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異界のウタ ~Arma virumque cano~   作者: 霞弥佳
マグダ来訪
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フランツィスカ

マグダレーネ・マライヒ・ヴィトゲンシュタイン 09/04/1932

 同居人のものであろう衣擦れの音でフランは目を覚ました。とはいえ、未だ完全な覚醒は程遠い寝ぼけまなこ。


 枕元に放っていた腕時計を確認すると、時刻は未だ4時過ぎ。学内の物好きが集うラジオ体操の一団の声も聞こえなければ、運動部のこれまた物好きな一部のみが行う朝練の気配もない。陽の昇りかかった黎明の時間、窓からの空はまだ藍に近い紫だった。


 半身を起こして相方のベッドを見るともぬけの殻、主は既に身支度を整えて鏡の前でタイを結んでいた。

 黒を基調としたジャケットとプリーツスカート、そして指定のストッキング。ふっくらとしたパフスリーブは着用者の身体をより引き締めて見せ、背後からでもマグダレーネ・ヴィトゲンシュタインの美貌を余す事無く感じさせる。


「おはよう……ございます」


 目をこすりこすり、フランは赤ぶちの眼鏡をかけて声をかけた。


「おはよう。起こしちゃった? ごめん、騒がしかったか」


 隣室への配慮からか、声を抑えながら明るくマグダが振り返る。首元には指定の黒のタイの他に、彼女の私物だろう深紅のチョーカーが白い首筋に巻かれていた。れっきとした校則違反の原因となるしろものである。室内の薄暗さと合わせておぼろげにも蠱惑的な雰囲気を漂わせていた。


 汚れひとつない白のレース付の袖口が黒との対比を引き立てており、そこから伸びる手指がきゅっとリボンタイを抓んでいる仕草すら様になっている。ほんの些細な、小指を無意識にぴっと立てている事すら目に留まる。改めて眺める同居人の制服姿は、いやに妖艶に見えた。それが学術に携わる礼服であるがゆえになおさら、フランの道徳を苛みながら嫉妬心をちくちく刺激する。どうして同じ制服を着ていながら、こうまで厭らしく目に映るの?


 スタンドライトの暖色系の灯りに照らされるマグダの痩身は、ややフランよりも筋肉質。ここ数日の同棲で、備え付けのシャワールームに入浴中何度か押し入られた事があった。水道代の節約だとか、湯が温まるまで待つのが面倒だとか題目はあったが、そのたびフランはマグダの肢体から目を反らした。同性とはいえ、何の覆いもなく裸体を互いに正面から見せあう趣味などない。


 しかし、こうして制服姿からでも想起するのは、ほんの一瞬目にしただけのつんと上を向く白い乳房と、そこから下った先に広がるうっすら割れた腹筋の織りなす凹凸。思考のうちで反芻すればするほどディティールは精緻さを増していき、また己の貧相な肢体との間にあるギャップを思い知らされる。


 わずかな嫉妬と羨望を呼び起こしかけ、ついフランは目を伏せてしまう。


「こんな早くからどこに行くんです。イシュタル……さんの件についてはともかく、あまり火遊びするのは……いかがなものかと」


 モラルと良心にかこつけた意地悪を、至極まっとうに吐きつけてみる。言葉を口にする前後こそ責を咎めたという優越がわずかに産まれるものの、しかしマグダ相手にそんなつまらない妬みを向けた事にあとあと後悔するまでがいつもの流れだ。彼女に生半可な嫌味を向けたところで、こちらが矮小な羽虫のごとく惨めになるような笑顔で返されるだけなのに。


「ご心配なく、イシュタルのところだよ」


「まだ、正門開いてないですよ……」


「抜け道なんかいくらでもある。なんなら、そこの窓からだって辿りつける」


「はあ」


「ほら、あの建物がイシュタルの……私たちの部屋。すぐそこだよ、何かあったらすぐ駆けつけられる」


「寮監がカンカンになりますが……」


「バレる方が悪なのよ」


「バラしますよ」


「なら口を封じましょう」


 お前がどうこう言ったところで、お前にメリットなんてないだろ?

