていた。銀の頭髪をマグダが撫ぜるたび、イシュタルは幼い外見に似合わぬ恍惚の呻きをあげる。
「辛いかい、イシュタル」
「すこし……頭ぼっとして、あつい」
「どこか痛むところはある?」
「平気……あのね、マグダ」
「なんだい」
「あの、ね……実は……ね」
ベッド横のデスクにポットと粉薬の載った盆を置いたところで、フランはイシュタルが自分に視線を投げかけているのに気付いた。
「ごめんなさい、邪魔なら席を外します」
「いや、いいんだ。イシュタル、彼女は大丈夫だ。君をおかしな子だなんて思わない。この前いっしょにお茶をしたろ?」
「うん」
「フランは私たちの友達だろ? なら、イシュタルの話すことも聞いてくれるよ」
ちら、とマグダがフランを見やる。
「え、ええ、もちろん」
「ね、イシュタル」
軽くマグダが額にキスをすると、少し俯いたのち安堵を覚えたイシュタルはとつとつと語り始めた。
「あのね……また、また来たんだよ」
「来た?」
「誰か……来たんですか?」
頻繁に訪れるとはいえ、寮生活を強いられるマグダが四六時中イシュタルを気にかけてはいられまい。不逞な輩がイシュタルに目をつけたとも考えられなくはないが。
「建物の管理人や、同じ住人の人ではなくて?」
「ちがい、ます」
「下調べは事前にうんざりするほどやったよ。妙な性癖を持った住民はいないはずだ。それに比較的新しい建物だ、外部から居住スペースに入るのには必ず正面入り口を経由する必要がある。警備会社とも契約しているし、何かあれば電話一本で警察もやってくる」
「じゃあ、誰が」
「ひょろひょろした、いつもの人」
イシュタルの発言を境に、マグダから笑みが消えた。快活な色香もまた霧消し、血の気が引いたかのように冷めた表情に切り替わる。
「どこにいた?」
「あの、ね……あの、向かいの、背の低いビルの、屋上」
舌打ちし、マグダはベッドから降りると大股で寝室から出ていった。
「クソタレが……!」
カーテンを勢いよく開ける音が聞こえ、やがて再び乱暴に閉じられる音が響く。数分しないうちに寝室へ戻ってきたマグダは卓に置かれた盆を手に取ると、イシュタルの傍へ座り込んだ。
「大丈夫だよ、イシュタル。頭のおかしい変態なんか、こんなところまで入ってくる勇気なんてないよ」
「うん……」
「そいつを見たのはいつごろ?」
「今日は……寝る前。それからずうっと頭あつくて、ぼうっとしてた」
すなわち、昨日の夜半といったところか。
「困った事があったら、すぐに寮に電話しろって言ったでしょう?」
「ごめんなさい……でも、すごく眠くて」
包むようにイシュタルの両目を手のひらで覆うと、マグダは身体を休めるよう促した。
「お薬飲んで、今日は寝ていなね。本も読まなくていい、楽にして」
手慣れた様子でイシュタルの口に粉末を含ませ、ぬるま湯を流し込む。こくん、と小さく喉を通る音が聞こえた。
「調子崩すと、納魂祭もずっと寝て過ごすことになる。きちんと具合治そうね」
「うん……」
イシュタルの寝息が聞こえてくるまで、マグダは彼女の小さな手を両手で握り続けた。
やはりその表情に表れていたのは、『動』でなく『静』のマグダのものだった。
リビングに場所を移した二人のうち、先に口火を切ったのはマグダだった。
「『ひょろひょろ』した変質者に、心当たりってない?」
「ひょろひょろした……?」
ソファに腰かけ、ローテーブル越しに相対するマグダの顔は厳しいまま。
「イシュタルの言っていた、いつもの人ってやつよ」
「私もホリゾントに越してきて間もないですからね。申し訳ないですけど、ありません」
「だよね……気持ち悪いな、ちくしょう」
「貴女が見かけた事は?」
「ない。私といるときも、いきなりあの子がそいつを見つけて……その後は、さっきみたいに頭が朦朧としてバタンキューよ」
「それじゃあ、これまで何度もその変質者を目撃していると?」
「そう。この部屋に移ってからは三度目。しかも……」
ソファから立ち上がると、マグダは先ほどのように大窓のカーテンを開けた。先日フランが初めてこの部屋に訪れた際に踏み入れたベランダがその奥にあった。
「私らの寮の部屋からは、この窓が見えてる。必ず、窓際のスタンドライトは点けたまま寝るように言ってあるから、昨夜はそれほど気にかけなかったんだけど」
「そのライトは点いていたの?」
「ああ。この目で確認してる」
パチパチと二、三度ライトのスイッチを弄ぶと、マグダはフランに傍へ来るよう手で促した。
「イシュタルが言ったビルっていうのは、たぶんあれだ。背の低いビルディング……道はさんだ正面のあれだ」
「ええ、わかります」
給水タンクと薄汚れた物干し台だけがぽつんとあるのみ、何の変哲もない屋上が見えるだけだった。
「その『ひょろひょろ』野郎……どうも、日をまたぐにつれて近づいてきているらしいのよ」
「近づいてって……どういう事?」
「言葉の通りだよ。イシュタルが奴を見たのはこの部屋では三度目……最初は私たちの寮よりもっと向こうのビルの上に立ってたらしい」
マグダが親指で指した先、確かにホリゾント学生寮5号棟の更に向こうには、ブリタニアのものを模したのであろう時計塔を備えたデパートメントストアの建物があった。
「で、二度目は私たちの寮」
「そういう事ですか……近づいているっていうのは。日ごとに距離をつめてきている、と」
「質の悪い変態クソ野郎か、それともどこかしらで咒式でもかけられたか。何にせよ、イシュタルの目には得体のしれないバカタレの姿が見えてる」
「何か特徴はないんでしょうか。本当に、警察に相談した方がいいんじゃないですか」
「ヒョロヒョロくねってる以外はイシュタルにも分からないらしい。あまり目がいい方じゃないというのもあるけどね。手足をブラブラくねくねさせたイカレ野郎の人影が、気がついたら視界の中に入ってるっていうんだ」
「彼女自身、何らかの疾患を抱えてる可能性は?」
「それが一番まずい。私はこの街に精通しているわけじゃなし、ヤブ医者にゃ診せたくないんだ」
世間的にはイシュタルは浮浪児だ。法的には養護施設に収容されて然るべきであり、下手をすればマグダ本人の責を問われる可能性がある。医者にかかるにしても、人選をしくじるわけにはいかない。
「寮で一緒に暮らせればいいんだけど、外部からのセキュリティはこっちの方が上なんだ。とすると、私が……」
最低限の校規違反はともかく、自身の首をかけて寮を空ける事をも視野に入れるマグダを見て、フランは思わず口を開いた。
「彼女との生活を継続してなお自身の環境の変容を実現するのなら、これ以上の校則違反は賢いとはいえません。いい加減、勘のいい生徒なら気づくでしょう?」
「でしょうねえ」
「だから、その……」
あえてばつの悪そうな仕草で焦らしつつ、フランは言葉を続ける。
「その変質者が捕まるまでは……私も違反の片棒、担いであげないでもないです」
「……え?」
「だから! 私もイシュタルちゃんが心配じゃないわけじゃなし、そうは言っても貴女がこのままクビになるのを指を咥えて見ているのも不本意……だ、だから……私もここの様子を見に来てあげてもいいって……わけで……」
我ながら支離滅裂で反社会的な主張に、フランは赤面した。
「それ本当かい?」
「嘘ついたってしょうがないです。私や貴女なら……そうですね、それぞれ一回くらいは恐らく大目にみてもらえるはずです。仮にも教授会墨付きの優等生、一発退学はまずありえません。だから、その可能性を分散させたうえでの……」
その無為な主張を言い終わるや否や、マグダは『動』の明るい笑顔を取り戻すと、力いっぱいフランを抱きしめた。
「助かるよ……本当に。素直にうれしいよ」
予想に反し、落ち着きある様子で耳元で感謝の意を囁かれた。
ようやく嗅ぎ慣れたはずのあの香りが強まり、またもマグダの脳は霞がかったようになる。マグダからの圧迫、マグダの体温、マグダの鼓動、そしてマグダの香り。五感でマグダを感じながら、この時フランは確かに『現在』を噛みしめていた。