 そもそも口だけの癖にさ。笑っちゃうぜ。


 見透かされているとも錯覚してしまう飄々としたマグダの雰囲気を前に、これ以上文句を垂れるのはよしたほうが賢明か。フランはベッドから降りると、自らも身支度をせんと洗面所へ向かった。ざぶんと冷水をふやけた顔面にぶちまけ覚醒を促すと、つかつか早足でリビングへ戻りクロゼットの前へ立った。


「おや?」


「何です」


「や、どういう風の吹き回しかと思いまして。付き合ってくれるの?」


「目が冴えただけです」


「へえ」


「むこうを向いていてください。わざわざじっと見ている必要ないでしょう」


「見ていてはだめです?」


「いけません」


「そっか」


 割かし素直に聞き入れたマグダは、くるりと転回し化粧台の丸椅子に座りこんだ。


 鼻からため息をこぼし、改めてフランは純白のブラウスに袖を通し始める。


 だいたい、私の裸見たところでしょうがないでしょうが。冷やかしも過ぎると嫌がらせと同じだっていうのに。


 自己評価に悩むフランにとって、快活を正面に掲げるマグダは眩しすぎる。同性から見ても憧れを覚えるルックスと、あの自信家で明朗な性格。刹那的且つ享楽をむさぼる無計画主義者と断ずる事もできようが、そうした思考停止はフランが最も忌む事だ。


 姉のように思考を停めてたまるか。


 さりとて、マグダと比較してこの鏡に映る憫然たる痩せた肢体を見る度に目を背けたくなる。


 マグダとは異なる陰気な白い肌、平坦な胸に浮き出る、青みがかった影をたたえる肋骨。骨と筋張ったその身体は、メメント・モリを謳う骸の葬列を思い出す。活力あふれるマグダとは正反対、無意識に皺の寄る眉間に気づくと、意図せず涙ぐんでしまうほどには情けない。


 高等部には次席で入学したフランであったが、その事実もまた自尊心を隅から突く結果となった。入試成績主席のベルンハルデ・ヘンシェルは、いち公務員の家の出でありながら、その卓越したセンスと知識量はフランを上回り、教授会においても一目置かれる存在と聞く。


 魔術の名門シュヴァイツァーの庇護にあるフランにとって、これほど目障りに感じた存在は姉とこの秀才のほかにいまい。


 ただ入学当初こそベルンハルデにはそこまで意識は向かず、素直にその優秀さを讃え、むしろ尊敬すら抱いていた。最も身近な存在であるマグダレーネ・ヴィトゲンシュタインの持つ才を感じ、自分の矮小さに気づくまでは。


 学力的にはフランやベルンハルデと同等、すなわち上の上の地頭と知識を持ち合わせているものの、語学力の面でのみ僅かに劣っていた為に主席争いへ滑り込めなかったマグダは、しかし持ち前の人当たりの良さと身体能力、極めつけはその美貌で一躍学年の人気をベルンハルデと分けた。


 分けたとは言っても二分するほどではないのだが、とにかく女子生徒からの人気は目を見張るものがある。彼女の豪放磊落で父性的な印象の受けが良いのか、寮のポストに恋文を投函してくる者まで出る始末。


 マグダの人気が膨れる度、同居人である自身はより一層居た堪れなくなる。

 

 このフランツィスカ・オルブリヒトは、本当に『蛇狩り』に相応しいエリートたりえるのか?

 

 このマグダレーネ・ヴィトゲンシュタインという太陽の輝きに預かる月でしかないのではないか?

 

 私は一体、何を拠り所に生きればいい?


 そんなものは決まっている。


 そうさ、まだ私にはシュヴァイツァーと、叔父様から墨付きを頂いた才がある。誰にも負けない魔術の才、いずれはあのベルンハルデ・ヘンシェルをも凌いでみせる。


 姉が至れなかったところまで、私が昇りつめてやろうではないか。未だに姉に固執するリーゼロッテ・ヴィルケも、私の側へ解き放ってやる。ゆくゆくはシュヴァイツァー、そしてあの姉も私が飼ってやろうじゃないか。


「フラン?」


 親しげな同居人の呼びかけに、どきりとフランは肩を震わせた。


「なんだ、もう着替え終わってるじゃない」


「え、ええ」


「じゃ、行こっか。一階にさえ着いちゃえばこっちのもの、あとは勝手口からさささっと行っておわりっ」


「勝手口? 初耳ですが」


「一階に詰めてるおじーちゃん、わかる? いつ見ても部屋で舟漕いでるあの」


「ああ、分かります」


「あのおじーちゃん、たまの休みには森まで出かけて兎だの何だの狩りに行くのが趣味なのよ。で、その時持ってく鉈だの網だのが農具と一緒に詰まってる倉庫があるんだけどさ。そっからパッと出てピッと行くだけ。簡単しょ」


「そういうの……どこで見つけてくるんですか」


「んと、先輩とか? 八年留年してる先輩にキスさせてあげたら教えてくれた」


「貴女、いつか痛い目見ますよ……」


「こっちじゃ本番しないからいーの。それにちゅーさせたのはほっぺだからセーフ。ほら、急ご」


 ついにフランの嫉妬は、見知らぬ高等部十一回生の唇にまで及ぶ羽目となった。


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